日刊鶴のひとこえ

この鶴のひとこえは、「めっかった群馬」に携わる面々が、日刊(を目指す気持ち)で記事を更新致します。担当者は堀澤、岡安、すーさん、坂口、ぬくいです。この5人が月替わりで担当しています。令和6年度は4月(ぬ)5月(岡)6月(す)7月(堀)8月(坂)9月(ぬ)10月(岡)11月(す)12月(堀)1月(坂)2月(ぬ)3月(岡)の順です。

1326声 夕菅俳句合宿二日目

2011年08月18日

寝ぼけ眼でハンドルを握っていた。
朝靄の湖畔には、新涼と呼べる、空気の清々しさがあった。
「一睡もできなかった」と、充血の涙目をこすっている参加者もあったが、
予定にあるように、湖畔に咲く夕菅を見に行く。

車を駐車場に停め、朝の空気を胸一杯に吸い込んで、歩く。
花野には、淡い青空の下、朝日に輝く夕菅の花が咲き競っていた。
木道を歩きながら、句帳片手に吟行。
花野は、蜻蛉、邯鄲、朝露や、秋の山、空、雲、風、など季題の宝庫であった。
小一時間吟行し、ホテルに戻り、朝食後に句会。
朝食の際、隣のテーブルに座っていたのは、
私たちの一向とは別の、俳句仲間である女性。
彼女は遊びらしいが、俳句をやる人間同士、遊び行く先の趣向も似て来るのだろか。
その後、ホテルをチェックアウトし、下山。

今度は赤城山の麓である渋川市内で、滝を見ながら、周辺の沢を吟行。
残念ながら、先の地震の影響だろうか、落石甚だしく、
肝心の滝の近くまでは行けなかった。
榛名湖畔とは違い、蝉時雨のとても暑い日和である。
皆、だらだらと汗を流しながら、歩を進めて行く。
その後、先生宅へ行き、直ぐ句会。
やはり句も、榛名湖畔の新涼を懐かしむものが多く見られた。

句会が終われば、直ぐ次の句会の為に句作する、と言う形式。
先生宅の庭やら裏の野原やらを歩いて、吟行する者もあれば、
ソーダ水を飲みながら、扇風機の前で句作する者も有り、様々。
一睡も出来なかった仲間は、即行で作って横になって昼寝していた。
また句会が終わって、さて、次の句会で最後。
全て、句を出し切って、頭の中の全ての創造力が枯渇した所で、ようやく合宿終了。
もう、外は夕暮れ時になっていた。

東京から参加されている方は、列車の時間となり、慌ただしくさよなら。
いつもこの合宿では、群馬以外の俳人の方と会えるので、新鮮である。
富山の薬売りを待つ気持ち、ではないが、土地土地の俳句事情、
取り分け、東京の俳句事情の事を聞くのは、楽しい。
青山墓地や明治神宮が、いつもの主な吟行場所。
と言う話を聞くだけで、都会的な雰囲気に憧れてしまう。
若い俳人が多く、句会の参加者も断トツに多いのも、東京ならでは。
「おいでよ」
そう言ってもらうが、無精をして、まだ一度も東京の句会に行かれないでいる。

帰路。
実り始めている稲穂の揺れる、夕闇の里山風景の中、遠く見える街の方から、
小さな花火が開くのが見えた。

【天候】
終日、酷暑。

1325声 夕菅俳句合宿初日

2011年08月17日

固形燃料も燃えきらぬ内に蓋を開け、
兎も角も、野菜やら豚肉やらを口の中へ放り込んだ。
広いレストランの中、腰かけて食事しているのは私一人のみ。
テーブルに沢山並んでいるお皿が、何だか独りの虚しさをいっそう助長する。
湖畔の望める窓の外は、いま、真っ暗闇。
森閑とした空気漂うレストランを後に、
句会場になっているホテル館内の会議室へ走った。

