日刊鶴のひとこえ

この鶴のひとこえは、「めっかった群馬」に携わる面々が、日刊(を目指す気持ち)で記事を更新致します。担当者は堀澤、岡安、すーさん、坂口、ぬくいです。この5人が月替わりで担当しています。令和6年度は4月(ぬ)5月(岡)6月(す)7月(堀)8月(坂)9月(ぬ)10月(岡)11月(す)12月(堀)1月(坂)2月(ぬ)3月(岡)の順です。

1384声 観音山句会

2011年10月15日

降ったかと思えば止んで、止んだかと思えば降って。
しかし、傘をさすほどでもないのが、救いであった。

高崎市の染料植物園の駐車場から、句会場である染料植物園の温室までは、
遊歩道になっている。
染料植物の木々が生い茂った、林の中を行く。
昼間でもほの暗い遊歩道は、虫の音や鳥の声が繁く絶え間なかった。
葉を打つ雨の音を聞きながら、林の中を歩き、花を愛で、鳥の声を聞き、
木の実を拾いながら句を作って行く。

ひびき橋まで来ると、先生や句会の参加者が、7、8人点在していた。
観音山の薄紅葉や、聳える白衣観音が見えるので、皆、
その景を句にしようと試みているらしかった。
ひとしきり時間を過し、句会場まで戻り、10人20人と集まり来て、
伝統俳句協会群馬支部の句会。

鬼胡桃、橡の実、野菊、檀の実など、秋の観音山ならではの季題で、
巧い句が沢山あったのに舌を巻いた。
私は薄紅葉を詠んだ句が、ひとつ選に入ったが、総体的に出来が悪かった。
「俳句に触れる」
と言う事もそうだが、まずは「自然に触れる」と言う事を、今一度考えねば。
そう感じた。

木々の名前、木の実の名前、虫の名前、鳥の名前、そして、花の名前。
それは、自分が句作する上では、
あまり問題ではない(知っているもので作ればいいので)のだが、
他人の句を鑑賞する時に、弱ってしまう。
なので、野や山や街や路地裏、色々な場所に吟行に出掛けると言うのは、よい。
山登りなどしない私にとっては、特に、里山で気分転換する動機付けになる。

【天候】
終日、ぐずついた雨天。

1383声 秋の百日紅

2011年10月14日

一雨ごとに、秋も深まって来ている。
秋気も澄んで、里の山肌では初紅葉が目に付く。
そんな時期に、狂い咲きであろうか、庭の百日紅の木が花を咲かせている。

百日紅と言えば、概ね真夏に咲く花である。
この庭でも、盛夏の陽射しの中、百日紅が鮮やかなピンク色を咲かせていた。
その同じ木から、麗らかな秋の日差しが差し込むとは言え、10月も中旬を過ぎて、
また、鮮やかに咲いている。
夏の頃とは違い、枝先のもっとも明るさが集まっている部分に、ひと固まり花を付けている。

狂い咲きの百日紅から、縹渺とした秋の雲が出てゆく。
2011年も残り二月。
何も無く、何事も無く、穏やかに月日が流れて欲しい。

【天候】
終日、雲多くも穏やかな秋の日。

1382声 隣近所

2011年10月13日

おそらく、無名である。
地域の輪の中では名が通っていても、世間ではほとんど無名と言えよう。
それなので、本棚にあって、格安で投げ売り同然に売られていた。

そう言う本を古本屋見つけ出しては、買っている。
ここ数年は、「俳句集」などが多い。
自費出版した私家版の句集や、無名の作家の句集となると、
「俳句」と言うジャンルと相まって、すこぶる価格が安い。
消費者としては有り難いが、手にとって、いささかさびしい心持もする。

今日、一冊購入してきた俳句集も、昭和末期に東京の出版社から、
シリーズ物で刊行された句集のひとつ。
著者は群馬県出身だが、ほとんど無名と言える作家で、私も今日初めて知った。
奥付に記載してある著者の生年月日を見ると、昭和一桁生まれ。
御存命なら御高齢だろうが、私に知る由も無く、俳友の周辺情報でも聞いた事が無い。

