4648声 寂しさというものについて

2021年01月07日

今年は丑年なんだけれど、ということはトシオトコ。生まれた年を省いて、自身何回目の丑年かというと、4回目。次回は12年後、無事生きていれば5回目で、還暦となる。人生はまったくあっという間である。紛れもない48歳のおじさんが考える「寂しさというもの」について、書いておく。寂しさというものを「」付きにしたのは、こういうことを書くと、どういうわけか「あ、寂しいんだな」というところだけ早々と抜き取って、大事なところまで辿り着かない読み手が多いから。とくに最近。私を含めてね、そうなの。どこの誰、ということじゃないんだな。最近の世の中の脳は、そういう脳に多くの人がなっちゃった。ジャッジが早急だから浅くなって、それが氾濫する。そうすると、人間を掘り下げる丁寧さとか、我慢強さとか、それが謙虚さなんだけれど、そういうものまで、脳は知らないうちに放棄するようになる。浅い部分しかなぞらないジャッジが多くなると、そんなジャッジに巻き込まれたくない、と今度は別の脳は思うようにもなる。知らないうちに。すると言わないようになる。言わないようになると、考えないようになる。人間そのものについて考える大切さが薄まるのね。本当に。いつの間にかね。寂しさについて、だった。寂しさなんて、いつか時が解決してくれるんじゃないかと期待していた若い頃もあった気がするが、これは時が解決してくれるような話じゃないな、と、トシオトコ4回目にして薄々感じている。何かに依存しなければ生きられない話を、以前に書いた。寂しさっていうのは、そういう、依存しなければ生きていけない瞬間を感じたときに潜んでる感覚、なんだと思う。どこにもごろごろ転がっている感覚。例えば、何かを考えたいときについコーヒーを飲んでしまうようになってしまった、とか、仕事が終わってまっすぐ家に帰ればいいのに、帰れなくなってしまった、とか。子供の頃は帰れたのにね。あ、今誰かがいたら家に帰れるのに、とか、誰かがいたらこんなにすぐに飲み始めてしまわないのに、という、そういう瞬間に、寂しさは潜んでいる。酒を売る仕事をずっとやってきて、昼から飲む人は圧倒的にひとり暮らしの方が多いよね。そういう人たちに私は好感を持ってるけれど。岡安さんが、#寂しさよこんにちは、というやり方で日常を切り取っているけれど、とてもまともな人のあり方だと思う。それで、やっと本題、おじさんの寂しさについてだけれど、寂しさは、おじさんだろうが若者だろうが、変わらない。変わるのは、寂しさに「こんにちは」と向き合う体力が違う。別の言い方をすると、業の肯定には体力が必要、なのね。一方で、寂しさに「こんにちは」と向き合う、テクニカルな距離感は知っている。寂しさにノックアウトされない距離感だね。距離感は、皮膚感覚の蓄積で磨いていくわけだけれど、それだけだとだめで、考え続ける、という我慢強さがないと、微妙にずれていく。考え続けるとは、依存しなければ生きていけない瞬間を感じたときに素通りしない、ということなんだよね。