昨日も忙しかった。普段飲みに出ることはないのに2年ぶりの正月らしい正月になったから飲みに出たくなるという人たちで街は大賑わいだった。普段飲みに出ないのに飲みに出たのは、正月がその人にとって「確固とした休日」だからだろう。普段は飲みに出ないのはもしかしたら普段の休日は確固とした休日ではないのかもしれない。確固とした休日というのは要するに「迷わず思考停止していいと思える日」ということである。飲みに出るのは今日が思考停止していい日だからというスタンダードは、飲みに出る理由としては古いようで新しい。コロナ前までは思考停止するために飲みに出る、がスタンダードではなかったか。ところが買い物が家にいたままできるようになったと同時に外で飲む酒は疲れることも家にいる時間が長くなって気づいてしまった。だからほどほどの思考停止は家ですればいい、となったのかもしれない。そのほうが自分のペースで気を使わずに飲める。思考停止するために飲みに出るという思考があればこそ、盆や正月ではない普段の酒場が成り立つ。そこには多少の気遣いの必要と酒は楽しかった分疲れもするという逆説もある。その逆説が必要とされないんだと思う。思考停止するために飲みに出たのに気遣いと飲みすぎがついてきたら意味ないじゃないか、となるのではないか。そういうものかね。わかっていても飲みに出ちゃう矛盾が酒場の包容力を作るんだけどね。思考停止するために飲みに出るが減って違和感を持たない人々が増えてきた今、普段の酒場は少しずつ減るだろう。同時に、人間のどうにもならない矛盾や逆説に対する容赦も少しずつ減るだろう。