4353声 25)内的必然性

2020年03月25日

「内的必然性」。それは、日本映画学校時の講師であり、オウム真理教に切迫した『A』や、東日本大震災後の『遺言 原発さえなければ』といったドキュメンタリーをプロデュースした安岡卓治さんから聞いた言葉だ。もう18年前くらいに聞いた言葉であるにも関わらず、今も大切な言葉として心に残してある。

 

何かの表現を、依頼されて作るもの、依頼されずに作るもの、と2つに分けた時。仕事として受けるのはほぼ前者である。だが、学生の時などは誰に求められるでもなく映画を作らなくてはならない。そんな時、「誰かが必要とするものじゃない、お前自身が今これを表現したいというものを突き詰めて、それを表現せよ」という事を表した言葉が「内的必然性」という言葉だったように思う。

 

当時の僕は、映画シナリオを書いてもパッとせず、ドキュメンタリーならシナリオ書けなくても作れるんじゃね?という軽い気持ちでドキュメンタリーゼミに入ったがコミュ力不足にすぐ頓挫。結果「久しぶりに電話をしてきたある新興宗教の勧誘をする知人の知人に対し、僕カメラ向けるけどいいですか?」というドキュメンタリーを作った。でもやはり最後まで人にカメラを向ける勇気が持てなくて、カメラは次第に自分自身が今信じられるもの、実家近所の風景や、親父が撮った家族の8ミリフィルムを撮影するという・・つまりはわけのわからない一人制作のショートドキュメンタリーが完成した。そんなものでも、安岡さんは評価をしてくれた。それは多分、他者には一向に伝わらないが、内的必然性には満ちたものだった。それを作り、見てもらい、ほんの1人の評価を得る事で、僕は救われた。

 

東日本大震災後にも見られた傾向だと思うが、あの時以上に、様々な人が己の「内的必然性」を問われている。人に媚びる必要はないが、それが独りよがりなものではなく、他者を魅了し、癒し、共有できるものであればなおさらに良いと思う。なぜそれをするのか?・・その根源にあるものの自覚をしていきたい。