読み進めてゆくと、これが良いのである。
新進作家特有の才能の鋭さ、有名な大家の洗練された技巧。
そんな「華」こそ無いが、主婦と言う視点から感じ取った自然を、
素直な詩心で五七五にまとめている。
そして、生活と俳句に、どっしりと腰を据えて挑んでいる。
例えば、隣近所に住む、ごく普通のおばちゃん或いはおじちゃんが、
堂々たる句風の俳句作家なのである。
やはり、日本人とは、そういう民族なのであろうか。
「すごい事だなぁ」と、しみじみ感じた。

【天候】
穏やかな秋日和。
月光が一段と清かになってきた。

1381声 大人の口実

2011年10月12日

今宵の月は満月であった。
月明かりが冴え、夜空もきめ細かくなって来た印象を受けた。
徐々に、冬が近づいて来ている。

夕方だった。
今日の満月が目に止まった時刻が、である。
信号待ちをしていて、前方の空。
夕日の光に染まった赤色と、随分と低く大きく映っている姿に、驚いた。
その後に見た月は、はや日暮れ空に高く昇っていて、青い光を降らせていた。
満月の夜に、夕方から夜にかけて、月の昇り行く様を見ながら、月見酒。
てぇのも、春の花見酒とはまた全然違った趣がある。
とは言いつつも、社会生活を営む大人に取って、その時間を得るのは至難の業であろう。
十五夜でなくとも、満月の夜は、月を愛でると言う風習が浸透して欲しい。
大人は何かと「口実」が必要であるから。

そんなことを考えつつ、近所の夜道を、少しばかりほっつき歩いて帰宅。
庭に実っている色づき始めた柿が、月光を蓄えて、更に丸々と太り始めていた。

【天候】
終日、秋日和。

1380声 シンクロナイズ

2011年10月11日

慌ただしく過ぎ去った週末だった。
帰宅した時点で、既に日付が変わっていたので、
まだ、昨夜の銭湯ナイトの熱狂が耳の奥に残っている。
気分を切りかえる為、夜、外を散歩してみた。

「5句」
と決め、ポケットに句帖とペンを差し込んで、裏の田圃へ出掛けた。
ぽっかりと口を開けている田圃は、一面の虫の闇。
大型ショッピングモールの灯が、煌々と灯っており、
その遥かには、榛名山が微かに映っている。

三十分ほど歩いたが、苦戦。
スポーツや楽器と同じく、やはり韻文詩である俳句も、
間を開けると感覚を戻すのが難しい。
ともあれ、苦戦を強いられる戦いのほうが多いので、
感覚が戻っていようといまいと、同じ様な事。
「虫」で3句、「秋灯」で2句、強引に詠んで、家に戻った。
虫時雨の中で深呼吸をしていると、やはり、東京の喧騒よりは気分が和らぐ。
夜の中の虫の音と、胸の中の心臓の音とを、シンクロさせている時間。
てぇのは、一日の中で必要な時間、である。

【天候】
終日、秋日和。

1379声 第7回東京銭湯ナイト

2011年10月10日

新宿駅東口を出て、歌舞伎町へ入る。
この喧騒の中を行くのは、丁度一年ぶり。
季節は確実に巡っているの。
しかし、一年前の同じ日同じ時間に、同じ様な秋の夕暮れ時の露地を歩いていると、
「本当に一年経ったのだろうか」
と言う錯覚に陥る。
つい昨日の様な心持でもあり、遠い昔のような心持でもある。

「銭湯ナイト」の会場である「ロフトプラスワン」へ着くと、入口に「第7回」とあり、
やはり「第6回」から一年経ったのだと、感じる事が出来た。
地下へと続く階段を下り、会場に入る。
慌ただしく搬入や設置を済ませ、これまた慌ただしく様々な関係者の方々と挨拶。
そして近況報告や情報交換などを済ませ、雪崩式に開場。

