したたかな雨音に目が覚める月曜の朝であった。いろいろと沈む。昨晩の内にいくつか投句を済ませておいたので、睡眠時間が短かく、これまた沈む。ばたばたと家を出て、駅のコンビニで握り飯を一つ買い、ホームで食べてから列車に乗る。これはもう今考えても朝の列車にパクっと飲み込まれて、夜の列車にまたペッとホームに吐き出されるようなイメージである。何時間後には、また同じ握り飯をホームで齧っているかも知れない。そうならないために、早く寝よう。
2020年06月22日
したたかな雨音に目が覚める月曜の朝であった。いろいろと沈む。昨晩の内にいくつか投句を済ませておいたので、睡眠時間が短かく、これまた沈む。ばたばたと家を出て、駅のコンビニで握り飯を一つ買い、ホームで食べてから列車に乗る。これはもう今考えても朝の列車にパクっと飲み込まれて、夜の列車にまたペッとホームに吐き出されるようなイメージである。何時間後には、また同じ握り飯をホームで齧っているかも知れない。そうならないために、早く寝よう。
2020年06月21日
朝は一時的に小雨だったが、その後は晴れ。もう中年になり、いろいろと情報を掴むアンテナが古び、まずこの表現にこそ古びたる感覚が表れているが、この頃、ネットでは面白い文章を書く若者がわんさかいると知る。そういう人たちの文章など読んで、その面白さに驚嘆する。noteなりなんなりそういうのが、ごろごろある。SNSなどの台頭により、若者の感覚も多様になってくる。それにより昔のように誰もが知る流行など生まれにくいのでは、などという記事を十年くらい前に目にしていた。なるほど表現の場や方法は格段に増えたかもしれない。しかし、なんだかみな似ていると感じている、表現の「核」といえばよいか、その共有のしかたといえばよいか。スマートで自嘲的で伏線とオチに気が利いていて。多様であり一様。
2020年06月20日
早朝より定例の吟行そして句会。三か月ぶりで、なかなか感覚を取り戻せなかった。久しぶりの梅雨晴間で、歩き回ったり、狭庭の草をむしったりでぐったり。昼飯は久しぶりにうえだ別館に行けたので満足。食に季節を感じると言うのは本当に贅沢。そして癒し。疲れた一日は麦酒が美味しく、飲みすぎてぐったり。酔眼朦朧としつつ、ネット句会に投句。実際に吟行で俳句を作り、句会はバーチャル。ハイブリットな取り組みが出来た。
2020年06月19日
朝から失念していたネット句会の選に追われる。リアル句会ならば体は一つ、ということで行く句会は限られるが、バーチャルの句会はその気になれば、週いくつも、また日にいくつも参加することが可能なので、時間に追われることもしばしば。これが終われば、また明日も。
2020年06月18日
午後から天気は下り坂。近頃、町に学生が多くなった。分散登校でなく、一斉登校日だったのか、最寄り駅の朝はことに多かった。日常の通学風景が戻ったと思ったら、みな一様にマスクをつけているので、いささか異様であった。夜は会報の校正を済ませ、献本句集を読み終える。この句集の作者は私が初学のころに、句集を買っていた俳人の方である。確実に過去作より一句の重みを感じた。重みは感じるが、昔の句集の方が好きだと感じた。今回の句集はあきらかに俳句特有の匂いが強い気がした。俳句の世界を渡りつつ、俳句の匂いを消していくことは難しい。
2020年06月17日
梅雨の晴れ間で、真夏日の一日となった。献本の句集を読み始める。依然としてネットでの句会が多く、ちらほらと句を見繕う。週末の句会の予定を考える。去年は小岩菖蒲園に吟行に行ったが、今年は流石に難しいだろう。近場で涼しげなところで予定を組む。酔眼朦朧として、やるべき校正を進められず。
2020年06月16日
