1255声 心は漂泊

2011年06月08日

「あれ、今日何曜日だっけか」
などと、こんな事を人に聞いている様では、
生活が、漫然かつ泰然としている証拠である。
そう言う精神状態てぇのは、とても感受性を麻痺させる。

「最近、何か面白いことあった」
そんな質問を、挨拶代わりに投げかけている人が、よくいる。
そう言う人は、顕著である。
「面白いこと」を感受する機能の低下が。

ふと、都会に住んでいた時分を思いだす。
「ふるさと」と言う言葉に、敏感になっていた。
犀星の「小景異情(その二)」を諳んじていたり、
啄木の「一握の砂」を古本屋で買ってみたり。

そのふるさとに帰って来た、現在。
犀星のノスタルジーにも浸る事もなければ、
一握の砂を読み返す事もない。
「ただ、一さいは過ぎて行きます」
と、太宰の「人間失格」ではないが、そんな調子である。

そんな中にあって、漂泊の心を再び取り戻す、
いや、取り戻そうとする時がある。
俳句を作る時、である。
この文章を書く時、だって、望ましい心持は、
漂泊者の心、だと思う。

それはつまり、
「俳句は、自分の住んでいるところを旅人の目で見ること。
旅に出れば、そこに住む人の目で見ることなんです」
と言うこと。
俳人の飯田龍太は、昭和55年の「太陽(平凡社)」4月号の、
インタビュー記事の一節から引いた。

過ぎてゆく一さいの中から、一つのものを、掬いあげる。
それが、創作と言う行為、なのかも知れない。

【天候】
終日、雲多くも蒸し暑し。
夜には、心地好い涼風。