759声 感覚の付け所

2010年01月28日

「目の付け所」
の事に付いて、友人、知人から言われる事がある。
流石に、面と向かって「悪い」とは言われないが、「良い」とも余り言われない。
「変わっている」と言われる事が、一番多い。
この場合の「目」と言うのは、狭義の意味で着眼点であるのだが、
私は広義の意味で、「感覚」と解釈している。
だから、「感覚の付け所」と言う方が、私なりに説明が付けやすい。
それが、「変わっている」と言うのである。
そう、目の付け所なんて、そんな大層な物差しを持って、物事を測る能力は、
私には皆無である。
目の付け所、すなわち着眼点と言うのは、その後の結果を見込んだ狙い。
だと思っている。
「株式売買で高配当を得た」
なんて人は、目の付け所が良いと言えるのだろう。
しかし私のは、「結果を見込んだ狙い」ってのが無い。
ただ、「感覚的」に目当てを決めて、行動しているだけ。
闇雲に切った舵の方向に、氷山があるかも、はたまた滝壺があるかも知れない。
その見当を付ける時は、いつも「感覚」に頼る。
なんだか、抽象的な内容になっているが、結果的にそうなっていると言う話である。
そう言えば、「ガチャポン」ってのがあるでしょ、
別名「ガチャガチャ」とも呼ばれている、店頭なんかでよく見かける機械。
100円玉を入れてレバーを回すと、玩具の入ったカプセルが出てくる、自動販売機。
アタリが中々出ず、回しても大半がハズレで、得体の知れないゴム人形の玩具やら、
子供だましで安普請な玩具が入っている。
子供時分、私はアレが好きだった。
小遣いを1,000円貰って、その日に10回、ガチャポンマシーンに注ぎ込んでしまった事もある。
目の付け所が良い人間は、少ない小遣いで非効率的な浪費はしないだろう。
しかし私は、「感覚」だけに頼って勝敗を決める、ガチャポンに魅かれた。
その頃から、無意識に、目の付け所でなはく、感覚の付け所を重視していたのだろう。
アタリでなくとも、「何か」良い玩具が出そうな空気を感じた時に、
ガチャポンのレバーを回す。
幸か不幸か、いや不幸の方に幾らか分があると思うが、
人生においての重要な岐路に立った時も、感覚的に決めている傾向がある。
その結果は未だ出ていないが、今の所、「変わっている」と言う事になっているようだ。