器にしてもアートにしても、ものそのものの価値に関して、作り手の存在は関係ないという話はある。
性格がめっちゃ良い人が作ったイマイチな茶碗と、性格がめっちゃ悪い人が作った素晴らしい茶碗。人を知らず茶碗だけ見れば、支持されるのは、後世に残るかもしれないのは明らかに後者である。
であるから、ものは作者不詳であっても、不詳であるからこそ流通する。であれば、人を含めてのものの評価は間違っているかと言えばそんな事はない。
今日は「秋、酒蔵にて」の三輪途道ブースにわりと一日立っていた。三輪さんがチームで作った立体かるたは、僕が撮影し会場で流している映像でも紹介しているが、じっと映像を見てくれる人は稀で、見て回る人に「このかるたは••」と声かけした方が伝わる。
いつもは広告と、ちょっと映像を流す程度で会期中はほぼいなかったアキサカであるが、今回に限っては会場にいる機会を増やしてみた(三輪さんサイドで毎日出られないという理由もあるが)。たった一日でも、いてみると見え方が少し違う。
初日の今日は、ガラスの六箇山工房なら六箇山工房のファンが、陶芸のderacine factoryであればderacine factoryのファンが、真っ先に来てお気に入りを買う様子が見られた。
ものは必ず人によって作られるのだから、人を含めてそのものが好き、という事はあって良い。むしろ現存する作家であればたまに会って変わる年月と作品を見続けることもできる。
そんな事をぼんやり考えた一日だった。