イベント自体は、いわずもがなの大盛況。
三連休の最終日にも関わらず、満席になっていた。
夜も深い時間まで、東北の銭湯を中心とした濃い話が続く。
町田氏や出演者の方々の保有する、東北銭湯の秘蔵の写真が、
貴重な市井の文化遺産であると、この大震災を通して、改めて実感した。

ぽつりぽつり、と自身の本も売れ、今回の目玉として持って行った、
「群馬伝統銭湯地図」もまずまず配布出来た。
去年買って下さった方々の感想を聞く機会があり、
まさに自ら直販できるこのイベントならではの事だったので、新鮮だった。
今回は早上がりして、東京から新幹線の最終へ飛び乗って帰路へ。
新幹線の終電。
と言うのは、初めて利用した。
寝静まった街を猛スピードで走り抜ける、車内販売の来ない、ひっそりとした車内は、
いささか寂しい思いがした。
窓に反射する光を眺めていたら、つい先程までの、煩わしい繁華街の喧騒や、
下品に揺れる原色のライト、そして熱気あふれる地下の一室が、妙に懐かしくなっていた。

【天候】
終日、秋日和。

1378声 第7回銭湯ナイト前夜

2011年10月09日

日刊「鶴のひとこえ」なので、その日に更新しなればならない。
しかしながら、日々の生活状況に左右され、
その日に更新できない事が、多々ある。
そうなると、極めておぼろげな状況になるのだが、それでも、良しとしている。

起承転結の「起」から、言い訳じみているが、それもそのはず。
これを書いているのは、11日の火曜日。
本来は9日に書くべきものである。
この日は秋うららの、好転。
群馬県外へ出掛けていたのであるが、交通手段が電車だったので、
心おきなく、飲んでしまった。
そうなると、あとは雪崩式。
翌日に、第7回「銭湯ナイト」を控えており、
前倒して東京方面に入っていたのであるが、焼き鳥の誘惑にはどうしても勝てず、
いささか痛飲。
若干の二日酔いで銭湯ナイトに臨む羽目になってしまった。

【天候】
雲多くも、秋うららな一日。

1377声 読書雑感「花衣ぬぐやまつわる……」

2011年10月08日

目が覚めてから、カーテンも明けぬまま、朝の薄明かりの寝床で、
脇に置いてあった本を引き寄せて、読んでいた。
分厚い本なので、ここ一週間くらいかけて読み進めていた。
今朝、丁度読み終わりそうだったので、そのまま読了してから、起床しようと思った。

田辺聖子著「花衣ぬぐやまつわる……」(集英社)。
と言う本で、大正・昭和初期に活躍した女流俳人「杉田久女」に関する内容である。
タイトルにもなっている、「花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ」や、
「谺して山ほととぎすほしいまま」などの句は、俳句入門書の類に頻繁に出て来る有名な句。

「久女」と聞くと、やはり、ホトトギス除名晩年の精神病院の印象が強く、
狂気の内に最期を迎えたと喧伝されている。
著者はその喧伝、つまり噂に不信感を抱き、ひとつひとつ丹念に久女ゆかりの地へ足を運び、
噂の出所と事実関係を洗い出して行く。
忠臣蔵的と言うか、主君の汚名や大切な人の冤罪を晴らす為、所謂、「俳壇」と言う大きな闇に、
一縷の光を照らすと言う印象を受けた。
なまじ、その大きな闇に属していないので、遠慮や躊躇なく暗部には光を当てているので、痛快だった。
俳句を「芸術」と強く意識し、その芸術に惜しげも無く自分の才と人生を捧げた、
稀有な女流俳人「杉田久女」。
著者が巻末で「愛する句」として、一句挙げている。

甕たのし葡萄の美酒がわき澄める  (久女)

この句には、晩年の暗い雰囲気はみじんも無く、ハイカラな才媛の雰囲気が漂っている。
いかにも「モテそう」であり、そう言う「たのしい」久女の一面を、著者は紹介したかったのだと感じた。

鶴舞ふや日は金色の雲を得て (久女)