掌から砂が零れるような一日であった。ここ数日は帰宅してから気が抜けてしまい、麦酒を飲んで無為に過ごす。寝つきも悪く、眠りも浅い。ここ最近はくだらない句ばかり作っている気がする。原因はわかっている。実際の自然から発露を得ていないからである。いろいろと引き締めないといかん。腹回りとか。
2020年06月15日
先ほど、都内の路地を歩いていると、夜の闇の向こうから、香ばしい匂いが漂って来た。匂いにつられて角を曲がってみると、灯の下、脚の長いコンロで、おやじが焼き鳥を焼いていた。傍らのテーブルにはグラス片手に、煙を見つめつつ、話しつつ、立っている人たちがいる。この店は、以前カレー屋だったはずと、店内を覗いてみると、なるほどカレーを食べている人がいる。カレー屋の店主が軒先にて焼き鳥と立ち呑み、この店の雰囲気に合わせ当世風にいうなら、「スタンディングバー」を始めたのであろう。新型コロナウイルスの影響下で、飲食業の生態系も変化しているのだ。
2020年06月14日
引き続き、雨。太陽が出ないと、なんだか気持ちもすっきりせず、いまいち調子が出ない。原稿に取り掛かるも、三分の一も書けず。外の激しい雨音に触発され、「七人の侍」を久しぶりに観る。三度も見たのに、初見の如く三時間以上ものめり込んで観てしまった。これで半日潰れたが、そこはかとなくすっきりした。観る前と後では、五月雨の音が違って聞こえた。
2020年06月13日
梅雨らしく朝からひねもす雨。軽い二日酔いで目覚め悪し。飲みすぎか安酒だったからか、その両方だと思うが、家で飲んでいてこんな状態だと世話ぁない。まだ締め切りが先の重たい原稿に手をつけられぬまま。「俳句との出会い」式のお題は、どうしても億劫になってしまう。これまで、を見つめなおす良い機会ではあるのだが。昨日付けで定額給付金が振り込まれていた。残高がマイナスのような預貯金なので、何に使うと言うよりもマイナスの補填に消えてゆくのだろう。
2020年06月12日
終日、梅雨らしく蒸し暑かった。六月から最寄り駅の駅ビルの短縮されていた営業時間が元通りになり、午後六時閉店ではなくなったため、ちょっとした買い物ができるようになったのでありがたい。とんかつを買って帰った。そして今しがた、部屋に小さな蜘蛛が出た。蠅などを捕獲してくれるとは分っていながらも、見つけた場合は捕っている。ティッシュで「さっ」とやろうとしたのだが、異常に動きが素早く、逃げられてしまった。部屋が暑かったためか、身のこなしがひと月くらい前と比べ、飛躍的に素早くなっている。スパイダ―マンよろしく、糸を使ったアクロバティックな動きで机の脇の暗がりに入ってしまった。
2020年06月11日
九州北部から東北南部まで、今日、列島広く梅雨入りした。都内は午後から天気が崩れ、夕方は一時土砂降りであった。巷の紫陽花もだいぶ色づいてきたので、本格的な雨の時期に入ったようである。ぐったりと疲れが抜けないのも、この気候と関係があるのだろう。俳句関係はひと段落で、しばらく選句や句会の予定はない。朝日文庫の「現代俳句の世界」をぱらぱらめくっていると、「森澄雄集」の序文を島尾敏雄が書いており、小さな発見に小さく驚いた。九州帝国大学時代の同級生との由。
2020年06月10日
じりじりとした日差しの真夏日であった。朝、水やりをしていると花壇に植えてあるサルビアがずいぶんと弱っていた。花の赤みが失せ、ほろほろと散っている。土の栄養が足りないか、水が十分でないか。おそらくその両方のような気がする。明朝、少し切り戻してみようと思う。その脇のおそらく秋桜らしき茎は、近頃になってぐんぐん伸びてきた。植物も日々一進一退である。なんだかご隠居の日記のような内容になってしまった。しかし、そこに小さな感動があったので、書かずに居れない。あの鮮やかさ、には目が覚める思いがした。サルビアの脇にはパンジーが植えてあり、パンジーの白い花に黒い毛足の長い毛虫がよじ登ろうとしていた。その体はほぼ漆黒だが、地肌の部分に橙色の一閃があった。白い花の上に乗った毛虫の波打つ毛並み、その色の鮮やかさ。あの造形の神秘をどう表現すればよいか。まぁ気持ち悪いのだが、魅力的である。
