お昼の散歩で、公園の大きなイチョウの木が目にとまった。ひと抱えよりある大きなイチョウだ。高さは3階に届くだろうか。見上げると頭の上は枝である。枝の上も、また枝である。普通、枝がああ重なると下から空が見えない。葉が色づく前ならなお見えない。色づいたイチョウは、ほどよく落葉もしていて、枝がいくらか重なっても、枝と枝の間はほがらかに隙いていた。イチョウは、樹下に立つ人の眼を乱すほどの細い枝を徒には張らぬ。この木に実はない。イチョウは、実が成っているのと成っていないのとでは、見上げる気分が違う。実のならぬイチョウに引き寄せられたのだ。はるかなる下から見上げると、梢の葉は、定かならず。しかし、空との境界はくっきりとしていて、眼をこらせば、一枚は一枚でその間から、冬の青空が望まれる。葉の色は無論ただの黄色ではない。徒に黄色いのは眼にきつ過ぎる。専らに黄色いのは、ことさらに人の眼を危うくする。イチョウの黄はそれではない。あたたかみのある黄葉は、奥ゆかしくも自らを卑下している。わたしは、黄葉の絨毯の上に立って、このおとなしいイチョウの葉がどこまでも空裏にはびこる様を見上げて、しばらく呆然としていた。眼に落つるものは黄葉ばかりである。実は一つもない。
ここで、一句できれば、夏目漱石になれるのだが。ということで、本日の景色を『草枕』ふうに書いてみた。いやー漱石はよく観察してますね。

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