4710声 はれのひ食堂

2021年03月11日

あれから10年ということで、その年の5月に中之条町つむじで行われた「はれのひ食堂」について書いた文章を再掲載させていただきます(僕のzineにも掲載していますが、もとは活動報告として公開したものでした)。この時知り合った東北の方とは長いことお会いできていませんが、群馬の方たちの多くとはこの後も親交が続いており、この時知り合った方たちがいたから今の僕があると言っても過言ではありません。

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「実録 はれのひ食堂」
2011/5/7~8 中之条町「ふるさと交流センターtsumuji」で開催

 

1.

「ハレ」と「ケ」という言葉がある。
ハレ(晴れ)は結婚式等の儀式や祭、町や村の行事など「非日常」を指し、ケ(褻)はそれらを除いた普通の生活である「日常」を指す。昔の日本人は今よりも場が持つ特殊性・意義を大切にし、ハレにはハレの伝統を、ケにはケの慎みを守ってきた。

東日本大震災後、日常はハレを忘れ、ケを保つこともままならない状況となる。群馬県内でも一部で部分停電が決行、町は暗闇に包まれた。そして地震や原発事故は、東北の地に根付いていた地域文化を追いやった。震災から1~2カ月が過ぎた頃には、福島県相馬市・南相馬市で1,000年以上の歴史を持つと言われる「相馬野馬追」の開催も無理だろうと誰もが思っていた。(けれど、関係者・支援者の情熱により「相馬野馬追」は継続開催されている)

つらい状況にあるからこそ、めでたい非日常・ハレの日を作りたい。そしてそれは、地域文化に根差したものでありたい。「はれのひ食堂」プロジェクトは、そんな想いからスタートした。

 

2.

「はれのひ食堂」を開催するきっかけは、「ハッピーレストラン」という大型被災地支援イベントにあった。

「ハッピーレストラン」は、「株式会社ぐるなび」と「合同会社場所文化機構」が協力し、震災後避難生活を余儀なくされた人々、被災地で厳しい生活を強いられている人々に対し、一流シェフによる最高の料理と居心地の良い空間を体験してもらい、明日への活力へ繋げてもらおうという企画。他の炊き出しと大きく違う点は食事提供だけではなく“上質な時間”を体験してもらうこと。そのために、1度に30人以上の利用ができるレストランホールと巨大キッチンカーが“そのまま各地を移動する”キャラバン方式をとった。

その「ハッピーレストラン」の初めての開催場所として、ホテル・コニファーいわびつを主に約300人の被災者が避難していた地域にあった群馬県中之条町の情報発信施設「tsumuji(つむじ)」が選ばれた。場所が決まってから開催のゴールデンンウィークまで、殆ど時間はない。ぐるなび、場所文化機構のスタッフに加え、高崎市・東吾妻町・中之条町の有志からなるメンバー、高崎市・渋川市の青年会議所メンバー、中之条町役場職員などが集まり大きなチームを形成した。

食材集めから会場となる巨大レストランホールの設営、被災者の送迎やキッチンのホール係等、隅から隅までの業務を、協力し合い行った。開催直前には作業は深夜過ぎまで続いたが、スタッフの表情には疲労の中にも嬉々としたものがあった。「震災に対して、離れた群馬の地で何ができるのだろうか?」と思っていた者にとって、「ハッピーレストラン」や続く「はれのひ食堂」は、自分の力を他利のために活かせる場所だった。

「ハッピーレストラン」には3日間で避難者約300人が来場。一流シェフが作るフルコースの料理は、避難生活に疲れた人々に拍手で迎えられた。「震災後、はじめて酒を飲むよ。おいしい」と、緊張の表情を崩す人。ホール係を担当したボランティアと意気投合し、連絡先を交換し抱き合う人もいた。参加したスタッフは「おいしいものを食べ、上質な時間を過ごし満足すること」が、これほどの元気を与えるのだと実感した。そして、スタッフ自身もまた、参加した被災者の「ごちそうさま。ありがとう」とう笑顔から元気をもらった。

 

3.

「ハッピーレストランで使ったキッチンカーとレストランホールを使い、一般の人たちに向けた南相馬の郷土料理の販売をしよう」

準備の途中、主要メンバーである本木陽一からそんな声が上がった。料理を作り振舞うにはまたとない絶好の場所。「ハッピーレストラン」主催者からのOKは早かった。問題は、南相馬のお母さんたちが再度この場所で主体的に動いてくれるかどうかだった。

再度、森本さん、本田さん、松平さん等南相馬の3人のお母さんたちが避難している岩櫃ふれあいの郷を訪ねた。100人近くの食事を3食絶えず作り続ける3人は、あきらかに疲れきっていた。「鍋を振りすぎて手が上がらないの」腕に包帯を巻き付けた本田さんがつぶやく。重い空気の中、ゴールデンウィークに再度南相馬の郷土料理を作り、南相馬の魅力を皆に伝える催しをしたい旨を伝えた。すると3人から帰ってきた言葉は、「施設の許可が下りれば、自分たちがいない間も施設の調理が問題ないのであれば、やりたい」というものだった。

彼女たちは、辛い状況下にあっても受け入れを行った東吾妻町や関係者に対し深い感謝の気持ちを抱いていた。そして、強引な展開ではあったけれど、群馬でボランティアで関わったスタッフとも仲間意識を感じ始めていた。「自分たちを受け入れてくれた皆さんに対して、料理で恩返しができるなら」その言葉を聞いたスタッフたちは、胸を熱くした。もう、やるしかない。イベントの名前は、「はれのひ食堂」とした。

 

4.

それから、幾つかの困難を乗り越え、「ハッピーレストラン」の余韻のこる中之条町tsumujiにて、2日間限定の「はれのひ食堂」はオープンした。

鮭といくらを使った「はらこ飯」、芋がらと大根の煮びたし「弁慶」、スズキをアラごと煮込んだ「どぶ汁」などがずらりと並んだ。巨大キッチンカーの中では、南相馬のお母さんたちと共に地元中之条町等のボランティアが休みなく動く。「何かできることを探していた」という給食従事者のボランティアの手際の良さに歓声が上がる。新聞や町の広報で話を聞きつけた町内外のお客さんが列をなした。料理は贅沢にもバイキング制。被災者の支援活動をしながらも南相馬がどんな場所なのか知らなかったという女性は、「料理を通して南相馬を近くに感じることができた」と語った。避難生活を強いられている人もお客さんとして来店し、「ひさしぶりに、食べ慣れた味が堪能できてよかった」と満面の笑みを見せた。

 

5.

「はれのひ食堂」は両日完売の大成功。最後の完売の知らせを聞き、会場は拍手につつまれ、皆で喜び合った。調理の総監督を務めた料理人・堀澤宏之も胸を撫で下ろす。「はれのひ食堂」チームである南相馬のスタッフと群馬のスタッフとはすでにあだ名で呼び合う仲になっていた。抱き合い、泣くものもいた。別れの際は、これが最後の別れでもあるかのように騒いだ。

その2日間は、まさに文字通りのハレの日だったのだと思う。地震と原発事故によってその存在を失いかけた郷土料理という南相馬の文化・誇り。それらはその味を守ってきたお母さん達と支援する仲間によって再び表舞台に立った。広場にドーンと構えた巨大キッチンカーは非日常を象徴していた。けれど、郷土料理とそれを愛する人々の日常は、ここからまた、始まっていく。