4320声 働けないの中身

2019年09月13日

急に涼しくなった。千葉の方々は大丈夫なのか。働くことについて、この一年くらいずっと考えている。なぜかというと、働けない、を前提とする従業員がいるからである。そんかことがあるのか、と戸惑うことが未だにあるが、働けない、を前提とする彼は、自分の中にだっている。他の従業員の中にもいる。子育てをしている方がよく、子供に育てられるという話をするのを聞くが、子供を育てたことのない私はこうやって従業員のことを考えることで自分が育てられてしまうこれも、子育てだと思う。働くことは大なり小なり大変である。働くことは労働に違いないのだが、うちの従業員は働くこと=労働という感覚が乏しい。労働とは大変さに向き合って越えていくことなんだが、それが脆弱である。向き合えない自分をすぐに肯定してしまう。今までそれは、私が甘いからだと思っていたがどうもそうでもない気がしてきた。私がそもそも、働くこと=労働という感覚がないからである。仕事は、やりたいからやっている。もちろん大変さはあるし、大変さを乗り越えようと努力もしているが、主体的である。この、主体的であるかどうかはあまり重要ではないとも、この頃思うようになった。なぜかというと、主体的なやつは、自分のためにしか動けないという場合が多いからである。逆に言えば、主体的でないやつの中には、他者のために動けるという大事な能力があるやつがいるからである。主体的にも他者のためにも動けないやつ、というのが難しいのだが。たくさん働きたいか?と聞かれたとき、なんと答えるか。たくさん働きたい、と、たくさん働ける、は違う。聞きたいのは、たくさん働けない様々な現実を前提として、もっとたくさん働きたいと思っているかどうかである。それは、うちの店で、でなくていい。要するに、命を使い切ってから死にたいか、ということが聞きたい。使うのが怖い、も、使いたいけど使いものにならない、もよくわかる。それでも使いたいと真面目に思っているか?という質問である。せめて、命を使い切ってから死にたい、ということの尊さだけは、気づけるようにしてやりたい。