日刊鶴のひとこえ

この鶴のひとこえは、「めっかった群馬」に携わる面々が、日刊(を目指す気持ち)で記事を更新致します。担当者は堀澤、岡安、すーさん、坂口、ぬくいです。この5人が月替わりで担当しています。令和8年度は4月(坂)5月(ぬ)6月(岡)7月(す)8月(堀)9月(坂)10月(ぬ)11月(岡)12月(す)1月(堀)2月(坂)3月(ぬ)の順です。

2382声 歌声

2015年04月17日

歌手は歌い方や声の出し方で、その歌の登場人物と一緒に泣いたり肩を組んでみたり、声をそらして気遣ったりする。
この歌を聞くとどうして決まってこの部分で泣くのかと思って聞き返してみると、歌声の、声の表情の変化がある。
歌い手の気持ちが入りすぎた声はあざとくなる。

さしずめホップを入れすぎたビールみたいに。
その気持ちが歌い手の身体感覚で理解されていないと、これもあざとくなる。

あざとさを理解できてしまう頑強な肉体、というのもあるのかもしれないが、やっぱり普通はあざといと伝わらない。

感情的な歌い方だと勿論伝わらない。

2381声 焼き鳥屋

2015年04月16日

ホテル街を抜けた一角の、往来の頻繁な裏通りの日暮れどき。

壁のない、いくつかある入り口の一つが取り外された路面に向かって腰高の小さいテーブルがあって、そこに大人が外を向いて焼き鳥とビールで一杯やる。
楽しそうでもなんでもない顔つきでいる。
外からみたらなんだあれはと思う。

そういう店が鶯谷にある。

そこに白いスニーカーにハイソックスで、紺の丸帽子をかぶったランドセルの男の子がお父さんと一緒に焼き鳥を買いに来る。
近所のおばさんも自転車でエプロン姿のまま来る。
白のエナメルシューズにリーゼントの全身白づくめの男が、人の良さそうな語り口で他のお客さんと話していたり。
帰宅のサラリーマン。
OL。
若いのも子供もなんでもいる。

上野のガード下の、昼からやっている立ち飲み屋とはまた趣が違う。
ここに寄る時は、仲間に入れてもらう、という感覚になる。

知らない町の祭りに参加させてもらう感覚に似ている。

2380声 実家の庭

2015年04月15日

もう少しで小手毬が咲きそうだ。

2379声 しっかりしろ

2015年04月14日

何かを獲得する意識の強弱で格差が生まれて、獲得意識薄弱がそのまま経済的薄弱になってしまう、ということがある。
気づいてないかもしれないけれど獲得意識の薄弱、つまり成り行きが許されない雰囲気だけはあって、しかも当人はそれを意識はしてない上に空気だけは読んでいるから、獲得のために毎日を費やすようになる、ということになる。
人間の成り行き性が経済的薄弱への筋道になってしまうのは、これ、獲得意識格差社会です。
そんな社会で生きていると脳は、獲得意識の薄弱=経済的薄弱を勝手に人間的薄弱につなげる。
もう本当に勝手に。
経済的薄弱になったらそんな自分のまっとうさを誇ってもいい、というコンセンサスはない。
たぶんそんなことしたら、「は?」って言われちゃう。
知らず経済的獲得に文字通り絶対的価値があって、そのことで精一杯になると、ほんとに欲しかったものはぼやける。
ほんとに欲しいものがわからないからひとまず生きる、というのが人生でもあるかもしれないのに、ほんとに欲しいものを考える、が、経済的獲得と平行されて保持されないから、逆にいらないかもしれない獲得も簡単に増えてしまう。
それよりもっと見えにくいのは、結果的に経済的獲得もできずに、その上ほんとに欲しかったものを考えるという意識も消え去って、獲得欲だけが残るという状態で。
こうなるともはや社会は、獲得欲の格差だけはない社会、ということになる。
いつのまに獲得欲だけ煽ればいいということが前提化されてしまったの?社会、というか。
そう思い込んでいるからやっぱり煽られる側は獲得しようとして、その列の先で何を買えるかもわからないままスーパーのタイムセールの列に並ぶ、みたいなことになる。
いい年をした人が並ぶ。
そんな時である。
悲しくて泣きたいなんて言ってられないと心に誓うのは。

