昨日、私が車上狙いの盗人から、財布の銭を盗られた間抜けな話を書いた。
そして、その盗みの才能を、堅気な仕事へ活かした方が得策ではなかろうかと言う旨を、
犯人宛てに忠告した。
数少ない読者の方、数人から気遣いのメールを頂いた。
ともあれ、近しい知人たちなので、わたしに直でメールが来る。
心配性の人たちが読めば、私はなんて危機感の欠如した人間なのだと言う事になる。
車上狙いの犯人をして、盗みの才能ある人物と言わしめているのだから、私も暢気だが、
実際に現場に直面し、そう感じた。
色川武大さんのエッセイに、こんな話がある。
小学4年生の色川少年は、或る日、駅の改札口近くでスリに遭ってしまう。
結局、犯行は未遂で終わったのだが、その鮮やかな手口に感心してしまうのである。
芝居に寄席に野球や相撲。
芸事の好きな少年は、一連のその犯行を、「個人芸」と見なす。
そして、引っ込み思案な自分には、「合ってるかもしれない」と思うのである。
その日から、スリの名人になるべく、国電の車内でスリの練習を始めてしまう。
まるで、忍術にあこがれる少年の様にである。
ひと月以上経ち、他人の洋服や手提げの中の財布の在処に、
大体の見当が付くまでになった。
さぁ、目当ての物まで20cm、手を伸ばせば、と言う所へ来て、手が出ない。
其処を睨み付けているばかりで、駄目なのである。
とうとう、自分には才能が無いと思って、(めでたく)諦めてしまう。
やろうったって、容易に出来る事ではない。
無論、絶対にやってはいけない、卑劣な犯罪である。
曰く付きながら、やはりそれが出来るのは才能なのだ。
何にせよ、一つの道を求道する事は、大変難しい。
そして、「いっぱし」になるのは、もっと難しい。
私など、これならばいっぱしと言える様な事が、一つも無い。
趣味の一つである楽器を見ても、エレキにアコースティックにベースギター、
おまけに三味線にまで手を出して、まるで節操が無い。
書き始めてから、もうじき丸2年が経とうかと言う、
この「鶴のひとこえ」だって、やはりいっぱしとは言えない。
まるでなっちゃいないんだ、まったく。