5024声 見てきたような嘘と俳句

2022年02月09日

立川談志は、講釈師(講談師)になりたかったということを聞いたことがある。談志の桑名船(または鮫講釈)を聞くと、そんな気もする。「今日はむしゃくちゃするから」とかいいながら、桑名船をやって気を晴らすくらい、この落語が、講釈が好きだったようだ。そして、好きなだけあって、この落語の中で披露される談志の講釈は見事だ。

 

さて、その講釈師、今は講談師と呼ばれているが、(講談では、神田伯山の「畦倉重四郎」はおすすめですよ)「講釈師見てきたような嘘をつき」という言葉がある。講釈とはそういうものだ。見てきたような嘘とは、リアリティがあるといえる。

 

わたしは、俳句も同じなんじゃないかとおもっている。高浜虚子の客観写生というわかりにくい言葉もあるが、西田幾多郎のいう「純粋経験」のような、主観と客観が一体となったレベルでの経験を表現できると素晴らしい俳句になるのでは、というようなことを漠然と考えている。

 

夏井いつき先生も、選句にあたっては、「想定外のオリジナリティ」と「想定外のリアリティ」を大事にしていると述べている。

 

なんでこんなことを考えているのか。

 

今、結社に投句するための、選句をしているからである。自分の俳句なのに選句は難しい。少し作れるようになってくると、余計難しく感じる。

 

見てきたようなような嘘を、客観写生のように見せた俳句は、・・・この中には無さそうだ。