叱り飛ばすしかないと思うのは。

2378声 空白集

2015年04月13日

肌寒い雨の月曜日。
この頃「疲れた」を連発している私は、これはとことん寝るしかないと思い、晩飯を食べに外に出た以外は、一日中部屋の中にいた。
夕方部屋を出て何を食べようかとウロウロしていて気づいた。
疲れているときはほっといてもらえる店に行きたいんだと。
店の人のことを考えなければいけないと思うだけで疲れてしまう。
そうなんだと思って次に頭に浮かんだのが、テレビのある店がいいな、で。
テレビがあれば店の人をあまり気にしなくて済む。
そうしようと思って近くの繁華街をウロウロして、テレビのある天ぷらやがやっているのを見つけた。
店に入ると私の母くらいの年齢の女性とその娘さんらしき女性。
マスターは奥にいるのかなと思って注文したら、その娘さんらしき、娘と言っても私よりは歳の上のその女性が天ぷらを揚げ始めた。
こういう状況に非常によく似た店を他に知っている。
もしかしたらマスターは他界されたのかもしれない。
そう思って店内を見渡したら、ビールケースの上に男性の写真が飾られていた。
それ以上は詮索もせず、だから本当にそうだったのか確認もせず、テレビを見ながらお銚子一本と天ぷらを食べて、ゆっくりできたと思って店を後にした。
部屋に戻り、珍しくもうこれ以上飲みたくもないので、さっきまで本を読んでいてまた気がついた。
「スポットライトの当たらない空白」というフレーズを目にして。
考えたいことがまとまらないとき、何かのフレーズでまた思考が始まることが多く、それは食材を見ないと料理が浮かばない、というのと同じようなことだと思うけれど、「スポットライトの当たらない空白」というフレーズを見つけて、昨日のひとこえで言いたかっためっかった群馬についてというのは、そういうことだった。
めっかった群馬というのは、スポットライトの当たらない空白を見過ごせない者の見つけてきた空白集みたいなもの、かもしれない。

街には、そんな空白がたくさんある。

今日の天ぷらやもそうかもしれない。

2377声 申し訳ない

2015年04月12日

風呂に入ってめっかった群馬のことを考えていたのだがいざアウトプットする段になるとそこまでのエネルギーがイマイチ足りない。
疲れた話ばかりで申し訳ないです。
持ち越しということで。

2376声 気持ちいいかどうか

2015年04月11日

繁盛店の調理場はお客を気にしない。
あれは気にしないんじゃなくて本当はいちいち気になっている。
満足してるか。
うまいと思ってるか。
忙しいとそれを気にしながら気にしてないような時間になる。
料理人は料理と動きを見てもらうのが仕事なのだからそれでいい。
それがよくて料理人になろうという人も多いと思う。
動きについては、そこを意識し始めるまでには、料理を始めてから少し時間がかかるかもしれない。
いい動き、見ていて気持ちいい動き、というのがある。
ここに興味がないと料理はうまくならないので。
ところが店が暇だとぼーっと立っている時間が増える。
これも動きのうちだが、見ていて気持ちのいいでくの坊というのは、これは案外難しい。
飲めばどうにかなると思うからコップに酒を注ぐ。
どうなのかと考えながら飲む。
芸人が芸をせず場を持たす難しさに似ている。
忙しかろうが暇だろうが、お客が見ていて気持ちいいのかどうなのか。
これはつまり自分が客としてそこにいたときに気持ちいいかどうかということ。
だから要するに、一体この店は、自分は、何を気持ちいいとするのかという問いがなければ、料理人としての進歩はない。
志ん生がいいのか。
談志がいいのか。
小三治なのか。
どれも気持ちいいのだが自分が芸を志すならなりたいのはどれなのか。
そういうような話。

2375声 よくない

2015年04月10日

体調がどうもこれはよくない。
ものを考えようという気にならない。
どうにもこうにもだ。
ならばそれでいいと、思ったらいい、という。
それでいいと思えない質の、そういう人に限る話かもしれないが。
そう思ったとたんに考えられるようになるみたいなことは案外正しいが、今日はそれ以上に、これはよくない。
そんな時は、コツがある。
考えたくても考えられない時のコツ。
飲まず食わずでいる。
そうすると内臓はたいしたもので、自分から動き出して、また考えようという気持ちにまで、内臓がしてくれる。
それから、体調のよくない自分を受け入れようとしてみる。
受け入れる、というのは、自分を自分外のものであると仮定して他者化して向き合う、ということで。
ただこれ、考えないということと矛盾する。
何も考えたくない、の中には、人のことなんか気にしたくない、というのも含まれていて、なのに自分を他者化したら、それは一にも二にも自分について考えるということだから、また疲れる。
ところがこれが、結構、非常に意味がある。
考えなくていいと思えない質の、それはたぶん頑張らなくていいと思えない質の、そういう人に限って。
他者化してその上受け入れる、というのは、自分に向き合って、それが自分が受け入れらる自分であると認めることでもあって、ここに意味がある。
体調のよくない自分を受け入れることができたとき、たぶんこれは強くなれている。
考えなくてもいい自分をほったらかしにできるくらいには。
周りが許すとか許さないとかいう発想や、どうにもならない自分を超えていく、という作業は、地道なんだ。
この作業が大変なのは、それが孤独を受け入れるということでもあるからだと思う。
大変なんだが、同じことに取り組んでいる人もいると思えたら、少しはやってみようという気にならないか。
しっちゃかめっちゃかだが、考えなくてもいいことについて考えていたら意外と頭が働いて来た。
仕事をする。