「合宿」
と表現した方が、適当かと思う。
つまりは、俳句の合宿である。
俳句の先生が音頭を取って、年に何度か開催している。
春に開催された前回は、丁度、鼻骨骨折で入院していて参加できなかった。
「今度こそは」
と、満を持して参加したのが、今回の合宿である。

「遅れました」
そろりと句会場のドアを開けると、ペンの走る音。
既に句会は始まっており、緊張した空気が室内に張り詰めていた。
やむを得ず、末席で選句の終わった皆の句を聞く。
詠み挙げられる句を聴いていると、皆がどこで何を見ていたのか、
吟行場所の風景映像が浮かんでくる。
今回の参加者は日の高い間から、この榛名湖畔を吟行しているので、
その顔に声音には、やや疲れの色が見える。

渡された予定表で行くと、部屋に戻って、今度は題詠で句会。
ビールやワインなど入って、砕けた雰囲気の中で、
句を詠んで行くが、今着いたばかりの私は、口数少なく全力で句作。
結果は、昼間の吟行がハンデとなったのか、思いがけず良かった。
私は題詠が苦手なのだが、体力が余っていた所為か、皆の選に入って一安心した。

その後は、話が弾み、風呂に入って寝る頃はもう、深夜。
明日の起床時間は午前5時なので、3、4時間程しか寝れない計算。
風呂上がりにコップのワインをがぶ飲みして、ヤケクソ気味に床に潜り込んだ。

【天候】
終日、酷暑。

1324声 たゆたう月

2011年08月16日

そこはかとなく、秋色。
そう思うのは、紫色に近い茜色の、夕焼け雲の色加減。
草むらには、秋の虫も鳴き出して、沈む夕日に夏の終わりを見てしまう。

今宵は、銭湯でなく近所の日帰り温泉へ出掛けた。
露天風呂へ浸かっていると、斜向かいには、老人と青年。
耳をそばだてているつもりは無いのだが、話し声が聞こえて来る。
断片的に聞こえて来るその内容は、どうやら、戦時中の話しらしい。
おじいちゃんが、自分が子供時分に体験した戦争を、
おそらく盆に帰省した孫である青年に、語っているのであろう。

8月15日を1日過ぎた巷では、その事実さえ消去してしまったかのように、
戦争の内容を見なくなる。
神妙な顔をして聞いている青年は、坊主頭と言い、礼儀正しい態度と言い、
野球部員と推察される。
おじいちゃんは、切りの良い所で、野球の話題に移行した。
真っ黒に日焼けした、精悍な青年の顔に、66年前のあの炎天の日の自分を、
思い出したのかも知れない。
青年もまた、話しの中に、66年前の若かりし日のおじいちゃんを見ていたに違いない。
水面浮かんでいる月は、たゆたう水に、伸び縮みしていた。

【天候】
終日、炎天。
「サッ」と夕立有り。

1323声 終戦日の部屋

2011年08月15日

今日は、今年で66回目を数える終戦の日。
今年は、出掛ける用事も無く、日がな机の上で頬杖をついて、空を見ていた。
何もせずにいると、一日早いもので、これを書いている今は、もう夕暮時である。
遠くの空で夕立が鳴っており、まだ明るさの残る雲の腹は、
所々、夕焼け色に染まっている。
窓の向こう、家並の屋根の上にたわんでいる電線には、
どう言う訳か、数珠つなぎに雀がとまっている。

カレンダーの8月15日には終戦の日があって、
私の8月15日の今日は、普段と変わり映えの無い日常がある。
テレビの中には、終戦の日の特別番組があって、
片手に持っている歳時記には、「終戦日」と言う季語と、例句が沢山書いてある。
こうやって、そろそろ缶麦酒と胡瓜の浅漬けか何かで、一杯やろうかと言う日常こそ、
かけがえの無いもの。
その事に、気付かねばならない日が、今日である。

