妙に話が噛み合う。
と言う人が、私には、数人いる。
「妙に」と言うのは、その人たちと私との世代が、
離れているにも関わらず、話が噛み合う、のである。
噛み合う。
からには、何処かに共通している歯車が、ある筈。
その歯車が何であるか、薄々、感づいてはいた。
いたのだが、それを認めたくない気持も有り、見て見ぬ振りをしてきた。
しかしつい先程、電話口で露呈したその言葉に、
否が応でも、認めざるを得なくなってしまった。
「俺も馬鹿だけどさぁ、抜井さんも馬鹿だから、
そう言う馬鹿が群馬にいるって、知ってもらうんだ」
そう言った後に、電話口には、高らかな笑い声がこだました。
声の主は、銭湯の親父さんである。
今度、群馬県で、関東甲信越地域に在する銭湯の集会が、ある。
その場で、参加者への御土産に、私の本はどうかと言う、
とても有り難い話を頂いた。
この話をくれた親父さんには、本を発売して以来、
世話になりっぱなしである。
親父さんがいつも言うのは、この、「俺も馬鹿だけどあんたも馬鹿だね」
と言う、心優しいジョークである。
そうなのだろう、と思う。
馬鹿、なのである。
世代間を越えて、話を噛み合わせる歯車の名は。
その歯車だけが、まぁ、よく噛み合う場面の多いこと。
馬鹿にも生活がある。
生活がありつつ、馬鹿をやるのが、馬鹿の馬鹿たる由縁である。
生活がありつつも、別の可能性を見出す。
そして、その可能性を実現する為、行動に移してしまう。
だから、「馬鹿」と言われる。
私は元来、「堅実な生活を守りたい」と思って来た筈なのに、
年中、地に足のつかぬおぼろげな生活を営んでいる、と言う感覚である。
それでも、そんな馬鹿を止められないのは、愛すべき馬鹿者たちが、
私の周りに沢山いるからだろう。
それは何も、生活を放擲して、壮大な事業に取り組む事ではない。
例えば、映画や芝居を見たり、漫画や小説を読んだり。
そう言う些細な事だって、生活がありつつも、
別の可能性を見出す、行為である。
そこで得た価値観が、着実に馬鹿を、育んでいる。
その中で、大切な事がある。
馬鹿の心は純粋でなくてはならない、と言う事である。
そこに、虚栄心や利己心などの邪心がはびこっていないか。
もしそれらが心に蔓延していては、「本物の馬鹿」になってしまう。
私は、本物の馬鹿とは、話が噛み合わぬ気がする。
純粋馬鹿でいる為に、日々、葛藤が生じる。
馬鹿でいるのも楽じゃない、と言う事になる。
しかしながら、根が馬鹿なのだから、仕様が無いか。
【天候】
終日、薄曇りで蒸し暑し。