1331声 感動までの距離

2011年08月23日

「感動を詠め」
とは、然るべき俳句入門書などでは、必ず目にする事柄である。
「感動」ったって、そうそう見慣れた野山で、感動する事象に出くわす事も少ない。
私の感受性が乏しいのかもしれない。
しかし、心には響くのが、それを「感動」と言い得るのかどうか、と言う場面が多い。
悩んでいるくらいなので、それでは感動を得ていないのだろう。

ここで一旦、話を放り投げて、弁当である。
所謂、「ほか弁」と言われている弁当を、たまに買って食べる。
先日の昼も、チェーン店のほか弁を買った。
いや、正確には昼時に祖父が家に訪れていたので、
祖父が近所の店で買って来たのである。
「何弁当」と、特に指定しなかったのだが、買って来た弁当を見ると、随分と豪勢。
おそらく、「デラックスなんたら弁当」と言う類の、高価格帯の弁当である事は間違いない。

思えば、私。
ほか弁を買う時など、このところ数年に亘って、五百円以上の価格を出した事が無い。
つまり、安価なのり弁の類を中心に、から揚げ弁当が天なくらいで、
後は十中八九、五百円以下の安価な弁当を購入していた。
それが、この日は、五百円をはるかに超えるであろう、豪勢な弁当にありつけた。
豪勢な見た目なだけあって、やはり味も、笑みがこぼれるほど美味い。

この辺りで、先程、投げた話しがブーメラン式に戻って来て、感動である。
その、豪勢な弁当の味に、感動を覚えた。
「たかがほか弁で」
などと、自分でも思ったが、されどほか弁。
長い事、安価な弁当の味を覚えた味覚だから、なのであろう。
これがまた、さる高級料亭の仕出し弁当、と言うと話しが違う。
日常の、ほんの些細な変化、なのだから、良いのかも知れない。
その距離が感動までの、一番の近道になったのかも。
見慣れた野山でも、ほんの些細な変化、例えば、見慣れた裏山も、
朝陽のあまねく満ちる日の出の時間は、素晴らしい裏山かも知れない。
もしかしたらそう言うところに、日常の感動があるのかも知れない。

【天候】
朝より曇り。
午後に少し晴れ間が出て、蒸し暑い一日。