稲光と共に、雨が降り出して来た。
どんよりと紫色に染まっている、曇り空。
机の上の、飲み残してあるコーヒーカップ。
暗くなった部屋に点いている、クーラーの青い電源。
窓の外、電線の雀たちは、既に一羽もそこに居なくなっていた。

【天候】
終日、炎天。
夕立あり。

1322声 海沿いの街

2011年08月14日

「原発」
群馬県に住む私にとっては、正直、左程それを意識した生活をしていなかった。
しかし、3月11日以降、否が応でも考えなければならない、抜き差しならぬ状況下に、
列島全土が、いま、ある。
私が昨日行って来た、茨城県の海沿いにも原発はあり、
その周辺には当然ながら、生活もある。

せっかく茨城県へ行ったのだから、銭湯へ入ってとんぼ帰りもさみしいので、
途中、「那珂湊」やら海沿いの街を訪ねた。
魚市場へ寄ったのだが、どうにも、客入りが芳しくない印象を受けた。
私が、大洗の水族館やら那珂湊やらへ海水浴を兼ねて、今時期に旅行したのは、
もうふた昔も前の子供時分だが、その当時の活況から比べ、随分と落ち着いている。
やはり、放射能の影響なのかなと、連日の各報道機関のニュースを思い出し、そう考えていた。

津波の被害を受け、いま、風評の被害を受けていると言う状況だが、
それでも、魚市場に海産物は豊富にあり、来客もいる。
買い物で触れ合った、市場の方々は、溌剌と頑張っていた。
ふらりと入った魚市場の二階にある食堂からは、湾内にある海が眺望できた。
凪いでいる穏やかな海を眺めつつ、海鮮丼に箸を進める。
来る途中に見た、靄に包まれ浮かんでいる、松林の中の、
あの巨大な人工物の光景が、頭から離れなかった。

【天候】
終日、炎天。

1321声 企業城下町の銭湯

2011年08月13日

現在時刻は9時半。
既に炎天の、苛烈なる日差しが降り注いでいる。
これを記している今日は、8月15日。
つまり、月曜日の終戦記念日なので、土曜日の13日から、
2日間分の更新を溜めてしまった事になる。

ちと、遠出をしていた。
行先は、茨城県は日立市である。
「企業城下町」と言う呼び名があるが、日立製作所を構える日立の街は、
まさにその名にふさわしい。
駅から広がる街並みは、広大な敷地面積を持つ日立製作所を核に、
関連企業、住宅、ホテル、商店、等、高度経済成長期より新興した都市の印象である。
どことなく、近未来的な雰囲気を感じるのは、「街の色」だと思う。
「コンクリート」の色なのである、街一色。
その中に「配列された」、夏木立が、とても印象的だった。

企業人でもない私が、何の目的で、この企業の街へ行ったかと言うと、
「銭湯」なのである。
日立市は現在、茨城県内最大の銭湯保有県。
仰々しく書いているが、その数は、3軒を残すのみとなってしまった。
すなわち、「福の湯」、「松の湯」、「東湯」。
いずれも、日立の街の高度経済成長を支えた地元の湯であり、
先の震災を耐え抜いた、湯である。

日立市に入ると、やはり、震災の爪後は所々に確認できた。
ブルーシートが乗っている家、崩れたままの塀、隆起した道路。
銭湯も然りで、駅前銭湯である「福の湯」の女将さんに聞いたところ、
3月11日の震災で、屋上のタンクが2基とも破損してしまったとの事。
しかし、15日には応急処置で復旧し、16日から営業を再開したと言う。
16日は無料営業とし、入口には湯客が並ぶ程、盛況だった。
入浴の大切さは勿論の事、銭湯が、非常時の地域コミュニティーとして、
重要な機能を果たした事実が確認できてよかった。
三軒どれも、今尚、地元に愛されている銭湯であった。

