三が日営業が終わりやっと休みが来た。重い体を引きずって白寿の湯へ。じっくり浸かって風呂から出たら、ますます動けなくなった。昨日は営業終了後にザブンで恒例の句会。抜井とすーさんは昨年不参加だったので2年ぶり。2年の間に皆着実に歳を重ね、抜井は一層全国区の俳人になり、それぞれの子供たちも成長していて、俺と岡安さんは相変わらずひとり者である。歳を重ねて俳句が上達したかといえば疑わしいが、若い頃より見えるものが具体的になっている印象を自分を含めて皆に感じた。細かいところを気にしながら生きなくてはならない年代になってきた証拠だと思う。言葉の余韻について抜井に聞いたら、俳句では大事な言葉こそ削ぎ落とすことが大事だと言っていた。確かに酒でも甘みの少ない味わいの方が、記憶に残るかもしれない。けれどもどうにもしようのない雑味、オフフレーバーが記憶に残ることもある。好みでしかないのかもしれないが、どっちも大事だと思いたいのである。覚醒だけでは生きられなかったし、おそらくこれからもそうだ。民芸の話が出た。作家の鞍田崇さんは民芸をいとおしさから位置づけた。いとおしさはゆらぎの中に生まれる。現実という平凡に即した、温かみのあるゆらぎである。冷徹が生む美しさと揺らぎが生む温かさ、どちらも余韻であるかもしれないが、そのどちらにも大事なのは、いとおしさである。いとおしさがないのは嫌なのである。