4343声 15)身を切る

2020年03月15日

書きたい熱が上がってきている。今月のめっかった群馬は締め切りを半月すぎてヒーヒー言いながら、でもそれなら一言だけ書けよという誰かのツッコミを無視して(そもそもこのコラムの題名は鶴のひとこえ、なのに)長々と書いている。勢いだけで書いている。

 

今月何日目かの投稿に「高崎のREBEL BOOKSに僕が作ったzine(小冊子)を置いてもらっている」ということを書いた。そこには現実に起きた事や実際にあるものから連想した短編小説を書いたり、自分の実体験とむすびついた映画作品について書いたりしているのだが、わざわざ買いに行って読んでくれた同郷の友人から「自分のことを隠さず書いていてすごい」というような感想をいただいた。「自分のことを隠さず暴露すること」が良い表現だとはまったく思わないが、僕は確かに、自分に寄せたものを書くことが好きなのかもしれない。

 

身を切る、を考える時に、僕は映画学校時代に教わったドキュメンタリー監督・原一男さんを思い出す(帰還兵が上官を攻め立てる『ゆきゆきて、神軍』が有名だが、近年もれいわ新撰組を撮った新作などが公開されている)。授業の一貫として観せられた『極私的エロス 恋歌1974』は、70年代初期のむせかえるような時代背景の中、原さんは監督兼カメラマンとして、録音技師の彼女(現在もパートナーである佐智子さん)と二人、沖縄に暮らす原さんの昔の彼女の生々しい生活を撮影する。原さんと昔の彼女との怒号のような喧嘩が、執拗なまでにカメラに映る。今でこそ「セルフドキュメンタリー」というジャンルもあるが、これはそのはしり。そして映画の最後では、昔の彼女が米兵との間にできた子どもを自力出産する場面を、原さんは撮る。濃厚。題名のとおり、極私的なものを描くことにより、普遍的な「男と女と生と死」をむせかえる濃度で映し出していた。

 

授業で原さんは「自分なんてものは、出して出して出し尽くすべきだ」というような事を言っていた記憶がある。原さんレベルまで己をむき出しにすることは到底できないが、他者を描く表現については注意を払いつつも、やはり自分というものは、出して出して出し尽くして、それでも残る何かを大切にするべきなのではないか、と思っている。