アスパラが終わってルッコラは花を咲かせ山椒が実をつけ始めた。わが家の庭の春も終了である。数年前に植えたアスパラが今年になって多く芽を出した。採れたてのアスパラはみずみずしく果物のような甘みを備えていた。今年は店の料理に上る山菜に交じって「うちの庭で採れたアスパラです」と説明するのがお決まりだった。時期としては山菜もひと通り終了である。献立改編の時期である。
2025年05月23日
アスパラが終わってルッコラは花を咲かせ山椒が実をつけ始めた。わが家の庭の春も終了である。数年前に植えたアスパラが今年になって多く芽を出した。採れたてのアスパラはみずみずしく果物のような甘みを備えていた。今年は店の料理に上る山菜に交じって「うちの庭で採れたアスパラです」と説明するのがお決まりだった。時期としては山菜もひと通り終了である。献立改編の時期である。
2025年05月22日
考えることをオフにする時間がないと次の考えが始まらない。そういうことを意識するようになったのは最近のこと。今までなんとなくそれをしてきたつもりでいたができていたと思っていたのは勝手な思い込みで大抵ができていなかったのだなとも思う。考えているようでいて考えられる状態ではなく、そういう状態でやり過ごせた。穴の大きすぎるザルのように本来留めておかなければならないものまで穴からこぼれていたのに気づかぬまま時が過ぎても、あまり問題がなかった。ところがそれでは問題が起こるようになってきた。何かを落としたりこぼしたり、どこかにぶつかったりする。それくらいならばまだいいが準備するべきものがそろわないといったことが平気で起こる。頭も身体も動きが緩慢になったのは、頭と身体がオフになりにくくなったことでもあると思う。
2025年05月21日
五日ぶりの休息日。やることはそこそこあるが今日は何ができるだろうと思いながら朝風呂に浸かる。風呂から出て体操をして、高倉町珈琲のモーニングへ。高倉町珈琲のソファに座ると頭が動き出す。いつもはここでその日のやることを整理するのだが今日は全く頭が働かない。ダメらしい。仕方がないのでボーっとして過ごす。10時から足踏み整体に行き、戻ってから何ができるだろうと思ったが寝てしまった。その後起きて床屋に行き、買い物をして店へ。包丁を研ぐ。包丁を研ぐと頭が動き出す。はずだが動き出さず。やはりダメらしい。そういう日である
2025年05月20日
久しぶりにご来店のお客様。半年ぶりくらい。うちのシャリを気に入ってくださったようで、「また食べたくなるんです。やっと来られました」と仰っていた。先月も同じようなことを言われたことがあり、「このシャリは依存性があるんだよ」と。自分では当たり前になってしまっているためそこまでわからないが、そういう感覚を持たれている方もいるのかと思った。確かに一度行った店にまた行きたくなるときはその店の何かを再び味わいたいと思うからだろう。そう感じてくださるお客様がいることを知れてよかった。
2025年05月19日
「場所」という言葉について、という話題が先の富山旅の最中に上がった。それは具体的な「場所」もあれば目に見えない精神的な「場所」もあるだろうが、一つの理解の仕方として「何かと何かが出会うところにできるのが場所」ということを太田住職は仰った。これまで「場所」という言葉を使うときに「ある一定の広さのあるところ」くらいにしか考えていなかった私は広さを伴うならばその面積は文字通り大きくなければならないと思いがちだった。ところが「何かと何かが出会うところ」という考え方に沿えば、例えばご飯におかずが並ぶだけで「場所」になる。料理に酒が添えられても「場所」だろう。そう思ってはたと気づく。そうか、自分は場所に、つまりそれは複数からなる空間であることに興味があって、そしてその構成員の役割に興味があったのかと。料理などなくとも単体でおいしい酒に魅力があるのは分かる。しかし何かと合わさってよくなる酒というものにはるかに惹かれてきた。燗酒がそうだしナチュラルワインがそうだしシンキチのビールもずっとそのことを意識している。つまり場所の構成員たるための要素、もっと言えば場所の中でどんな役割、立ち回りをしているかに興味があるのかもしれない。「場所」という言葉を通して自分に気づく瞬間であった。今日はその富山旅でご一緒したお客様のご来店。旅を共にしたから余計にわかるそれぞれの役割。
