「あれ、今日何曜日だっけか」
などと、こんな事を人に聞いている様では、
生活が、漫然かつ泰然としている証拠である。
そう言う精神状態てぇのは、とても感受性を麻痺させる。
「最近、何か面白いことあった」
そんな質問を、挨拶代わりに投げかけている人が、よくいる。
そう言う人は、顕著である。
「面白いこと」を感受する機能の低下が。
ふと、都会に住んでいた時分を思いだす。
「ふるさと」と言う言葉に、敏感になっていた。
犀星の「小景異情(その二)」を諳んじていたり、
啄木の「一握の砂」を古本屋で買ってみたり。
そのふるさとに帰って来た、現在。
犀星のノスタルジーにも浸る事もなければ、
一握の砂を読み返す事もない。
「ただ、一さいは過ぎて行きます」
と、太宰の「人間失格」ではないが、そんな調子である。
そんな中にあって、漂泊の心を再び取り戻す、
いや、取り戻そうとする時がある。
俳句を作る時、である。
この文章を書く時、だって、望ましい心持は、
漂泊者の心、だと思う。
それはつまり、
「俳句は、自分の住んでいるところを旅人の目で見ること。
旅に出れば、そこに住む人の目で見ることなんです」
と言うこと。
俳人の飯田龍太は、昭和55年の「太陽(平凡社)」4月号の、
インタビュー記事の一節から引いた。
過ぎてゆく一さいの中から、一つのものを、掬いあげる。
それが、創作と言う行為、なのかも知れない。
【天候】
終日、雲多くも蒸し暑し。
夜には、心地好い涼風。