2020年06月09日
所用でほぼ終日病院。新型コロナの影響で、人数制限や入口にはサーモグラフィがあったりと、厳戒態勢であった。いままでも感染症対策は各医療機関で為されていたであろうが、2020年春のコロナ以前以降で、間違いなく意識が変わっている。病院には中庭があって、今の時期は青葉や紫陽花が見ごろであった。澄んだ窓硝子越しに瑞々しい緑を眺めつつ、売店で買ったカツサンドで昼食。しかし、ベンチには間隔を開けるように張り紙がしてあったり、中庭に続く入口や窓は「封鎖」の張り紙、どこも張り紙だらけ。致し方ないが、人より張り紙の方が多い。涼しい病院を後にして、気温三十度越えの真夏日の街へ帰ってきた。
2020年06月08日
雲多く、終日、じめりとした暑さが続く。最近、Wifiの完備されているカフェなどで、モバイルPCの画面に向かって、一生懸命話しかけている人を良く見かける。オンラインでの打ち合わせなのだろう。桜の頃より前は、見られなかった光景である。夜、来週末の句会のもろもろの算段をして、滞っていたインタビュー形式の原稿に手を付けるが、またすぐに滞る。
2020年06月07日
朝は夏らしく曇っていたが、日が高くなるにつれ快晴になった。外に出ると汗ばむほどであったが、からっとして心地よかった。何をするでもない一日であったが、シャワーを浴びて夕風に吹かれつつ飲む麦酒は格別であった。アテは味噌を付けたきゅうり。心の疲弊はいかにして癒せばよいか、それを考えつつまた缶麦酒を注ぐ。担当の選句、同人誌の作品入稿を済ませる。
2020年06月06日
緊急事態宣言が解除されたが、まだ各地では人が大勢集まるイベントなどご法度となっている。夏祭り関連、花火大会関連はことごとく中止になり、いささか寂しい夏になりそうである。ちょうどいま、蛍の時期を迎えようとしているが、各地の自然公園では蛍狩りイベントが中止になっている。その中、俳句関連ももちろん大きな句会関係など、ことごとく中止になっている。自身も9月に開催される西の方の俳句関連の依頼があり、楽しみにしていたので、どうなることやらと気をもんでいる。俳人と会わず、俳句を作る日々が続いている。こんな時期だからこそ、初心に帰ろうと思う。そう書くのはたやすいが、果たしてそれができるか。現在、真夜中だが激しい雷雨が窓硝子を叩いている。
2020年06月05日
今週は、昼飯に日高屋によく行っていた。その前は吉野家など、「屋」とか「家」のつくところにどうも足が向いてしまう。つまりは芸がないのである。しかし、そんな店も嫌いではない。近頃はどこへ行くにもだれと会うにもマスクをつけているので、平気だろうとタカをくくって、においなど気にせずW餃子定食などを平然と食べている。今日も日高屋で餃子などつまんでいたら、斜向かいの席の三十路がらみの営業と思しき男女が来て着席した。少し経って運ばれてきたのは、餃子と麦酒ジョッキである。ぐいぐい麦酒を空けていく二人に、平日の昼日中から呑めるとは、どんな仕事なのだろうと興味がわいた。よれよれの服を着ている私とは対照的に、スーツ姿の洗練された容姿である。そんな光景を見ていて、先日、堀澤さんが4417声の「雰囲気」を思い出した。該作の中に、「例えば、なぜ高崎には昼飲みの飲食店が根づいていかないかの理由も同じだろう。きっと、雰囲気だ。」という一節がある。都内の繁華街には高崎の雰囲気とは逆に、とくに夏場などは昼から呑める雰囲気が根づいている。物見遊山の観光客なども多いためであろう。緊急事態宣言の発令で、そんな雰囲気も絶えていたが、徐々にその雰囲気が戻ってきているようである。二人が二杯目のハイボールを注文している姿を横目に、店を後にした。