1254声 純粋馬鹿

2011年06月07日

妙に話が噛み合う。
と言う人が、私には、数人いる。
「妙に」と言うのは、その人たちと私との世代が、
離れているにも関わらず、話が噛み合う、のである。

噛み合う。
からには、何処かに共通している歯車が、ある筈。
その歯車が何であるか、薄々、感づいてはいた。
いたのだが、それを認めたくない気持も有り、見て見ぬ振りをしてきた。
しかしつい先程、電話口で露呈したその言葉に、
否が応でも、認めざるを得なくなってしまった。

「俺も馬鹿だけどさぁ、抜井さんも馬鹿だから、
そう言う馬鹿が群馬にいるって、知ってもらうんだ」
そう言った後に、電話口には、高らかな笑い声がこだました。
声の主は、銭湯の親父さんである。

今度、群馬県で、関東甲信越地域に在する銭湯の集会が、ある。
その場で、参加者への御土産に、私の本はどうかと言う、
とても有り難い話を頂いた。
この話をくれた親父さんには、本を発売して以来、
世話になりっぱなしである。
親父さんがいつも言うのは、この、「俺も馬鹿だけどあんたも馬鹿だね」
と言う、心優しいジョークである。

そうなのだろう、と思う。
馬鹿、なのである。
世代間を越えて、話を噛み合わせる歯車の名は。
その歯車だけが、まぁ、よく噛み合う場面の多いこと。

馬鹿にも生活がある。
生活がありつつ、馬鹿をやるのが、馬鹿の馬鹿たる由縁である。
生活がありつつも、別の可能性を見出す。
そして、その可能性を実現する為、行動に移してしまう。
だから、「馬鹿」と言われる。

私は元来、「堅実な生活を守りたい」と思って来た筈なのに、
年中、地に足のつかぬおぼろげな生活を営んでいる、と言う感覚である。
それでも、そんな馬鹿を止められないのは、愛すべき馬鹿者たちが、
私の周りに沢山いるからだろう。

それは何も、生活を放擲して、壮大な事業に取り組む事ではない。
例えば、映画や芝居を見たり、漫画や小説を読んだり。
そう言う些細な事だって、生活がありつつも、
別の可能性を見出す、行為である。
そこで得た価値観が、着実に馬鹿を、育んでいる。

その中で、大切な事がある。
馬鹿の心は純粋でなくてはならない、と言う事である。
そこに、虚栄心や利己心などの邪心がはびこっていないか。
もしそれらが心に蔓延していては、「本物の馬鹿」になってしまう。
私は、本物の馬鹿とは、話が噛み合わぬ気がする。

純粋馬鹿でいる為に、日々、葛藤が生じる。
馬鹿でいるのも楽じゃない、と言う事になる。
しかしながら、根が馬鹿なのだから、仕様が無いか。

【天候】
終日、薄曇りで蒸し暑し。