久女の句は、俳句に親しむ私たちの心の空で、伸び伸びと舞い飛んでいる。

【天候】
雲一つない、秋日和。

1376声 有りの実

2011年10月07日

「幸水」や「豊水」は時期が終わってしまったが、
「二十世紀」や「秋月」などは、丁度、10月前半の今時期が食べ頃である。
先日、この二つの種類の梨を頂いて、いま、梨三昧の生活を過している。

群馬県内でも、東では明和町の新里、西では高崎市榛名の里見などが、
梨の産地として有名である。
私は住んでいる地域が高崎市なので、「里見の梨」が馴染み深い。
他所の家で、梨を頂くと、「里見ですか」と思わず聞いてしまう癖までついてしまった。
大きな視野で見れば、関東地方で「梨」と言ったら「千葉」県なのだろうが、
今でも梨と言ったら里見と言う観念が抜けない。

それは、里見の梨の味を信頼しているからだとも言える。
「日本全国、梨の産地は数あれど、里見の梨に勝る物なけれ」
と、心の片隅で思っている。
学生時分、群馬県外に出て、他県出身の知人に話しても、
誰一人として里見の梨を知らなかった。
それは新里の梨とて同じ。
しかし、郷土とはそう言うものだと、後年思った。

「梨の実」は「有りの実」とも言われる。
「無し」だと縁起が悪ので、「有り」にしたのだと言う。
私たちにの祖先には、確実に「お調子者」の血が流れているようである。

【天候】
終日、秋晴れ。
午後より風強し。

1375声 脱・麦酒一辺倒

2011年10月06日

若い時分から、胃が丈夫な方ではなかった。
好き嫌いこそないものの、食が細かったし、食べ過ぎてもたれる事も、
食欲不振になる事も多かった。
同世代の友人たちの、驚異的な食欲にいつも圧倒されていた思い出がある。
酒を飲み出す様になると、幾分、胃が鈍感になって来たのか、
量が食べられるようになった。
比例して、体重は年々増加の一途を辿るようになってしまった。

30歳の大台に手が届く年齢になり、最近ことに、胃腸機能が衰えて来た感がある。
今朝も、朝食に前夜食の残りものであるから揚げを二つ食べたら、それだけで、
なんだかもう、昼ごろまで胃が重たかった。
日々の生活の中でも、脂こってりの洋食よりも、あっさりとした和食を選ぶ機会が増えた。
身近なところでは、ほか弁を買う際、から揚げ弁当やカツ丼などの重い弁当から、 
幕の内やシャケ弁当など軽い弁当が、レジの前のメニューで目に付くようになった。
そう言う食事の傾向になっても、一向に痩せないのは、
私がもう中年の体内環境になっているからだろう。

今日入った牛丼チェーン店で、カウンターに座っていた、男子大学生と思しき若者。
牛丼(大盛)を片手に、カレーライスを食べていた。
驚愕に値する旺盛な食欲だが、その青年はとても痩せていた。
その辺りが、若者と中年に差し掛かった自分との、大きな差なのだと感じた。

椎茸に茄子、茗荷に春菊。
そう言った物の味がだんだん、好きになって来た。
自分の舌が、所謂、渋い味覚に変わって来ていることを、日を追う毎に実感している。
外食でステーキやハンバーグなど、著しく食べる機会が減ってしまった。
これまでの人生、麦酒一辺倒だったが、これからは、胃の事も考え、
日本酒へも接近して行こうと思う。
日本酒が麦酒よりも胃に優しいかどうかは分からぬが、
ジョッキでがばがばと、腹がたぷんたぷんになるまで飲まずには済む。
さて、そう思うと、熱燗の時期が待ち遠しい。

【天候】
終日、雲一つない秋晴れ。

1374声 ローカル銭

2011年10月05日

朝から冷やかな雨。
厚い雲が垂れこめていた今日は、この秋一番の冷え込みを感じた。
なんだかもう、足早に冬が到来してしまったような気配がある。
こう寒いと、恋しくなるのが銭湯である。