一日に三軒を回ると言う無謀な予定をこなしたが、
やはり忙しく、満足に湯に浸かれなかった。
しかも、炎天下、車のバッテリーが上がってしまった。
彷徨い歩いて見つけた、ガソリンスタンドでそのバッテリーを交換し、
日立の街に逗留すると言う、おぼろげな状況になってしまった。
しかし、流石は企業の街、駅前の居酒屋には事欠かなかった。

【天候】
終日、炎天。

1320声 甲子園にある群馬

2011年08月12日

「よく頑張った」
カーラジオの実況を聞いていて、そう、つぶやいた。
群馬県民のみなず、聞いていた人、観ていた人が、心の中で拍手を送っていたであろう。

「第93回全国高校野球選手権大会」
それに関して、スポーツに疎い私は、書くべき知識を持っていない。
よって、健康福祉大高崎が出場を決めてから、初戦と今日の第二回戦のみを観ているだけの、
浅はかなる感慨しかない。
それでも、今日の横浜との対戦、延長十回まで続いた手に汗握る試合は、
久しぶりに無心で、贔屓のチームを、つまり健康福祉大高崎を応援していた。
結果は、6対5で、惜しくもサヨナラ。

一生懸命だ。
そう、いつだって一生懸命やらなければ、
観ている人たちに感動など与えられない。
冷房の効いた部屋で、冷たい麦酒などを飲みながらこれを書いている私は、
何だか身につまされる思いがある。
大切な気持を、少し、思い出した気がした。

【天候】
終日、真夏日。
各交通機関で朝より、お盆の帰省ラッシュが始まる。

1319声 霍乱注意報

2011年08月11日

「霍乱」
とは言わなかったが、私が学生時分、なのでおよそ平成一桁くらいには、
巷では概ね、「日射病」と呼んでいた。
現在の「熱中症」を、である。
霍乱の意には熱中症の症状の他に、コレラやチフスなどの症状も含まれていたし、
熱中症には、一昔前の日射病やら熱射病やらの症状の意も含まれている。
暑い季節の為か、随分とくくりがおぼろげである。

気温が、軒並み35℃以上を観測していた今日の列島各地。
熱中症の症状で病院に担ぎ込まれる人が、
多数出ていると言う報道があった。
群馬県内でも館林などは39℃近く、戸外での体感温度は、
それ以上にもなっているので、無理も無い。
日が昇ってから沈むまで、街中では救急車のサイレンが鳴り響いている。

今日、用事があって、郊外の総合病院へ行ったら、入口受付。
戸外で労働していると思しき作業着の男性が、駆けこんで来た。
息せき切って、受付の女性事務員に告げたのは、
「すんません、同僚が熱中症みたいなんで、連れて来たんすけど」
作業中に同僚が体調を崩してしまったらしく、車で即座に搬送して来たらしい。
いくら、暑さに強いと言われる群馬県人でも、最近の暑さは殺人的である。

杉田久女に、こんな句がある。

かくらんに町医ひた待つ草家かな (久女)

郊外の「草家」にあって、熱中症の症状で倒れた人の傍らにいる。
先程、連絡した町医者の到着を、今や遅しとひたすらに待っていると言う情景が浮かぶ。
現代では、携帯電話で救急車をすぐに呼べるし、先の病院の光景のように、
相当な山間部でなければ、車ですぐに病院へ搬送できる。

それを容易にできないのが、一人暮らしのお年寄り。
折からの節電で、冷房を付けずに高温多湿の室内に居て、
熱中症で倒れる、と言うケースが増えていると言う。
銭湯みたいな場所で、近所の各世代の方々が、
お年寄りと触れ合えれば良いのだが、中々、そう簡単にもいかない。
簡単にもいかないので、せめて、ここに書く事くらいしか、出来ないが、
久女の句の様な状況になる事だけは、注意しよう。

【天候】
終日、猛暑日。
暑さ甚だ、苛烈。

1318声 短詩民族

2011年08月10日

いま、一冊の本を読んでいる。
A4サイズで電話帳の如く分厚い、この本の名は、「短歌俳句川柳101年」と言う。
表紙には、「新潮・10月臨時増刊」と書いてあり、奥付の発行を確認すると、
平成5(1993)年10月30日と記載されている。
今日の帰りがけ、この本を古本屋の棚で見つけ、衝動買いしてきた。