2025年05月18日
今日は直前に入った予約で若い男性一人のお客様。仕事の忙しい日が続きご褒美で鮨を食べに来たとのこと。市内にお住みらしい。鮨がお好きなようでそれは食べ方を見れば分かる。鮨を楽しみたければ咀嚼するようになる。一口完結型の料理だからこそ口の中の変化が楽しみの一つとなる。ネタによりシャリの違いにより店ごとに印象は変わる。そういう意味では同じ噺でも演者が違うと別物となる古典落語に似ているかもしれない。黒酢のシャリだと伝えたら中華料理の話になった。そこから紹興酒の話になり、ヴァン・ジョーヌの話になり。こうしてお客様と味の話で時間を過ごせるのは満たされる気分になる。
2025年05月17日
ご両親と息子さんの3人ご家族で来店。初任給で両親にご馳走してあげるのだそう。どんな仕事に就いたのかと尋ねれば調理とのこと。しかも和食ということだった。それはついサービスしたくなる。ご両親は私と同じくらいの年齢だろうか。このくらいの息子がいてもおかしくないなと思う。板前になり初めて調理場を経験した29年前を思い出す。未経験による自信のなさと理屈の多い自我に挟まれながら必死だった。いくら酒を飲んでもよく眠れたし悪い夢も見なかった。初めての仕事でまだわからないことばかりだろうけれどそのままでいい。大丈夫だからと言ってあげたい。
2025年05月16日
ひとこえのことをすっかり忘れていた。半月も忘れていたのはおそらく今までになく、気づいて驚いた胸に手を当てて考えてみるがとくに理由は思い当たらない。いい歳なのに相変わらず気忙しく相変わらず日々やることが余りがちなのは今に始まったことではなく。今日から現在と過去の分と二つずつ書いていこうと思う。毎日細かい行動表をつけているのでその日何をしていたのかはおそらく思い出せる。
2025年05月15日
ビールの郵送手配をする。群馬から北海道に移り住んだ川野さんの奥様からビールを送ってほしいと連絡があった。調べてみたら川野夫妻が引っ越してから7年経つようだ。あっという間だな。川野さんは北海道でワイン用ぶどうの栽培をしている。実直な方で裏表がない。優しい笑顔の記憶しかないがお元気だろうか。奥様によればご主人は日焼けで真っ黒だとのこと。そういえば色白だったよな。また会いたい人が増えた。
2025年05月14日
昨日に引き続き今日も暑い。予報では夏日になるらしい。庭の片付けをする。庭に夏野菜が植えられてその時に刈り取られて山積みになった枯れ木や雑草を短くして袋に詰める。庭の管理はもっぱらともちゃんがしてくれているので私はその補助的な仕事。きれいになった。水曜日は整体の日で身体をほぐす日だが一週間の疲れがどっと出る日でもある。
2025年05月13日
山菜のお浸しに軽くヅケにした本鱒を和えて卵黄ソースでお出ししている。まずまずの評判。派手さはないがこういう料理を挟むとコースにメリハリができる。山菜のモノが良ければコース全体の深みも増す。山菜の香りと苦み、出汁の旨み、本鱒と卵黄のコクの料理。全体としては軽さの料理。野菜をおいしく食べてもらう料理をしっかり取り入れようと思う今日この頃。
2025年05月12日
昨日倉林くんと久しぶりに飲んだ。今年になって初めてかな。変わらないな。歳はちょうど10個違うはずだから43歳か。私がビールの研修に行った歳だ。シンキチの借り入れをした歳。何かやるには彼もいい時期ではないか。のんびりしていると人間はあっという間に動けなくなる。彼の場合は私ほど酒量が多くなさそうだから大丈夫か。GW明けの暇な日が続く。鰻の八幡巻きの試作をした。昨年9月に京都の近又でいただいた八幡巻きがおいしかった記憶がずっと頭に残っていた。悪くはないが近又とは別物。何が違うか考える。
2025年05月11日
ビールの仕込み。今日はほうじ茶のビール。以前にも数回仕込んだことがあるがイメージどおりにはいかなかった。エビスが期間限定ビールでほうじ茶のビールを出していて、どういう自信かわからないがこのくらいでいいなら作れるかもしれないと思ってしまった。だいたいそううまくはいかない。さてどうなるか。