今週末には、「銭湯ナイト」と言う、銭湯界の一大イベントの為、上京する予定がある。
その際に、東京の銭湯に幾つか入って来ようかと考えている。
東京に住んでいた時分に、行きつけだった銭湯の数軒は、もう廃業してしまっている。
しかし、東京には銭湯界のスター選手がごろごろいるので、
行きたい銭湯を探すのには苦労しない。

去年の今時期は、埼玉の銭湯を精力的に巡り始めていた。
県北の銭湯は、どこも味のあるローカルな銭湯ばかりで、とても感動した。
鉄道の世界でも、オツな景色や旅情が味わえる「ローカル線」の人気が高い様に、
銭湯の世界でも、「ローカル銭」の人気が出る事を、願っている。
少しでも、その一助になれればと、週末の銭湯ナイトでは、最近作った「銭湯地図」を、
大いに配ってくるつもりである。

湯屋の戸を開け冬蠅とすれ違ふ

と言う句を得たのも、昨年の埼玉の銭湯での事。
高崎線沿線の小都市へ行っては、湯冷めしないように、
駅で立ち食いうどんを啜って帰って来る。
と言うのが、お決まりのコースだった。
さて、東京ではどこの湯屋へ行こうか。

【天候】
終日、冷やかな雨。

1373声 今朝の秋

2011年10月04日

畦に群れ咲いている彼岸花も、風に吹かれるたび、
赤色を脱色されて行くかのように、色褪せて来た。
稲が干してある稲架が、刈田に整然と並んでいる風景は、
遠くの連山を、一層近く見せる。

今朝、である。
外に出て、澄んだ大気の秋冷を感じつつ、深呼吸。
焼けの紫色を底に敷いている高い空には、雲ひとつ見当たらない。
裏庭から山を望むと、輪郭のくっきりとした榛名山を背に、
一面の金色が風にそよいでいた。

そこに、大空を悠然と飛んでゆく、五羽。
たわんで長い首、滑る様な飛翔、日に輝く白い羽。
それは、白鷺の一団であった。
その種類までは確信を得ないが、おそらく、「だいさぎ」であろう。
飛翔する姿は、遠目からは、鶴にも見えなくはない。

あまねく朝陽の中を、さらりさらりと、飛びゆく白鷺の姿をみて、
今日一日、何か良い事がありそうな気がしていた。
そんな荘厳な気配が、今朝の裏の田圃に、満ち満ちていた。
もう、一時間もすると、遠くに見える幹線道路が渋滞し、
街の空が濁り始めてくる、時間。

【天候】
終日、秋晴れ。

1372声 氷のような

2011年10月03日

秋ともし古書の活字の美しき

と言う句を作った事がある。
蛍光灯の下で読む本も、秋の夜には、いつもとは違った趣を感じる。
それが黴臭い古書の類なら、尚更の事。
古書の活字は、趣こそ深けれど、旧字体なのでとても読みづらい。
以前、値段が安かったので、古書の全集を買ってしまって、痛い目にあった。
四苦八苦して、結局、読了しないまま本棚に押し込んであるが、
この古書の句が得られたので、無理やり自らを納得させている。
趣は欠けるが、秋の夜長に、寝床で読むには、やはり文庫本が一番手っ取り早い。
手っ取り早いのだが、

秋ともし文庫の活字美しき

これでは古書の句と比べ物にならない。

夜風にも冷やかさを感じ、夜もそろそろ沈殿し始めてきた。
虫の音も細々となり、いよいよ晩秋へと移り変わって行く。
ゆっくりと、古書の活字を眺められる時間が得られる生活は、尊い。
生活と言うのは、氷の様なものだと、感じている。
薄氷の様に脆くもあり、氷湖の様に厚くもある。

【天候】
終日、澄んだ秋晴れ。

1371声 プールでゼリー

2011年10月02日

「あぁ、宝くじでも当たんねぇかな」
と言うのが口癖な人、読者諸氏の周りにも、一人くらいいるのではなかろうか。
私にもその節があるが、今日、この言葉を巷で聞いて、驚いた。

