毎日、書いている。
そして最近は、一日一句を自らに課して、下手な俳句を詠んでいる。
この日本人特有の、勤勉であり、ビジネス的な感覚。
を、ある種の創作人は軽侮するだろう。
「書きたい時に書きたい事を書く」
それが、文章創作における、「本当」の形。
習慣的に書いている文章など、愚の骨頂である。
と、ある種の創作人は軽侮するだろう。
しかし、習慣化の中で気付く事もある。
例えば、朝飯。
学生時分の頃は、朝飯抜きの生活をしていた。
それが社会人になると共に、朝飯を食べながら朝刊を読む。
と言う事を、自らに無理やり習慣化させた。
意欲的な行動ではないので、当然、朝飯など喉を通らない。
所謂、「口が不味い」と言う状態なのだが、それでも、
トーストなどを珈琲で流し込む。
朝。気持ち良く起きて
ほんとうに気持ちのよい一日を過ごす。
そのためにすべてはあるのだ。
気持ちのよい食事
気持ちのよい活動
気持ちのよい愛
気持ちのよい眠り
なんのいや気のない生活
そのためにすべてはあるのだ
と言う、山田かまちの詩を思い出して、頷きながらも、
ここ最近は、暑さの為に不快な寝起きの朝を迎えている。
従って、気持の良い食事、などは実現し得ないのだが、今朝の事である。
朝から陽射しは濃く照っているのだが、風にはもう秋の涼しさを感じた。
台所の窓を開けて、裏の田圃を眺むれば、蜻蛉が二、三匹、軽やかに飛翔している。
ふと思い立って、トーストではなく、昨晩の冷や飯に納豆をかけて、食べてみた。
これが習慣化している朝食の味に反して、意外に、美味い。
緑茶を啜りながら、秋を見つけた。