1253声 健全なる精神の酒場

2011年06月06日

立ち飲み屋。
先日、そう言う店を、兎も角、飲み歩けるだけ飲み歩いて来た。
一口に立ち飲み屋、と言っても様々な様式があるが、
その形式は概ね似通っている。

つまみは、おでんや焼き鳥などの焼き物が主。
料理の種類がある店も、一人客用の小鉢類が主である。
酒の種類は低級酒を中心に、瓶麦酒に缶麦酒と言った具合。
どこも安価で客の回転が早く、薄利多売でやっている。
その店のどこも、共通して感じたのが、無駄の無さ。
それは勿論、酒場としての、である。

一杯やる上で、これ以上、無駄の無い酒場があろうかと、感じた。
カウンターについて、まず、お通しなどは無し。
注文も聞きに来ない。
客自ら、カウンターの中で立ち働いている女将さんの暇を探して、注文する。
ともすれば、瓶麦酒を自分で冷蔵庫から出さねばならぬ店だって、ある。
つまみの類は、全て、一人で食べきれる分量。
無駄をそぎ落とした分だけ、安い。
それは、本当に、ありがたい。

そこには、店内の演出とて、何一つとして無駄なものはない。
一枚の煤けたポスターが貼ってあったとしても、
それは、あるべくしてそこにあるポスター、なのである。
あるべくしてそこにある、と言う事程、健全な事があろうか。

アルバイトが注文を聞きに行くのが無駄なのか。
宣伝のポスターを貼る事が、不健全な演出なのか。
立ち飲み屋に至っては、そう、と答えざるを得ない。
無駄を極限まで排除し、健全な生活感が醸し出ている店は、美しい。

尾頭付きの御造りが出て来るような料亭が、
健全で美しくないとは言わない。
そう言う場所にあまり行った事の無い私は、
そう言える様な材料を、持ち得ない。
只、酒場としての健全で美しい精神は、
概ね、立ち飲み屋の方に分があると思う。

つまりは、あるべくしてそこにある、立ち飲み屋は、
私たちの生活と同じく、かけがえのない場所である。
値段が安いとか、低級酒を飲んでいるとか。
そんな事は、価値の基準にはならない。
町に残すべきものの値打ちと言うのは、
健全で美しい精神で決まる。

たまには良い酒が飲みたいと思いつつ、
発泡酒に甘んじながら、そんな事を思ったりなんかして。

【天候】
終日、晴れて夏日。