コンビニ、である。
高崎の郊外の、何の変哲もない、コンビニの店内。
雑誌を立ち読みしていた私の背後から、二人の会話が聞こえて来た。
どうやら、財布の中がさみしいので、買いたい物が買えぬらしい。
そこで一人が、深いため息をついて、言った。
「あぁ、宝くじでも当たんねぇかな」
宝くじの賞金を持ってしてまで、このコンビニで買いたい物。
と言うのが気になり、おもむろに雑誌をラックに戻して、声の方へ目をやった。
そこに立っていたのは、小学校2,3年生と思しき、少年二人。

チョコレート菓子の箱を、指で弄びながら、二人して肩を落としている。
親の手伝いをして、その駄賃で買いに来る。
と言う発想でなく、「宝くじ」と言う発送に至った原因は、おそらく、親にあると感じた。
少年たちの親が、いつも、その言葉を口にしているのだろう。
お金があったら、チョコレート菓子を買いたいと言うところが、子供らしい。
私も、子供時分には、学校のプール一杯にコーヒーゼリーを作って、それを友達に振る舞い、
自分も小型のスコップで、思う存分食べてみたい。
などと、思っていた。
そんな事を、コンビニの少年二人を見ていて、思い出した。
しかし、私に至っては、宝くじが当たったら、大人になった今でも、
プール一杯のコーヒーゼリーを食べてみたい。
と、思っている。

【天候】
終日、雲多くも晴れ。
朝晩の冷え込みが、強まる。

1370声 三種の神器

2011年10月01日

今日から10月。
10月になると、忘年会の話なども俄かに挙がり、一挙に年末が近づいてくる。
銭湯で、麦酒で、そして俳句の予定で、東京に出掛ける用事が決まっており、
師走狂騒曲の前奏が、もう始まって来た感がある。

この三つの予定を、一日で、つまり、句会をしてから、銭湯へ入って、麦酒を飲む。
そう言う風にできれば最高なのだが、全て、別の日なので仕方ない。
しかし、それぞれの予定に、無理やり他の二つを付けたせば、可能である。
東京なので、そこに落語、つまり寄席なども加われば、これまた面白い。

俳句仲間の、ある一団は、今月末、尾瀬に吟行へ行くらしい。
地酒を飲んで、旅館に泊まって、紅葉で詠む。
参加者のひとりである女流俳人の方が、おっしゃっていた。

「尾瀬の壮大な紅葉の景色の中。白いテーブルクロスの上で、ココアを飲むのよ」

それは、珈琲でなくココアでなくれば駄目で、
そのココアもバンホーテンのものでなければ、絶対に駄目なのだと言う。
それが、白いテーブルクロスの上に無ければ、やはり、駄目なのだと言う。
紅葉、白いテーブルクロス、バンホーテンのココア。
その三種の神器が揃って、初めて、感動を得られるのだと、力説していた。
俳句的というよりも、もっと何か詩的なこだわりを、そこに感じる。
「バンホーテン」と言うところに、とても好感を持てる。

書いていると、いま。
窓の夜空に響いている音は、季節外れの花火の音。
伊勢崎で開催されている、花火大会の音であろう。
今年は、震災の様々な影響があって、秋の花火大会となったようである。
花火が終わると、徐々に、虫の闇が戻って来た。

【天候】
終日、いささか風の強い秋晴れ。

1369声 虫の闇

2011年09月30日

携帯電話に見慣れぬ着信履歴があって、かけ直した。
名乗って、要件を聞くと、
「おめでとうございます、奨励賞です」
と、電話口の向こうの御仁がおっしゃる。

賞の名を聞くと、記憶の糸がすぐに結ばれた。
応募していた、俳句の新人賞、であった。
「うれしい」
と言う事よりも、「正賞ではない」と言う事実の方が、
胸中で強い波紋になっていた。
波紋が静まってから、奨励してもらえただけでも、
良かったと言う気持ちが、漣のようにやって来た。