内容は、短歌、俳句、川柳。
この三つの短詩型に於いて、「一年一句歌集」の原則の下、
1892年から1992年の100年間で、303句歌集を選出してある。
つまり、その年、短詩界で話題になった作品集が取り上げられているのである。
1892(明治5)年の短歌部門は樋口一葉から始まり、1992(平成5)年の坂井修一で終わる。
同じく俳句部門は、幸田露伴から始まり、田中裕明の「櫻姫譚」で終わる。
川柳部門は、明治時代の滑稽文の書き手、骨川道人(こっぴどうにん)選の川柳から始まり、
倉元朝世の「あざみ通信」で終わると言う、日本短詩界の壮大な系譜が描かれている。

この様な短詩に興味の無い読者諸氏は、ここまでの文章の漢字の多さに、
早々とうんざりしていると思う。
では、ここから、気になった年の実作を幾つか挙げて、紹介しようと思う。
一通り見ていて、やはり、明治の頃の短詩が興味深い。
何だか江戸の雰囲気を残しつつ、文明開化の色も強く出ている。
文芸は世相を反映するので、後の大正昭和と言う激動の時代の前の、
駘蕩としているけれども芳醇、そんな文化的で粋な歌や句が見られる。
中でも、ひとつ、20世紀の始まった年、1901(明治34)年を取り上げて見よう。

短歌部門は、教科書でも御馴染の、与謝野晶子の「みだれ髪」である。

くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる
むねの清水あふれてつひに濁りけり君の罪の子我も罪の子
清水へ祇園をよぎる櫻月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき

など、短歌好きならずとも、人々に膾炙した歌が多くある。
そして、俳句分門は、新聞「日本」で正岡子規に師事した、
佐藤紅緑の「滑稽俳句集」である。

雛を見に行けば婆アが出たりけり
宗匠の顔に嘔吐はけほととぎす
朝寒ぢや夜寒ぢや秋はくるるのぢや

など、自由奔放なおかしみを持った句が、精力的に読まれている。
最後に、川柳部門。
この部門が一番、当世を反映しているかも知れない。
当時、博文館より発行されていた文芸雑誌「文芸倶楽部」の、
読者投稿欄に掲載された句が紹介されている。
選者は、田村松魚と三宅青軒。

女房に白髪抜かせて妾宅へ
若武者を望んで後家は白髪染
髪結の癖に世間の噂ゆひ

など、短歌とは一線を画す艶っぽさと、俳句よりも大衆的な面白味がある。
なんだか、どれも落語的な印象を受ける。
短詩と日本人と言うのは、とても密接な関係を持ちながら、
現代まで受け継がれて来た事が分かる。
1922(大正11)年なんて、宮澤賢治、渡邊水巴、田中美津木である。
それを上げれば切りが無いが、ひとつ、ゆるぎなき事実。
私たちが、短詩(大好き)民族と言う事は間違いない。

【天候】
終日、苛烈な猛暑日。
熱帯夜。

1317声 主夫との会食

2011年08月09日

今日の昼下がり。
ファミリーレストランで、主婦と一緒に食事をしていた。
などと書くと、いささか艶っぽいのだが、主婦ではなく、主夫なのである。

二年前から主夫となった彼は、同時に大学生になった。
年嵩はわたしよりも大分上だが、学生になった為か、最近、随分と若々しい。
子育てに精を出す主夫と、群馬県外の大学へ通う大学生と言う、二足の草鞋を履いて、
日々奔走している。
八月の現在は、丁度、夏休みの時期。
「じゃあ」てぇんで、今日、彼と久しぶりに食事に出掛けた。
「赤ちゃんを預けてから」、来ると言う彼に、私の知らない、未知の世界を思う。

