曇りのち夕方から本降りそして春雷。昨年刊行した句集が地元の俳句大賞に選ばれたので、その記事が載った機関紙が届いていた。今回は大賞というものに二作品選ばれ、その中の一つが私の句集でもう一つが大先輩の句集であった。作者は昭和十五年生まれ、句歴もおよそ五十年という円熟の域に達した俳人である。むかし、俳句初学のころなので、私が二十代後半に差し掛かろうかという時分のいま時期に句会があった。吟行はもちろん時節柄、桜であった。午前中にひとしきり作って、午後から句会というお決まりの流れ。参加者はお花見気分で紙コップのお酒など片手に、のんびりやっていた。私はというと、一人で硬くなり、頑なに酒なども口にせず、黙々と集中して句を作って句会に出した。結果は惨敗で、帰りの車に酔っぱらった俳句の先生や先輩連中を乗せて運転しつつ、たいそうほぞをかんだ。酔い覚ましに寄った喫茶店で、「なぜ私の句が共感を得ないのか」率直に俳句の先生に聞いた。私の句は悪くないのに、みな酔っぱらってしまって、正常な判断ができていないのかとさえ思っていた。その時に言われたのが、「桜は一年に一度咲く、お前が見たのは二十数回、でも今日の参加者は六十数回、七十数回、もっと観てきた人たち」と、いうような内容だった。つまりは、経験と修練のなせる技が私にはなかったのだ。それからは、作って作って作りまくって、花吹雪のように捨ててという繰り返し。百聞は一見に如かずというけれど、やはり「知る」だけでなく「見る」ことは大切である。浅学非才な身ゆえ、そして中年になったいま、確かにそう思う。そして、円熟の域に達した俳人の句に接すると、そう確信する。