以前から、一句会を終えるごと、あるいは一句集読み終えるごとに、
「やれやれ」
と言う心持がする。
それは、疲労による嘆息ではなく、湧いてくる希望的薄笑い、なのである。
句会で面白い句に出遭ったり、句集で巧みな句を見つけたりした時に、
「やれやれ、どうやら、まだまだ先は長いようである」
と思ってしまう。
俳句の道を進めば進むほど、今宵のこの虫の闇の如く、
先にある広大な夜の深さを、思い知る。
そんな自らの句業の前途を思うと、自然と薄笑いが込み上がって来る。
そして、今宵もやはり、「やれやれ」と思っている。

【天候】
朝より曇り、気温は日中28℃と高め。
夕方より、一時的に雨。

1368声 秋のレクイエム

2011年09月29日

「ヴッ」
瞬間的にハンドルを切って、回避した。
非常事態に遭遇した時、人間の動体視力が力を発揮する故か、
目の前のスローモーション映像が脳裏に焼き付いている。
その映像の中に映っていたのは、路肩に横たわっている、獣。

下仁田町から佐久市へ繋がる、国道254号線。
通称「内山峠」。
この峠道を、佐久市へと抜けるべく、秋晴れの穏やかな昼下がりに走行していた。
紅葉にはまだ早いが、秋の日に揺れるコスモス。
その上に広がる、高く何にもなく碧い空。
清々しい心地で、ドライブを楽しんでいた。

カーブを曲がって、次のカーブ。
またカーブを曲がって、それはあった。
体長は小柄な大人二人分くらい。
最初は「鹿」と思ったが、バックミラーで確認したところ、
おそらく「カモシカ」だろう。
横たわっている姿に、血痕は見られず、毛並みもふんわりとしていたので、
息絶えてから、あまり時間は経過していないと見受けられる。

十中八九、車にはねられたのだと思うが、確認していないので分からない。
光を失ったその眼は、なんだか、とても寂しそうであった。
秋から冬にかけて、動物たちは里に下りて来るので、峠道では、
こう言う状況をたまに見かける。
この時期の動物たちの目は、おしなべて、寂しそうな眼をしている。

夜、定例の句会で、この話をしたら、
「持って帰ってくりゃー良かったじゃん」
と言うのは、先生。
特別天然記念物を、むやみに持って帰ってくる事など出来ない。
しかし、あの路肩に寝かせておくのも、かわいそうである。
窓の外から聞こえて来る虫の音が、今夜はどうしても、
レクイエムに聞こえた。

【天候】
終日、清々しい秋晴れ。

1367声 澄んでる季節

2011年09月28日

定例としている句会のひとつは、いつも前橋公園で吟行している。
季節の花々に集まる虫たち、木立に舞い来る鳥たち。
園内は句材が豊富である。

10月を目前とする今時期だが、句会に参加する女性陣は、
ほとんど全員日傘の下。
陽射しこそ強いが、風は爽やかで天を仰げば、
焦点がどこまでも吸い込まれて行きそう。
そんな深い青が広がっている。

園内の時計塔の脇には、数本の大樹があって、
どれも大きな緑陰を生んでいる。
右の緑陰には、句作に励んでいると思われる、句帖とペン片手の、日傘の一団。
左の緑陰には、ピクニックに来たのであろう、手作り弁当を食べている、若き男女。
そこ光景を池の脇から眺めていて、どちらに「詩」があるかと考えれば。
やはり、ピクニックに一票。

「青」以外に何もなく、焦点のどこまでも吸い込まれて行きそうな空を詠んだ句。
そして、雨に降られ、風に吹かれるたびに「赤」をすり減らして行く彼岸花を詠んだ句。
自分の投句した句は、その二句が多くの選に入っていたようだった。
秋と言う季節は、特に「色」が印象的な季節であると、実感した。
夏の様に鮮やかではなく、冬の様に枯れもいない。
言うなれば、「澄んで」いる。

句会が終わり、午後三時過ぎの前橋公園を通りかかったら、池の脇の緑陰。
先程の男女は、寄り添いあって、昼寝をしているようだった。

【天候】
爽やかな、秋晴れ。