2374声 目覚まし

2015年04月09日

ここ数日の目覚ましは選挙カーの「お願いします」の声。

日に日に大きくなる声にも慣れてしまった。

選挙カーが通り過ぎた後はすごく静かになる。

街って静かなんだと改めて思ってたりすると、鳥が鳴く。

街にも結構いろんな鳥がいる。

鳥が鳴いて、もう一度朝が来たと思い直してみたり。

それにしても、体が重い。

低気圧だから仕方が無いと思い直して、今日もまずうんこから。

2373声 筍

2015年04月08日

歯が痛い。

店のフェイスブックを見てくれたお客さんが、そのフェイスブックに投稿した筍の料理を食べに来てくれた。

「年を取ると、これ食べとかないとと思うんですよ」と言って。

「あぁ、そうですよねぇ」と、確かにそうだなと思って言ったら、「若い頃はずっと唐揚げ食べてても平気だったでしょ」と。

「(笑)」

「冬至のときに、柚子を買いにコンビニに行きましたもん」

「(笑)」

こちらも楽しくなるやりとりをしてそのお客さんは帰りましたけれど、楽しかったのは、なんで楽しかったかと今思えば、そのお客さんが季節感を大事にせずにはいられなくなっているというそれと、それから清々しい孤独があったからだと思います。

