立ち飲み屋。
先日、そう言う店を、兎も角、飲み歩けるだけ飲み歩いて来た。
一口に立ち飲み屋、と言っても様々な様式があるが、
その形式は概ね似通っている。
つまみは、おでんや焼き鳥などの焼き物が主。
料理の種類がある店も、一人客用の小鉢類が主である。
酒の種類は低級酒を中心に、瓶麦酒に缶麦酒と言った具合。
どこも安価で客の回転が早く、薄利多売でやっている。
その店のどこも、共通して感じたのが、無駄の無さ。
それは勿論、酒場としての、である。
一杯やる上で、これ以上、無駄の無い酒場があろうかと、感じた。
カウンターについて、まず、お通しなどは無し。
注文も聞きに来ない。
客自ら、カウンターの中で立ち働いている女将さんの暇を探して、注文する。
ともすれば、瓶麦酒を自分で冷蔵庫から出さねばならぬ店だって、ある。
つまみの類は、全て、一人で食べきれる分量。
無駄をそぎ落とした分だけ、安い。
それは、本当に、ありがたい。
そこには、店内の演出とて、何一つとして無駄なものはない。
一枚の煤けたポスターが貼ってあったとしても、
それは、あるべくしてそこにあるポスター、なのである。
あるべくしてそこにある、と言う事程、健全な事があろうか。
アルバイトが注文を聞きに行くのが無駄なのか。
宣伝のポスターを貼る事が、不健全な演出なのか。
立ち飲み屋に至っては、そう、と答えざるを得ない。
無駄を極限まで排除し、健全な生活感が醸し出ている店は、美しい。
尾頭付きの御造りが出て来るような料亭が、
健全で美しくないとは言わない。
そう言う場所にあまり行った事の無い私は、
そう言える様な材料を、持ち得ない。
只、酒場としての健全で美しい精神は、
概ね、立ち飲み屋の方に分があると思う。
つまりは、あるべくしてそこにある、立ち飲み屋は、
私たちの生活と同じく、かけがえのない場所である。
値段が安いとか、低級酒を飲んでいるとか。
そんな事は、価値の基準にはならない。
町に残すべきものの値打ちと言うのは、
健全で美しい精神で決まる。
たまには良い酒が飲みたいと思いつつ、
発泡酒に甘んじながら、そんな事を思ったりなんかして。
【天候】
終日、晴れて夏日。