3597声 ディテールがわからない

2016年09月15日

そろばん塾の生徒たちの声がうるさいと、男が斧を持って塾に押し入ったらしい。
静けさに対する権利感覚が昔に比べると強くなっていることの一つの表れでもあると思う。
今日お客さんと話をしていて、コンベンションホールや新体育館の工事の話になった。
コンベンションホールの工事などはまさにこれから始まるのだが、そのすぐ近くに住んでいるその方は、高齢の親はこの工事で死ぬんじゃないか、と言っていた。
工事の音に対するストレスの話である。
聞いていて、まんざらでもないなと思った。
普段当たり前にある静けさが保たれないのはストレスになる。
高齢であれば、それが大きな負担にもなるだろう。
そんなことで死ぬはずがない、と言える状態の人がいるとするならば、それは体力があるからそう言えるのだと、体力のある人は気づきにくいものだ。
高齢者をはじめとする体力弱者の訴えが通りにくいのは、体力のある人間が世の中を動かしているからである。
体力のある人間は、ディテールに気づきにくい一面を持つ。
気づくことを必要としないからである。
そういう意味では、よく言われる現代の若者が昔と比べて体力がなくなっているというのは、それによってときに斧を持ち出したりもしてしまうこともあるが、一方では、その体力のなさは感度の高さでもある。
もしかしたら、芸術や教育の分野で活躍できるような人間は、増えている可能性もあるのかもしれない。
大事なのは、気づいたことを発信していい、という雰囲気が世の中にあるかどうかである。
主張しやすい雰囲気でないから、斧を持ち出すのだから。
クレーマーなどというのも、彼らが存在できる雰囲気にあるのは、悪いことではない気もする。
問題があるとするならば、それはクレームを受ける側が、体力がありすぎて、ディテールに気づきにくくなっている場合はあるかもしれない。
体力がなくて、そのためにディテールをしっかり把握できる、そういうクレーム処理者が必要なのだと思う。
ただ、斧を持ち出してしまうのは、自分に不満のディテールがあることはわかるがそれをきちんと把握する体力がないから斧を持ち出す、という一面もあるだろうから、ディテールの詳細説明を持ってクレーマーに対峙したとしても、本人がうまく自己理解できていないのだから、その対処がうまくいくかどうかはわからない。
難しい。

体力不足で欲しいのはディテールの理解よりも慰め、だったりもするし。
俺が考えることじゃないはずだ。

今日は、十五夜だったが曇り空で月が出なかった。

明日は見られるだろうか。