4154声 楕円の夢

2019年03月30日

私の話を聞きたいの?

 

ハルコさんがそう言った気がした。といっても、彼女の声を私はもうよく覚えていない。使っていない奥の6畳間。物置と化したその部屋のダンボールの山を崩し、彼女が書いた一冊のノートを手に取った。その時ふと、彼女の声が聞こえた気がしたのだ。耳を澄まし、この家には私しかいないことを確かめる。ハルコさんというは、私の父の別れた妻、つまりは私を産んだ人だった。

 

ノートは結構な厚さで、手帳ではなく罫線が入っただけのシンプルなもの。雑記帳とでも言うのだろうか。その日何をしたか、何を買ったかなどが簡潔に書かれていた。遺品の中にこれを見つけた時、開いて読むことはないだろうと思いつつも、捨てずに箱に入れておいた。ふと思い出し、悪趣味的に読んでみようという衝動に駆られたのは、彼女の訃報からわずか1年で父が亡くなり、その法事が一通り済んで心にぽかんと隙間ができたからかもしれない。私は、私の父や私を産んだハルコさんのことを何も知らない、ということに気づいたのだ。手に取ったノートをめくると偶然にも、平成最後の今年にタイムリーなこんな書き込みが目に止まった。

 

【平成が始まった。テレビはどこも天皇の追悼番組。退屈。不動産もしばし動きがないだろうから長めの正月にするとユウジさん。神楽坂で美味しい天ぷら。二人でこんなにゆっくりできるのは初めてかもしれない。私は、私を愛してくれる人を愛したかったのだ。】

 

見てはいけないものを見た気がした。ハルコさんは私が5歳の頃、父や私と別れこのユウジという人とくっついた。寡黙な父は母(私にとっての育ての母)の手前もあったのだろうが、ハルコさんのことを悪口はおろかほとんど何も話さなかった。でも、近所に住むおばあちゃんが「派手な服を着て愛想がいいだけの薄情な女だった。チエちゃん(私の名前だ)ごめんね、寂しい思いさせてね」と何度も恨み節のように呟いていたことを今も覚えている。それを聞くたびに私は、自分は母親に捨てられた寂しい子どもなのだ、とみじめな気持ちになった。

 

【飲みすぎ。ヒステリックなあの女の声が頭から離れない。あの女をかばうのは、哀れみ? ではない?一日何回までの電話なら、彼に嫌われずにすむのだろうか。独りでいる時 間に耐えられない。自業自得。】

 

時代を反映したかのような贅沢な暮らしから一転。数ヶ月書き込みが飛んだり、仕事を休んだ、一日寝ていたなどの書き込みが増える。その中にあったこの一文で、ハルコさんはユウジという人に去られたのではないかと推測した。実際、この書き込みの後にはハルコさんが引っ越したと思われるアパートの住所や、精神安定剤と思われる薬の効用などが書かれていた。

 

ここに書かれた自業自得には、私や父を捨てたことを悔いての意味も含まれていたのだろうか。ノートの序盤を読んでいても他人事のように無関心だったのに、このあたりの低迷するハルコさんの言葉を読んでいて、心の底で喜んでいる私がいた。それは少し驚きだった。思春期の頃は、その年頃らしく、くっきりと彼女を憎んでいた。女に逃げられた男、という見え方になってしまった父も同様に。けれど二十歳も過ぎ35歳にもなる今は、父に対しても、育ての母に対しても一般的な愛情を注げたと思うし、ハルコさんに対しても、もうどうにも思わないと思っていた。違った。私は未だに、ハルコさんを恨んでいたのだ。

 

あるいはその恨みは、このノートを含めた遺品を受け取る際の、あのおじさんの言葉で再燃したのかもしれない。昨年のはじめ、父の口からハルコさんが亡くなったという話を聞いた時、正直こみ上げるものもなくて、車による事故だったと言われても、そうなんだ、とそっけない返事をした。けれど驚いたのは、東京でどこかの男と暮らしていると思っていた彼女が、50代後半にして一人福島の仮設住宅に住み、震災から7年が過ぎてもボランティア活動をし続けていたという事実だった。「本当にハルコさんなの?別人じゃないの?」と父に聞き返してしまったくらいだ。そして、ハルコさんは親族もすでにいないことから私たちは呼ばれ、家具や服は処分しつつもダンボール二箱分の遺品を受け取ることになった。

 

「あの人ほど献身的な人はいない。我が子のように子どもたちを愛してくれた」遺品整理を手伝ってくれていた、ボランティア仲間だというおじさんが呟いた。私は、はぁ・・と気の無い返事を返しつつも、帰りの長い車中、父を助手席に乗せながら、実の娘を捨てて私に対しては愛情のカケラも示さず、震災で大変な目にあった子どもたちとはいえ、遠い場所で他の子を愛でるなんて・・と複雑な気持ちをぐるぐると回転させていた。

