777声 滑り台の上

2010年02月15日

「あっ」
と、気付いた方、そうなのです。
日刊「鶴のひとこえ」は、今日で、777回目。
ぞろ目。
賭博打ちの方々は、この数字を見ているだけで、落ち着かない事でしょう。
博打には縁の薄い私でも、何だか、眺めているだけで、
徐々に気分が高揚してくる感覚です。
この「高揚」ってのは、とても重要な働きをする。
と言う事実は、毎日こうやって、何らかの文章を書く様になってから、分かった。
万年筆を持って、白紙の原稿用紙を前に。
と言う状態なら、幾分味があるのだが、実際はそうではなく、PCのモニターの前で、
キーボードに手を置いて、思案に暮れている。
勿論、書くべき内容を、である。
しかし、その為にはまず、思考の底に落ちている「構想」を引き上げる作業が必要なのだ。
その作業が出来るだけの、モチベーション。
これを、どうやって捻出するか、それが問題なのである。
それを、荒々しくも、解決してくれるのが、この「高揚」なのである。
この「荒々しくも」ってのは、高揚の奴は、後先も考えずに、
人の背中を「ぽん」と押す感があるからなのだ。
例えば、滑り台。
階段を上って、台の上に座り、今まさに滑り下りようとしているのだが、
踏ん切りが付かない。
それは、文章を思案している状態に近い。
恐怖感とがっぷり四つに組み、安全性を考慮した滑り方を確認している。
その途中、不意に、背中を押す奴がいる。
意表を突かれ、滑り落ちて行く最中、振り返ると台の上に佇んでいのは、「高揚」。
背中を押された私は、気付けば無事に、滑り台を滑り降りている。
その状態は、文章を書き終えていると言う事なのだが、
「滑り下りた」と言うよりはむしろ、「転がり落ちた」と言える。
一応の所、着地はしたのだが、滑っている最中の経過、つまり文章構成は、
覚束ない。
その結果は、粗製濫造に結び付く。
それでも、粗製無造よりは良いではないか。
そう言う解釈を受容して、時に、高揚に背中を押されるのを、待っていたりもする。