515声 心のネガ

2009年05月29日

先日、銭湯入口に屯する一番湯待ちの湯客に加わって、
今や遅しと、開店を待っていた。
私の目的は、一番湯前の撮影にあるのだが、湯客たちの挙措からは、
一番湯を争う熾烈なレースが予想される。

その中、草臥れたランニング姿のおやっさんが、おもむろに向かい側の塀へ身を寄せた。
その顔一杯に、含み笑い、と言うよりも、企み笑いと言った風な、怪しい笑いが浮んでいる。
チラチラと、塀から顔を出して往来を覗いているので、やっと、隠れているのだと分かった。
その内に、往来から、おやっさんと同じ年配と見受けられる、
スラッとしたおばちゃんが歩いて来た。
腰を落として決行を待つ、おやっさん。
計画の全貌を理解し、その光景を息を呑んで見守る、向かい側の私等湯客。

「わっ」
塀から、蛙の如き格好で飛び出す、おやっさん。
寸前で避ける様にして、何事も無く一瞥をくれる、おばちゃん。
すんなり私等の所まで来たおばちゃんは、おやっさんに、
敗北者の引導を渡すべく、捨て台詞を吐く。
「アンタ、塀の裏にいるの、分かってたんだよ」
はにかんで、照れ臭そうに笑みを漏らす、おやっさん。
まさに、鼻垂れの悪餓鬼そのものである。

程なく戸が開き、それぞれの湯に、パチンコ玉の如く突進して行く私等。
先程、お気に入りのおばちゃんを、脅かし損ねたおやっさんなどは、
その頭の風貌から見るに、パチンコ玉そのものである。
一番に浴室へ入る事に成功した私は、
靴下を濡らしながら、一心不乱に浴室内でシャッターを切る。

何枚も写真に写したが、本日のベストショットは、
心のネガフィルムに写っている光景である。
それは、塀に隠れているおやっさんが、向かい側にいる私等に向かって見せた笑顔。
顔の前で人差し指を立てて、無垢で嬉々とした笑顔を浮かべていた、おやっさん。
向かいに居る私等に向かって、「シーッ」、だって。