「目の付け所」
の事に付いて、友人、知人から言われる事がある。
流石に、面と向かって「悪い」とは言われないが、「良い」とも余り言われない。
「変わっている」と言われる事が、一番多い。
この場合の「目」と言うのは、狭義の意味で着眼点であるのだが、
私は広義の意味で、「感覚」と解釈している。
だから、「感覚の付け所」と言う方が、私なりに説明が付けやすい。
それが、「変わっている」と言うのである。
そう、目の付け所なんて、そんな大層な物差しを持って、物事を測る能力は、
私には皆無である。
目の付け所、すなわち着眼点と言うのは、その後の結果を見込んだ狙い。
だと思っている。
「株式売買で高配当を得た」
なんて人は、目の付け所が良いと言えるのだろう。
しかし私のは、「結果を見込んだ狙い」ってのが無い。
ただ、「感覚的」に目当てを決めて、行動しているだけ。
闇雲に切った舵の方向に、氷山があるかも、はたまた滝壺があるかも知れない。
その見当を付ける時は、いつも「感覚」に頼る。
なんだか、抽象的な内容になっているが、結果的にそうなっていると言う話である。
そう言えば、「ガチャポン」ってのがあるでしょ、
別名「ガチャガチャ」とも呼ばれている、店頭なんかでよく見かける機械。
100円玉を入れてレバーを回すと、玩具の入ったカプセルが出てくる、自動販売機。
アタリが中々出ず、回しても大半がハズレで、得体の知れないゴム人形の玩具やら、
子供だましで安普請な玩具が入っている。
子供時分、私はアレが好きだった。
小遣いを1,000円貰って、その日に10回、ガチャポンマシーンに注ぎ込んでしまった事もある。
目の付け所が良い人間は、少ない小遣いで非効率的な浪費はしないだろう。
しかし私は、「感覚」だけに頼って勝敗を決める、ガチャポンに魅かれた。
その頃から、無意識に、目の付け所でなはく、感覚の付け所を重視していたのだろう。
アタリでなくとも、「何か」良い玩具が出そうな空気を感じた時に、
ガチャポンのレバーを回す。
幸か不幸か、いや不幸の方に幾らか分があると思うが、
人生においての重要な岐路に立った時も、感覚的に決めている傾向がある。
その結果は未だ出ていないが、今の所、「変わっている」と言う事になっているようだ。