「感動を詠め」
とは、然るべき俳句入門書などでは、必ず目にする事柄である。
「感動」ったって、そうそう見慣れた野山で、感動する事象に出くわす事も少ない。
私の感受性が乏しいのかもしれない。
しかし、心には響くのが、それを「感動」と言い得るのかどうか、と言う場面が多い。
悩んでいるくらいなので、それでは感動を得ていないのだろう。
ここで一旦、話を放り投げて、弁当である。
所謂、「ほか弁」と言われている弁当を、たまに買って食べる。
先日の昼も、チェーン店のほか弁を買った。
いや、正確には昼時に祖父が家に訪れていたので、
祖父が近所の店で買って来たのである。
「何弁当」と、特に指定しなかったのだが、買って来た弁当を見ると、随分と豪勢。
おそらく、「デラックスなんたら弁当」と言う類の、高価格帯の弁当である事は間違いない。
思えば、私。
ほか弁を買う時など、このところ数年に亘って、五百円以上の価格を出した事が無い。
つまり、安価なのり弁の類を中心に、から揚げ弁当が天なくらいで、
後は十中八九、五百円以下の安価な弁当を購入していた。
それが、この日は、五百円をはるかに超えるであろう、豪勢な弁当にありつけた。
豪勢な見た目なだけあって、やはり味も、笑みがこぼれるほど美味い。
この辺りで、先程、投げた話しがブーメラン式に戻って来て、感動である。
その、豪勢な弁当の味に、感動を覚えた。
「たかがほか弁で」
などと、自分でも思ったが、されどほか弁。
長い事、安価な弁当の味を覚えた味覚だから、なのであろう。
これがまた、さる高級料亭の仕出し弁当、と言うと話しが違う。
日常の、ほんの些細な変化、なのだから、良いのかも知れない。
その距離が感動までの、一番の近道になったのかも。
見慣れた野山でも、ほんの些細な変化、例えば、見慣れた裏山も、
朝陽のあまねく満ちる日の出の時間は、素晴らしい裏山かも知れない。
もしかしたらそう言うところに、日常の感動があるのかも知れない。
【天候】
朝より曇り。
午後に少し晴れ間が出て、蒸し暑い一日。