647声 夜の床屋、最後の客

2009年10月08日

「まぁ、思った程ではなかったですね」
第一声を発した私は、てるてる坊主の如き恰好で椅子に腰かけている。
「そうですね、まぁ、良かったですね」
店主は相槌を打ちながらも、眼光鋭く私の髪の毛に鋏を入れている。
ドアの外は、台風一過で澄んだ空を、宵闇が包んでいる。
私の友人でも、床屋、つまり理容室で無く美容室へ行って髪を切っている者が多い。
むしろ、大半の行きつけが美容室と言える。
私は未だかつて、美容室に行った事が無い。
故郷で暮らしている時も、他郷で暮らしている時も、理容室に入る。
美容室が嫌いで、取り分け理容室が好きと言う訳でも無いが、美容室には足が向かない。
そこに確固たる理由は無いが、小さなが要因がある。
理容室での顔剃りが好きなのだ。
美容室では顔は剃らないと聞く。
今日もそうだが、非常に髭が深く剃れており、
顔を剃った後には、心地良い爽快感がある。
あの蒸しタオルと、刷毛で泡立てたクリーム、そして切れ味鋭い肉厚な剃刀。
これを味合わないと、神社へ行って賽銭を投げない様で、心地が悪い。
髪を切ったと言う満足感に、多大に影響する。
すっかり夜も更けた窓に、店主がブラインドを閉める。
今日はどうやら、私で最後の客らしい。
蒸しタオルを取って、刷毛で顔にクリームを塗り、喉元から顎へ向けて剃刀を当てる。
目を閉じつつも分かる、疲労の色が濃い店主の挙措。
その時不意に、志賀直哉の短編「剃刀」を連想し、一つ息を飲んだ。