3480声 許したいかどうか

2016年05月19日

何かの問いかけをしたときに、バッサリ切り捨てるような言い方で返されることがある。
こうなると問いかけ自体にとてもエネルギーを使うようになる。
向こうからすれば今は問いかけられたくない、という心情なのだろうが、毎度それが続くと、どこまで許し続けられるだろうかと暗い気持ちにもなる。
こういうことを、かつても今も自分もしてきたんじゃないかと思うと、胸が痛い。
そもそも人の話を聞くのには、エネルギーがいる。
とくにその話の中にジャッジが多いと、なおさらである。
同意したくもないことに頷くのは嫌なものだ。
かと言って、バッサリ切り捨てるような応じ方も躊躇する。
自分がやられたら嫌だからである。
尊厳を預かる、という意識がやはり、接客業には必要なのだと思う。
接客業ばかりじゃないだろうが。
できれば聞いてやりたい、あるいは遮らないでいていたい、という意識は、歳を重ねるごとに強くなっている。
一方で、できれば聞きたくないジャッジ、どうしても違和感を拭えないものごとがある事実も、ごまかせなくなってきている。
ただそういうのは揺れるものだから、疲れや酒量によって簡単に変わってしまうものだから、割り引いて感じることも必要なのだと思う。

それとともに、その場の切り捨てや聞きたくないジャッジに振り回され過ぎないためにも、その目の前の相手の、今そのときは発揮されていないけれども確かにあるだろう何かに信頼を見出しておく必要がある。
私の場合は相手の何にその信頼を見出しているかと言うと、これは最近わかったのだが、その相手は他人の闇を許したい人かどうか、というところに、信頼を見出そうとしている。
勝手に。
勝手にだから、その人が自覚している必要はない。
たぶんそれが、人を信用する基準になっている。
だから逆に、たとえば最後の最後にその相手から、やっぱりこの闇は許せない、という同意になったときに、その人との関係も終わるのだと思う。
もちろんそのためには、そんな話になってしまったときには、闇がわかる、という前提が必要で、その前に、闇の自覚と葛藤、が必要なのだが。
私に闇はない、というのでは話にならないわけで。
ややこしいが、あくまでそれはそんな話になったときの場合で、そんな話にならないに越したことはない。
私にとって大事なのは、私の勝手な見立てと基準において、私を含めてその誰かは他人の闇を許したい人かどうか、ということなんだと、いろいろ経験してきた結果、私は思っているらしい。

厄介だが、そこまでしないと保てないのである。

決して、何かを宣言したいわけでもない。