1234声 画鋲のような夏の月

2011年05月18日

ツイッター。
なるものをやり始めてから、丁度二ヵ月くらい経つ。
ツイッターを始めるのは、ごく簡単で、アカウントを取ってつぶやけば、よい。
入口としては、ブログなどより、単純明快である。

そのアカウントは、この「めっかった群馬」として取ってある。
即ち、つぶやいている人間は、二人。
堀澤の時は(ほ)、抜井の時は(ぬ)、と言う事で、やっている。

見ている方が楽しい。
と感じている様では、まだまだ、
ツイッターを使いこなせていないのだろうが、
自分がつぶやくよりも、他人のつぶやきを見ている方が楽しい。
楽しいし、楽しくない場合も、ある。
こと、震災下からの、この二ヵ月。
様々な情報が、ツイッター上に錯綜していた。
まさに、つぶやきの坩堝である。
いや、坩堝ならば、溶けて混ざららなくてはならないが、
つぶやきひとつひとつが、溶け、混ざりあう事はないので、
正確には坩堝と言えない。

しかし、ひとつのつぶやきが、溶け、混ざり合う事もしばしばある。
どっかの誰かが、「月が出ている」とつぶやいた。
それを見て、別の場所にいる誰かが、「月が赤い」とつぶやいた。
赤い、とつぶやいた人は、おそらく、外に出て、または既にいる状態で、
ツイッター画面でつぶやきを発見し、夜空を見上げたのであろう。
そして、あの、熟れた様な夏の月を見て、感じた事を、つぶやいた。

その後も、ツイッター上では、「月」に関するつぶやきが、
連鎖するように多数あった。
そこが、ネオンきらめく都会なのか、街灯もないような田舎、
なのかは分からないが、皆、夜空を見上げていた事は確か、である。
かく言う私も、そのツイートを見て、カーテンを開けて、窓を覗きこんだ。
そこには、確かに、少し赤みを帯びた、夏の月。
思わず、一句ひねって、句帳に書き留めた。

坩堝の中で、溶けて混ざり合わぬつぶやきは、
人を不安にさせたり、陥れたり、中傷したりするものも、ある。
そう言うのは見ていて、嫌。
しかし、それも含め、この坩堝の中を、もう少し見ていたい。
と言う心持で、いる。
俳句をひねったり、何か、着想を得るきっかけとなる事もある。
感心したり、感動したり、することも、ある
月が出ている事をつぶやく。
なんてさ、ちょっと、良いじゃないか。

【天候】
終日、快晴。
晴れて、蒸し暑し。