2368声 ジャッジにまつわる話

2015年04月03日

何かのジャッジに誰かが翻弄されている場面を見つけると、他者へのジャッジをやめることで平和は訪れてしまうということもあるんじゃないかと考えてしまう。

それが減らせたら、医療費も軍事費も減らせるんじゃないかとか。

ジャッジは圧力にもなる。

他者へ向けたジャッジが多ければ多いほど、圧力の強い空気になる。

ジャッジに翻弄されやすいというのはデリケートな状態なわけだけれど、自分の基準を持てずにいる結果翻弄され安くなっている、ということもある。

だから翻弄されやすい自覚があるなら、基準を持とうとすることも必要で。

ところが基準を持つというのはジャッジが始まるということでもあるから、外からのジャッジに恐れを抱いている人にとっては、自分で下す自分のジャッジにも他者を介在させて怖さを感じてしまうということがある。

ややこしいけれどそういうことが勝手に脳の中で起こるのだと思う。

逆に基準を持つことが他者へのジャッジの始まり、みたいなこともよく起こる。

こちらの方が頻繁に起こる。

あんなにジャッジされるのが嫌だったのに自分が基準を持つと他者をジャッジし始めてしまう。

でも今日はそっちの話ではなく。

翻弄されやすい側の。

自分の基準を持つことで、持とうとすることで、他者からの圧力を少しでもかわせるようになることがある。

他者からの圧力に翻弄されにくくなるというのは、実はその瞬間に他者を受け入れることができたということでもあって、面白いのは、と同時に自分を受け入れている、ということが起こるということ。

あぁ、この翻弄のされやすさは自分を受け入れることができてなかったということだったんだ、に気づくわけ。

逆に言えば自分を受け入れる、というのは、ジャッジに翻弄されないようになる、ということなのだと思う。

わかりにくくなってしまったけれど、そんな風に人間は複雑で、ある面においてはとても理にかなっている。

でもこれ、もしかしたら順番は逆かもしれない。

基準を持つ、が先じゃなくて、基準を持つためにまずする必要のあることがあって、ジャッジに翻弄されやすい自分を認める、ということがまず先かもしれない。

まずジャッジに翻弄されやすい自分を受け入れる、がないと、その寒さを受け入れないと、その後基準らしきものが生まれてきたとしてもその基準がゆがんだものになってしまうから。

寒さに耐える、そこがスタートかもしれない。

だとしたら、寒さに耐えるためにはどうすればいいのかを考えなくちゃいけないのか。

その先もあるかもしれないが疲れてしまった。

寝ないと仕事に差し障りがある。