4354声 26)SNS

2020年03月26日

コロナ禍において大多数の人にも見られる傾向だと思うが、SNSを見る頻度が上がっている。この1ヶ月を見ても、ザーッと見流す数々の投稿の中の、コロナに関係する投稿の割合が急激に増した。震災時も当然そうであったが、しばらくすれば地方によってその割合は変わっていた。今は全国、および全世界のSNSにまでコロナは侵食している。

 

情報を得るという一方で、「この状況下においてあの人は何を考え、何をするのか」ということを見ている自分がいる。テイクアウトに切り替えた飲食店の情報をまめにシェアする人、旦那さんが医療関係で日に日にツイートに不安感が増している女性、政治批判を続ける人や政治批判を続ける人を批判する人、こんな時こそと道端の花や何気ない風景の写真を上げる人、様々だ。僕は、いつもどおりのくだらない投稿を続けている(つもり)だ。

 

SNSは、ツイッターでもFBでもインスタでも、人は皆同じ土俵に乗る。そこには0と1のデジタルな世界。大統領も、政治家も、社長も、社員も、ひきこもりも、LGBTQも、高低差はない。反応があるかどうかは置いておいて、リプ(返事)も返せる。けれど当たり前だけどそれぞれが置かれている状況には、高低差もあれば距離もある。「効率化を求めたリモートワークに一気に切り替えられるいい機会じゃないですか!」と煽るコロナ景気に乗る実業家と「明日の生活のために3密が避けられない労働現場に赴かなければならない人」の間を埋めることはできるのだろうか?いや、コロナに関わらず、SNSに関わらず、その差は昔からあった。その差が、今後さらに大きく広がっていく不安感を、SNSをザーッと見流しながら、僕はひとり感じている。

 

今日、ネット上で「批判とは、あくまで相手のことを考えた上で、意見をよりよい方向に向けるための意見で、他人をけなしたり人格否定するのはただの否定や誹謗中傷でしかない」という書き込みを見つけた。そう。SNSにはというかインターネットには、高いでも低いでもなく、間の小道を歩いていくための可能性も残されている気がする。僕もシャットアウトはせず、飲み込んでは吐き出して、道を探ろうと思う。