5086声 山歌

2022年04月12日

伊参スタジオ映画祭シナリオ大賞2018の中編大賞作品『山歌(さんか)』が4/22よりテアトル新宿・アップリンク吉祥寺を皮切りに全国の映画館で上映される。この作品は2019年の伊参スタジオ映画祭での上映後、さらなる撮影や編集が行われ完成。第17回大阪アジアン映画祭では海外上映の足がかりにもなる賞、JAPAN CUTS Awardを受賞し、先日の第35回高崎映画祭でも高崎芸術劇場の大スクリーンにて上映が行われた。まさに文字通り、満を持しての全国上映となる。

 

監督である笹谷遼平さんは同志社大学文学部哲学科卒、もともとは劇映画ではなくドキュメンタリー映画の監督である。日本人と馬とのリアルな暮らし・関係をあぶり出すドキュメンタリー『馬ありて』(2019)は各地の映画館で上映もされた。伊参スタジオ映画祭のシナリオ大賞(全国から映画シナリオを募集し映画化させる試み)にも数年に渡り応募を繰り返し、「山歌(応募時のタイトルは「黄金」)」を含めてそのシナリオにはすべて、昭和初期までは日本にいたと言われる山の流浪の民「サンカ」がテーマとして書かれていた。

 

伊参スタジオ映画祭実行委員長としてシナリオ審査に関わる僕が心を掴まれたのは「山歌」の前年に大賞を逃し奨励賞に選ばれた「お還り」というシナリオだった。女子学生である2人の登場人物、その1人が行方不明になりまた現れるが、どうやらサンカの暮らしに触れて現代的な生き方ができなくなってしまったらしい。動物のようなふるまいをする彼女は外からみたら気が触れた少女でしかない。物語の最後は、最後まで友人であった1人がサンカに触れて日常生活が送れなくなった少女に死を与えるというショッキングな内容だった。僕がこれを読んだ時、今村昌平監督(『にっぽん昆虫記』『神々の深き欲望』等)が描いていたような「日本人の原点」とも言うべき強い生の衝動的なものも感じたし、そのラストには「不本意な生であれば、潔い死を与えるべきなのではないか」という僕にとってのベスト映画『カッコーの巣の上で』の内容に似たものも感じ、映画祭後の懇親会では一人勝手に興奮しながら笹谷監督に話しかけたことを覚えている。ただし、その「お還り」については最終審査員の評としては「サンカという実在した人々を自分都合の物語に強引に引きつけている」等、厳しい評価もあったことを覚えている。

 

そして2018年、3度目の「サンカ」を書いたシナリオ「山歌」で笹谷監督は映画化の切符となるシナリオ大賞を受賞した。「こうも毎年同じモチーフで熱のこもったシナリオを書いてくるのだ、ついに笹谷に大賞を与える時ではないか」という審査員評もあった。僕としてもその年、一番にその「山歌」を推していたので、まるで自分ごとのように嬉しかった。受賞時の監督は相変わらずキョドキョドした動物のようで、生活においての不安も大きかった時期だと思うが、その目の奥がふつふと燃えていたように思う。しかし大賞受賞はあくまでスタートであり、そこから笹谷監督にとっての険しい山道が始まっていった。

 

映画化に向けた初期段階、川崎で笹谷監督と2人、プロデューサーになってくれそうな人を探した日のことを覚えている。シナリオに今村昌平感を感じていた僕は、今村監督が理事長でもあった僕の母校・日本映画学校(当時はすでに日本映画大学)の恩師を訪ねた。テーマに関心は持ってもらったが決定打はなく、どこかの駅のありふれた喫茶店で監督とお茶をして別れた。その時、大都会ではなく、中途半端な都市のありふれた喫茶店にも不馴染みな笹谷監督の姿も覚えている。書くシナリオといい、話の言い回しといい、本当にこの監督は生まれる時代を間違ったんだろうなと。それは褒め言葉でもあるのだが、そんなことを思った。

 

笹谷監督はその後、一念発起。まさに命を削って「山歌」映画化に向けて猪突猛進を続けた。シナリオ大賞審査員でもある松岡周作さん(『月とキャベツ』『眠る男』)がプロデューサーについたまではなるほどと思ったが、シナリオに惚れたという理由から上野彰吾カメラマン(『月とキャベツ』『ぐるりのこと。』)が撮影に入り、人の感性と自然とを描く映画において抜きん出た曲を作る茂野雅道さん(『萌の朱雀』『殯の森』)が音楽で入ると聞き、映画のスケールがひと回りふた回り大きくなるという期待が高まった。そして面構えからして誠実で、内にある気が強そうな杉田雷麟さん、映画をひっぱっていく野生的な少女に適役と言うしかない強い眼差しを持った小向なるさん、そして映画にいるだけでその映画が引き締まる渋川清彦さんといったキャストが決まっていき、『山歌』はいち地方映画祭発という規模を超えた大きな作品へと育っていった。

 

また、『山歌』は一部鉄道場面をのぞいてオール中之条町(群馬県吾妻郡)ロケなのだが、特に六合(くに)地区のロケハンを行なった時のことも忘れがたい。戦後の田舎という時代設定的にガードレールはなし。映画化を前提としたシナリオという要項を読んだ時からすでに笹谷監督は、中之条町と草津町の中間に位置するこの山あいの村(中之条町と合併する前は六合は六合村という村だった)を撮影場所として意識していたようだ。僕自身は合併後にはなるが、この六合地区を撮影や休暇で訪れるようになり、その自然や住んでいる人の強さ(素朴さ、ではなく強さ。何があってもここで生きられるというような強さを感じる個性の強い人が多い)に魅了された。実際、六合在住の方や六合に住んでいた映画祭スタッフの手も借りながら、映画内で則夫とハナが駆け抜けることになる丘などを回った。映画『山歌』にはまさに、六合や四万(しま)という中之条町の自然のドキュメントでもある。

 

僕は、3月末の高崎映画祭ではじめて『山歌』の完成バージョンを鑑賞した。高崎芸術劇場の上映環境は素晴らしく、以前のバージョンでは僕の中でただの一シーンであった「音」が重要となるシーンで、思わず涙ぐんでしまった。そして何より、(ネタバレは避けたいが)完成版のクライマックスにおいてこの映画が「人の営み」以上のものを描いていて、大阪アジアン映画祭において審査員が「この映画は海外に見せたい」と思ったということにも納得をしたし、この作品が今村昌平監督や新藤兼人監督らが描いてきた「日本人の原点」の現在地点(2022年)にある映画であることも再確信した。『山歌』は、力強い映画である。

 

明日の公開を控え、笹谷監督が今日SNSに「自然は常に完全である。彼女には一切の誤謬もない」というロダンの言葉を引用していた。はじめて聞いたこの言葉をとてもいい言葉だなと思いつつ、シナリオの大賞受賞から始まった監督の険しい山道は、その言葉を一つ一つ確認して映画に落とし込んでいく道のりだったのだなとも思った。映画完成後に会った笹谷監督は、会った当初のようなキョドキョドした感じも未だ持ち合わせつつ、けれど映画『山歌』が持つ力強さを宿した目になっていた。今の彼であれば、東京なんかには負けない。1本の映画が1人の映画監督を変えるように、1本の映画が鑑賞者の人生を変えることだってある。ぜひとも、多くの人に届いてほしい映画である。

 

映画『山歌』