 

【チエと会うことになった。武蔵境駅であの人と会うなんて。薄化粧のみっともない格好の私。素通りしようと思ったが声をかけてきたのはあの人の方だった。3月、チエと群馬の実家そばに引っ越すとのこと。それは二人でではなく三人でで、会社の同僚と再婚するということ。それだけ言い終わるとあの人は昔のように下を向いて黙った。みっともないと思いながら、今の私の近況を出来るだけ正直に話す。彼は静かに頷き、お前も大変だったんだな、とこぼし、群馬に越す前にチエに会わせるよ、と言った。彼の沈黙は私への無関心だと思い続けていたけれど、その奥には静かな優しさがあったのかもしれない。などと思うのは、今の私が誰かの優しさを求めているからだろうか。】

 

急に出てきた私の名前に、「あっ!」と思わず声を出してしまった。そうだそうだ思い出した。私が小学3年になる時、国分寺から高崎に引越しをした。その直前、父に手をひかれ井之頭公園でハルコさんと会ったのだ。思い出した。私はその頃、友達と別れなければいけないことと、新しいママができることのめまぐるしさばかりが頭にあって、ハルコさんと会ったことはそれ程印象には残っていなかった。記憶が確かなら、当日ハルコさんは雑誌の表紙のようなピカピカな服にキリッとした顔立ちでやって来た。三人で池の周りを歩いて、公園近くの喫茶店でスパゲティを食べて別れた気がする。それが彼女の顔を見た最後だというのに。忘れていたなんて。

 

【唐突に、ポテトサラダの作り方を聞かれる。大手のマヨネーズだと酸っぱくなるので、瓶詰めのマヨネーズ。水切りコーンも必須と伝える。】

 

コーン入りのポテトサラダ。私が中学を卒業するくらいまで、ずっと好きだったやつだ。おいしいだけじゃなくて、それだけは母ではなく父が作るものだったので、印象に残っていた。なんで作らないの?と母に聞くと、私は好きじゃないの、という答え。ああそうか、それはもしかしたら、そのレシピがハルコさんのものだったからかもしれない。

 

【チエは驚くほど大きくなった。何を話していいかわからず、井の頭池のまわりをぐるっと回る。チエはまだ私のことを嫌っていない様子。今日も普通に考えれば顔を会わせるべきではないのだけど、元気に育ってくれているそのことがただただ嬉しい。池を見るふりをして涙をぬぐう。チエがお土産屋を覗いている時に、ポテトサラダのお礼にと、あの人が封筒を差し出した。厚みのある封筒の中身はお金だということはわかったがつき返す。あれは今弱り切っている私への、ある意味当てつけだったのだろうか。 そうではなくて、どこまでも人が良い人なのだろう。でもそれをもらってしまったら、私の今までの人生が無駄になるように思えたのだ。別れ際、チエは背負っていた小さな赤いリュックから包装されたハンカチを出し、私にくれた。「ミホさんとハルコさんと、どっちがどっちの色がいいか迷ったの」とチエ。ミホさんというのは、あの人の再婚相手のことなのだろう。ありがとうと受け取るが、このハンカチは使えない。部屋に戻りポケットに手を入れると、池のほとりで鴨を見ている時にチエがくれた、飴玉の包装紙が入っていた。チエのこれからを思う。私はもう彼女の手をにぎることもできない、頭をなでることもできない、ピアノを教えることもできない、それができなくなった理由は私自身にあって、あの頃はそんなに膨大な幸せを捨てることになるなんてつゆにも思わなかったけれど、悔しい。悲しい。でも戻れない。私は、私の足でもう一度立ち上がらなければいけない。今日のことを忘れなければ、その日は来るのだろうか? 】

 

長々と書かれたそのページをめくると、ミルキーの包装紙が丁寧に貼ってあった。涙が止まらなかった。私は何も知らなかった。そして、ユニクロの服や古いラジカセ、震災・ボランティアに関する本以外にはあっけにとられるほど物がなかったハルコさんの遺品の中に、この1冊のノートがそっとしまわれていた理由を、今知った。

 

仮設住宅のハルコさんの部屋を片付けていた時、寺尾紗穂という人の「楕円の夢」というCDを見つけた。ボランティア仲間のおじさんが教えてくれたことによると、2016年に代々木で行われた反原発イベントで寺尾さんという方が歌を歌い、それを聞いたハルコさんは「この「楕円の夢」という歌は、私についての歌です」と言って、よく聞いていたらしい。ノートをダンボールにしまう際に再びこのCDを見つけた私は、彼女が使っていた古いラジカセのほこりを手で払いCDをセットすると、再生ボタンを押した。

 

(この物語は、ハンドメイド小冊子の祭典「ZINPHONY」出品の為に書き下ろしたフィクションです。「さようなら原発1000万人アクション」における寺尾紗穂さんの演奏は、実際に行われました。)