3657声 複雑世界

2017年11月16日

それから15年近くがたち、未だよくわからない客観と主観は、僕の仕事にとって欠かせないものとなった。

 

今編集している映像は、昨年からの引き続きでアーツ前橋で行っている「表現の森」。神楽太鼓奏者の石坂亥士さんとダンサーの山賀ざくろさんが、前橋市にある特養ホームに不定期で出向き、そこで滞在型のケアを受けているご老人たちの中に分けって、音をきっかけに演奏をしたり、させたりしている。僕はその様子をかれこれ6回くらい映像で記録し続けている。

 

演奏をさせると言っても、車椅子の老人多数、半数以上は1〜2ヶ月前に僕らが来たことも覚えていないらしい。耳が遠い人は多く、軽快な太鼓の音に反応を示さない老人もいる。

 

普通であれば、そんな老人たちとコミュニケーションをとらねばいけないとなったら、懸命に話しかけるか、身体に触れるか・・それは介護になりそうだけども、諦めることも仕方ないように思う。けれど、亥士さんのアプローチの仕方は明快で、言葉は一切介さず、わずかでも打楽器を触れる人に対してはその音に自分が出す音を共鳴させ、楽器が持てない老人に対してはその体内に音で触れようとする。

 

僕のそこでの役割は、かっこいいプロモーションを作ることではなく(そういうのは苦手)、その場で起きたことを、あるいは起きそうなことに対し適正な距離と向きでカメラを向け、じっと辛抱し、あるいはさっと切り替えて撮影していくことだ。そんな時に、子どもの頃から培ってきた・・のかもしれない客観的な目線、周りを見る・感じるスキルが役に立つ。

 

そうして撮ったものを、編集の段階で見返す。すると、その半分は撮った時の意図のまま受け止められる映像になっていて、半分は意図から外れ失敗していたりするのだが、ふと撮影時には気づかなかった動きや表情や言葉を見つけることがある。それが、たまらく楽しい。あとは、そうやって撮影や編集の段階での気付きを自分の主観でもって繋いでいく。何ももの申さない映像なんてつまらないから、一応は「僕はこのことをこう思いました」と提示することになる。

 

僕にとっての映像の面白さとはつまり、日頃しょぼくれた自分の目で偏見を持って、怠惰に見ている現実・世界というものを、もっと複雑であると認識し、そこから魅力ある何かを削り出す行為である。かっこつけて言えば。今年に入って、その一連にもっと磨きをかけたいと欲が出てきた。

 

2日にわたり思いつくままに長々と書いてみた。まだ、道は途中である。