1219声 時代の中の季題

2011年05月03日

ゴールデンウィークの後半くらいは、何処かに出掛けようと思っている。
「思っている」
と言う事は、現在時刻午前9時だが、未だ、自宅に居る。

先月末に、遅咲きの桜で、吟行及び句会をする予定があった。
鼻の具合が悪く、その予定をキャンセルしてしまったので、
何とも、心残りがある。
しかし、五月に入った今時期に桜を見よう。
ったら、群馬県内でも、相当山間部へ行かねばならぬ。

難しい。
と言うのは、桜と言う季題に対して、いつも感じる事である。
俳句で、たんに「花」と言えば、「桜」をさす。
それほど、日本人にとってはポピュラーな花であり、
伝統的に愛でて来た花である。

桜を題材にした作品は、我が国の文学史上、夥しくある。
そのどれもが、綺羅、星の如く居並んでいる。
和歌に短歌に、俳句に川柳。
この季題に関しては、古典がぐっと近づいてくる。
こと、俳句に限って言えば、思い浮かべるのは、貞室や芭蕉、蕪村に一茶。
そう言った俳人の、江戸時代を彩った句ばかりである。

これはこれはとばかり花の吉野山   貞室
さまざまの事おもひ出す桜かな   芭蕉
花に暮れて我家遠き野道かな   蕪村
夕桜家ある人はとくかへる   一茶

むしろ近現代の名句の数々を思い浮かべる。
と言う者は、日々、俳句に親しんでいる、所謂、玄人であろう。

樹齢何百年と言う、長寿の花であるから、
そこから生まれた作品もやはり長寿である。
古典から離れて、しかし、乖離はせずに、
桜の句を読もうと、俳人たちは苦心する。

銭湯で上野の花の噂かな   子規

苦心ばかりでは面白くないので、こういう風に、肩の力を抜いて読む。
と言うのも、一興で、大切な事であろう。
そして、今年の所謂、俳壇には、「震災下の桜」が多く詠まれている。
それもまた、大切な事である。
あらゆる文芸作品は、常に「今」を意識する必要がある。
それは勿論、時代の中に生きている自分の、「今」である。

【天候】
朝より薄曇り。
曇りだが、空は明るい白さを保ち、終日、暖か。