2025年05月10日
本庄のサクラさんへ。ナチュラルワインの店。10数席をマスター一人で切り盛りしている。マスター一人で切り盛りしている所謂ワンオペのナチュラルワイン店は高崎にもいくつかあって時々行く。それぞれ個性的で面白い。サクラさんはワインの好みとそれから時間感覚が似ているかもしれない。程よい距離感で程よいタイミングで出してくれる。仕事の合間に立ち寄るカフェのように、その店と自分の時間感覚が似ているとリズムを作れる。そういう酒場はありそうでなかなかない。
2025年05月09日
米が不足しているらしい。今こそ米は精米せず玄米で食べることがスタンダードになればいいと思ってしまう。米を精米せず玄米のまま食べれば一割程度カサが増えるのだから。玄米の最も優れた健康効果は排出力だと思う。日々を快活に送る要素の一つとして排便があるとすれば、玄米は白米に比べて圧倒的に優る。便力がつく。ではなぜ玄米は白米に比べて人気がないのか?これは私の仮説だが米を食べるとき舌よりもむしろ喉で食べたいからではないか。白米は口の中に入れて数噛みすれば唾液と反応して溶けていく。ところが玄米は糠層があるためさらに噛まないと粒のままである。噛もうとすれば口の中央で舌で米を抱えながら噛むことになる。自ずと舌に触れている時間が長くなる。それに対して白米は素早く溶け始めるため中央にいる時間は短く外へ外へと流れる。流れたものは飲み込む。それを気持ちいいと感じる人が多いということではないか。ビールを舌よりも喉で飲みたいのと似ている。相変わらず飲食店のご飯は白米ばかりで玄米にはほぼ出会わない。それは人間にとってどのくらい正常で、どのくらい異常なのか。
2025年05月08日
前夜は21時に寝たが1時に目が覚めてしまう。眠れる気がしなかったため体操してみようと始めたら3時になってしまった。夜中に目が覚めて眠りに戻れる日もあれば戻れない日もある。戻れない日は布団の中でだましだまし、身体の位置を変えてみたり枕の位置を変えてみたり深呼吸してみたりする。それでもだめなときはだめ。今日はその日だった。夜中の体操をしたあとはよく眠れて目が覚めたら朝の9時だった。こういうのは身体が疲れているというよりは自律神経が壊れていると言う方が正しいのではないか。二度目の睡眠時に真っ白の犬と猫が夢に出てきた。犬は子犬で私の背中に乗っかって遊んでいた。犬のふわふわとした感触まで残っている。
2025年05月07日
久しぶりの連休。休みが一日だとそのうち半日は翌日のための仕込みがありあまり休めない。というわけで2ヶ月ぶりに実家に行ってきた。今年は頻繁に実家に帰ろうと年初に思った。昔から用事がなければ帰らない息子で年に1~2回くらいしか実家に帰らない。今その息子を両親は必要としているように感じた。2ヶ月空いてしまったな。帰って何をするわけでもなくお袋の話相手になるだけで、他にも庭の草むしり位はできる。今回はお袋の方がむしろ元気で自分の方が疲れていたようだ。伸び始めた雑草を横目に帰ってきた。高崎に戻る途中で初めて立ち寄ったそば屋がとてもおいしくなかったことを悔やんだ休日でもあった。
2025年05月06日
雨模様の連休最終日。忙しくはならない気もするが予約があるため早くから仕込み。今日が終わるといったん仕事が落ち着く。2週間くらいの慌ただしい日々だった。その中で訪れた富山南砺の旅が深く心に残る。富山県南砺市は浄土真宗の町。田んぼの間に家が点在する散居村の景観である。遮るものがない水田が視界の向こうまで重なりちょうど田植えの時期の田んぼには水が張られキラキラと輝いていた。重厚な能登瓦の立派な屋敷が多く寺も多い。何とも言いようのない穏やかな空気の町である。「他力本願」。思い通りにいかないことを思い知っている者の慎ましさ。その空気が溢れている南砺を柳宗悦は「土徳」の地と呼んだ。今回の旅でお会いした大福寺の太田住職はこう言っていた。「モノに対する態度が問われているんじゃないですかね」。出来上がったものはウソをつけない。雑な態度は完成品にこそ出る。仕込みのとき、お客様を前にして、旅以来ことあるごとに思い返す。