二人目が出来たと言う彼の笑顔からは、幸せがこぼれ落ちていた。
子育ての事、主夫としての生活の事、学生生活の事、将来の事。
全てが、前向きな明るい話である。
彼には、私が普段、触れ合っている、モノを創っている人たち、
所謂、「表現者」が持っている「陰」が、全くなかった。
その「陰」に、魅かれる部分もあるのだが、やはり、「光」の方を向いていた方が良い。
とも、一寸、彼を見ていて、思った。

「最高に楽しい事はないけど、最高に幸せです」
彼は、現在の主夫としての生活を、一言でそう述べた。
私は、気の抜けたコーラのグラスを弄びつつ、何度も浅く、頷いていた。

【天候】
終日、猛暑日。
熱帯夜。

1316声 鼻の鉄板

2011年08月08日

「鉄板」
と言っても、別にお好み焼きを食べる訳でもなく、
話としての鉄板である。
テレビのお笑い番組などでよく聞く俗語で、
「確実な」と言った意味合いがある。
つまり、「鉄板ギャグ」と言えば、「確実な(率で笑いのとれる)ギャグ」と言う事になる。

鉄板な話。
最近の私のそれは、もっぱら「鼻の話」であった。
今年の春先に、夜道を自転車で走行中、電柱に激突して鼻の骨を折った。
と言う内容を軸とした、とても分別ある三十歳前後の男性の行動とは思えない様な、
アホらしい話、なのである。
初対面の方が多く、砕けた雰囲気の酒席などでは、真っ先に打席に立たせる。

それも立秋を過ぎて、日増しに秋めいてくる今日この頃。
使い込み過ぎて、鉄板もどうやら焦げ付いてきた様子。
と言うのは、聞いている人たちの表情で分かる。
自分に近しい人たちは、露骨に「またか」と言う呆れた表情を出すから。
今回得た鼻の話は、中々厚い鉄板だったようで、意外と「もち」がよかった。
少し磨けば、また、使える一品であると、使っている本人が密かに思っている。

私などは、その鉄板を商売に使っている訳ではないので、
手頃な物が一つ二つ有れば事足りる。
しかしながら、凝り性な性分の為か、他の人が良い鉄板持っていたりすると、
自分も、玄人好みの、もっと厚い鉄板を手に入れたくなってしまう。
そうなったら、今度は鼻の骨くらいでは済まないだろう。
鼻が治るまで、痛い思いをさんざんしたので、
今少し、この「鼻の」鉄板を使っていようかしら。

【天候】
日中、猛暑日。
今年は遅かった蝉も、ようやく派手に鳴き出した。
夕立有り。

1315声 現代の粋

2011年08月07日

最後のチケットを切り終えると、会場から、早くも笑い声。
どうやら、前座さんが登場し、会場を沸かせている模様。
急いで、集計を済ませ、ホール脇からこそこそと自分の席へ潜り込んだ。

昨日、前橋テルサホールで、「第三回若手落語家選手権」が開催された。
出演は、古今亭菊六さん、三遊亭時松さん、三笑亭夢吉さん、
立川志の春さん、三遊亭鳳笑さんの五名。
観覧客からの投票でグランプリが決定すると言う、
観覧客参加型のホール寄席なのである。

接戦かつ激戦の結果、優勝は古今亭菊六さん。
準優勝は三笑亭夢吉さんと、相成った。
全員二つ目さんだが、恐るべき才能の煌めきを感じさせられた。
二つ目さん、と言うと、およそ三十代前後から三十代後半の方が多い。
ほぼ、自分と同世代。
しかしそこは、芸の道に生きる身。
その言葉、挙措のひとつひとつから、所謂人間的な「深み」を、体感させられた。

