晴天の一日。
部屋の中にいても、爽やかな風が入り込んでくる。
窓から見える観音山の新緑が美しい。
腰の痛みはまだある。
けれども天気がよすぎてその気持ち良さで痛みが相殺されたかのよう。
少しずつよくなっているのかもしれない。
たいして仕事もしていないから、体力的には余裕があるはず。
体力の他に脳的な余裕もほどほどに必要で、脳的に余裕があると心身ともに痛みが和らぐ、ということは実際にあると思う。
体と脳は不可分だとしても。
昨日のような日の脳はもろに腰の痛みを感じやすく、あるいはダメージも受けやすい。
人の話を聞くのも大変だし、言動に左右されやすくもなる。
脳的な余裕のためには、たとえば腸を元気にするとか、体を冷やさないようにするとか、ちゃんと愛されるとか、いろいろあるだろう。
南の国に移住するなんていうのは、まさにそういうことだと思う。
私はやらないが。
結局人間は自然の生き物であり、自然環境に左右される。
同時に、やっぱり関係の生き物で、ある程度の健康管理のその先は、他人とのやり取りの中で脳の余裕は決まってしまう、というのが、ごく普通、だと思っている。
自分が脳的に余裕が持てる他人だけが周りにいる人生なんて、そうはない。
そのことに私は7、8年前に気が付いて、あるいは若かったから、脳的な余裕欲求過多のみっともなさにも気づいてしまって、なんだかよくわからなくなった。
わからなくなって、けれども目の前の様々な人間関係の問題は大小しっかりあって、そこにひたすら向き合っているうちに、暗いところへ行ってしまう人間、になってしまった。
このままではきついな、と実際に思ったかどうか、まずいな、とは思った。
暗闇で溺れるかもな、とか。
今も思っているけれど。
暗いところへ行ってしまうのがまずいんじゃなくて、それは逆に大事なのはわかっていて、何がまずいって、一人で暗闇にいるのがまずい。
正確には、暗闇にただいるのではなくて、そこに光を当てる作業をずっとしているのだけれど、時々しんどくなって闇のまま放置してしまうのがまずい。
そうして、何をしてきたかと言うと、闇と他人をつなごうとしてきた。
闇と他人をつなぐためには、まず他人の闇を認めなければならない。
可能な限り。
そこの、闇に光が当たると、ときに脳的な余裕を他人が私に与えてくれる。
そのとき私の闇に、光が当たる。
そうやって、どうにか溺れずにいる。