3474声 残せているかどうか

2016年05月13日

白鵬のダメ押しのニュース。
以前は、2、3年前まではこういう話はなかった気がしている。
白鵬は自律的な横綱だった。
年齢から考えればありえないくらいに。
一人横綱を長く勤めてきて、タガが外れたのか。
相撲協会の息苦しさや体力的な余裕のなさもあるかもしれない。
こうなると、白鵬だけの問題にしていてもなかなか解決しない。
相撲協会のわけのわからない窮屈さを、それはもう現代っ子にはわけがわからないものになってしまっているんだということを相撲協会が気がついて、ひょっとしたら自分たちもよくわかってないんじゃないかと疑って、何か手を打たないと、力士は萎縮するか開き直るかするしかない。
親方衆は世間知らずだから難しいに違いないが、そんなことを言っている場合ではないので、やらないと。
立川談志が落語を内容から疑ったように。
自分にも他人にも説明が必要な時代になっているのは日に日にそうなっている気がするけれど、それが幸せかどうかはわからないが、残すためには必要、なのだと思う。
伝統文化にまつわる行動基準の説明や、なぜそうでなければいけないのかはあまり語られない。
なぜそうでなければいけないかには説得力がないとならないわけだけれど、もしかしたらその理由は説得力をもはや失っていて、君たちにはわからないかもしれないけれどこの行動基準にはこれこれこういう理由があるんだけど私は残したい、というような、それが願望になってしまっているような場合だって、伝統を背景にした行動基準の説明にはもはやよくある話だと思う。
行動基準とは、脳的に言えば了見である。
了見を理解できなければ、なぜダメ押しがダメかはわからない。
その前に、この了見は適切か、という、そんな議論も必要なのかもしれない。
だから伝統文化にまつわる行動基準の話をするならば、ということもそうだがそればかりでなく、そんな格式のある場合でなくたって、人一人40年も生きれば行動基準はできてくるわけで、この後に及んで何かを残したいならば、了見を伝えないと、大事なところが残らない。
大事なところが残っていない、ということは、残っていない、ということと同じである。