毎日気軽な受け入れ態勢で営業していると、この料理を作ってよかったと思えるときを見過ごしがちなんですが、今日は気持ちよかった。

2372声 晩酌

2015年04月07日

帰宅してまず脱ぎたいのは上着よりもズボン。

その前に靴下を脱ぐ。

明日は冷え込むそうで、そんな予報だからか夜の街に人は少なかった。

靴下とズボンだけ抜いで、次にするのは上着を脱ぐことではなしに缶ビールの栓を開けること。

今日は一番搾りの限定版「小麦のうまみ」。

一番搾りの甘みをシャープにした感じでおいしい。

疲れている感じなので早めに寝た方がいいのかもしれないと思いながら、だいたいそんな感じで晩酌は始まる。

と、書きながら、缶ビールを飲み終えた。

日本酒が飲みたくなっているが、今この部屋に日本酒はない。

何を飲めばいいのかそっちを考える。

そっちの方が大事。

2371声 尊厳

2015年04月06日

飲食店の扉を開けるとき、できることならば重くなりすぎた自分の尊厳を少しでも軽くしたいという思いがたぶんどこかにある。

だから店にとっては、お客さんの尊厳を預かる、くらいの気構えがないと、カウンターの内側は務まらない。

尊厳を一時的に預かってもらえるだけでどれだけ救われることか。

尊厳は、最後は自分で持っていないと意味がない。

だからそれはお客さんに返すことになるのだけれど、店側が返す方法は、まず、気持ちの入った料理なのだと思う。

その料理が気取り過ぎていたら、距離が開いてしまう。

料理は素朴がいい。

素朴に自分の尊厳を込めたとき、何か伝わる。

2370声 仕入れ

2015年04月05日

都内で日本酒と日本ワインの仕入れ。

2軒回っていろいろ買った。

明日には高崎の店に届くらしい。

仕入れも仕事のうちだが、お酒が届くときはいつもわくわくする。

自分が飲む欲求が先走ってしまうのだろう。

今日の東京は雨で、これで花は随分散ると思う。

外に出るのは諦めて、八重洲の地下のスタンドバーでビールを飲んでいる。

2369声 欲求の投稿

2015年04月04日

徐々に欲求を満たしていって、最後に性欲、甘味欲を満たそうというのは破廉恥である。

そう言いながら酒を飲んで夜中にちご餅を食べているのは破廉恥の上塗りか。

それを書いてしまおうというのはもうどうなのか。

こんなことは若い頃は考えもしなかった。

欲求を投稿する恥ずかしさみたいなことはあまり言われない。

若いというのは恥ずかしさに無頓着だったりする。

若さって残酷だよね、と言っていた人がいたのを思い出した。

恥ずかしさを知らないと残酷になるのかもしれない。

大人になるというのは年齢ではなく、何を恥ずかしいと思うか、を考え始めることから始まったりもする。

若いときにそれを考え過ぎてしまうと、それはそれで満たされない何かを抱えることになってしまうこともあるかもしれないが。

でも考えないと、世の中は欲求の投稿で埋め尽くされてしまう。

うんこをして気持ちよかったという投稿と、ラーメンを食べてうまかったという投稿の何が違うのかわからないのは私だけか。

ちご餅はうまかった。

ちご餅に罪はない。

2368声 ジャッジにまつわる話

2015年04月03日

何かのジャッジに誰かが翻弄されている場面を見つけると、他者へのジャッジをやめることで平和は訪れてしまうということもあるんじゃないかと考えてしまう。

それが減らせたら、医療費も軍事費も減らせるんじゃないかとか。

ジャッジは圧力にもなる。

他者へ向けたジャッジが多ければ多いほど、圧力の強い空気になる。

ジャッジに翻弄されやすいというのはデリケートな状態なわけだけれど、自分の基準を持てずにいる結果翻弄され安くなっている、ということもある。

だから翻弄されやすい自覚があるなら、基準を持とうとすることも必要で。

ところが基準を持つというのはジャッジが始まるということでもあるから、外からのジャッジに恐れを抱いている人にとっては、自分で下す自分のジャッジにも他者を介在させて怖さを感じてしまうということがある。

ややこしいけれどそういうことが勝手に脳の中で起こるのだと思う。

逆に基準を持つことが他者へのジャッジの始まり、みたいなこともよく起こる。

こちらの方が頻繁に起こる。

あんなにジャッジされるのが嫌だったのに自分が基準を持つと他者をジャッジし始めてしまう。

でも今日はそっちの話ではなく。

翻弄されやすい側の。

自分の基準を持つことで、持とうとすることで、他者からの圧力を少しでもかわせるようになることがある。

他者からの圧力に翻弄されにくくなるというのは、実はその瞬間に他者を受け入れることができたということでもあって、面白いのは、と同時に自分を受け入れている、ということが起こるということ。

あぁ、この翻弄のされやすさは自分を受け入れることができてなかったということだったんだ、に気づくわけ。

逆に言えば自分を受け入れる、というのは、ジャッジに翻弄されないようになる、ということなのだと思う。

わかりにくくなってしまったけれど、そんな風に人間は複雑で、ある面においてはとても理にかなっている。

でもこれ、もしかしたら順番は逆かもしれない。

基準を持つ、が先じゃなくて、基準を持つためにまずする必要のあることがあって、ジャッジに翻弄されやすい自分を認める、ということがまず先かもしれない。

まずジャッジに翻弄されやすい自分を受け入れる、がないと、その寒さを受け入れないと、その後基準らしきものが生まれてきたとしてもその基準がゆがんだものになってしまうから。

寒さに耐える、そこがスタートかもしれない。

だとしたら、寒さに耐えるためにはどうすればいいのかを考えなくちゃいけないのか。

その先もあるかもしれないが疲れてしまった。

寝ないと仕事に差し障りがある。

2367声 だめ

2015年04月02日

今日はいろいろ考えていた気がするがまとまらない。

うんこの出もよくない。

出るがまとまりがよくない。

2366声 桜

2015年04月01日

桜が満開。

彼岸を過ぎた位から毎日見ている木がある。

昨日が9割。

昨日も15時位は9割7分、日をまたぐ頃には9割9分、とか。

咲いていない蕾を見つけて喜んでいたり。

ずっと見ていたい衝動にかられるがそうはいかない。

桜は咲くときに無防備に見える。

蕾を膨らますときに力んでいる感じがするから余計にそう思う。

白いから、という理由もあるかもしれない。

あれが赤だったらちょっと躊躇する。

赤い桜を見たら、喰われるかもしれない、とか思うんだろうか。

桜は白だからか、喰われてもいいと思える。

私だけか。

案外どこかでそう思って花見をしているということもあるんじゃないか。

2365声 気付

2015年03月31日

明日から新しい職場。

春の陽気に誘われて、花見酒。

財布なくして、大事なものを見つけました。