「心折れますよ」
その言葉が印象残っている。
「高座にいると、お客さんが良く見える。寝てるとか欠伸したとか、頭を掻いたとか、
そんな些細な事で、はじめのうちは、心折れる。五年、いや十年はかかるでしょうな、
まず心が折れなくなるまでに」
ビールジョッキを握りながら、その落語家さんはふと、真剣な顔になって、話してくれた。
その後は、ジョッキを飲み干して、清々しく破顔一笑。
さらりと言えるところが、粋だよな。

【天候】
日中、晴れて真夏日。
夕立が夜半まで降り続いた。

1314声 都市生活者と祭り

2011年08月06日

祭半纏の衆が引っ張って行く、華やかな山車が運行している中央銀座を通って、
俳句仲間のお店へ。
去年の高崎まつりは雨降りだったので、少しくらい曇っていても、
今年は天気に恵まれたと言うべきであろう。
人づてに聞いていたように、今年はやはり露店の数が少ない。
店内で浴衣を試着させてもらったり、ひとしきり雑談した後、
展示してあった木工作家吉沢さん製作の、ぐい飲みをひとつ買ってきた。
杉の木に紅い漆が塗られており、とても綺麗である。
今後、漆の色の経年変化が楽しみである。

友人知人のお店などを回って、帰路に着いた。
「焼き茄子みるくブルーベリーかき氷」
と言う、完全に「わるのり」な面白いかき氷を、すもの食堂で食べた。
そうやって、食を楽しみながら涼をとる。
かき氷ひとつで、「面白い」が得られるのだから、やはり、面白い。

祭りの時期になると、祭と共に生活がある、都市生活者が羨ましく思える。
郊外に住む私などは、高崎の祭りも花火も、いささか蚊帳の外に置かれている感がある。
地区の祭りはあり伝統は受け継がれているのだが、
やはり住んでいる市区町村最大規模の祭りに、参加したい気持ちはある。

いまは、夕暮時。
あと少しで夕立の来そうな厚い雲の裏に、かすかに茜色が見える。
これから、やはり郊外にある馴染みの店へ出掛け、麦酒でも飲んでこようと思う。
昨日が八木節祭りの熱狂の最中で飲んでいた酒だったので、
今日は、祭りの話を肴に、ゆっくりやるのもいいだろう。

色街に子供の遊ぶ祭りかな  (諒一)

と、こう言う光景が、郊外には無いんだ。

【天候】
終日、曇りがちなる晴れ。
夕立、ひとしきり。

1313声 八木節祭当日

2011年08月05日

ビルの上のビアガーデン。
その屋上から、夕暮の桐生の街を一望していた。
夜よりも深い色に染まって行く、山並み。
桐生競艇場の、煌々とした灯り。
駅から出てゆく、短い電車。
そして、真下に広がる街中。
目抜き通りである、本町通りでは交差点ごとに櫓を囲んで、
熱狂の八木節音頭。

高崎の仲間と合流し、屋上の夜風に吹かれつつ、麦酒で乾杯。
浴衣で立ち働く店員のお姉さんも、つまみも麦酒も、
そして、街に鳴り響いている八木節も、変わっていない。
昨年から、一年経っている事を踏まえて、そう感じた。
桐生の街に住む、お年寄りも子供も、共有している八木節は、
変わらないのであろう。

ひとしきり、飲んだところで、ビル屋上から降りて、本町五丁目の櫓へ。
踊りが、思い出せるかいささか不安だったが、15分も踊りの輪を見ていれば、
頭で考えるよりも、体が思い出した。
二時間くらいは、休み休みであるが、踊った。
仲間はみな、滝の汗。
麦酒を飲んで踊っては、また滝の汗。

いつもの事ながら、終電へ飛び乗り、帰路へと着いた。
スナックのママ、銭湯の親父さん、その他、知り合いの方々への挨拶も、
満足に出来ぬまま、電車は進む。

本町通りの人ごみの中で、偶然遭った、銭湯の親父さん。
一人で、黙々と、ゴミ拾いをしていらした。
ビニール袋に散らかされた缶ゴミを入れつつ、
縁石に腰掛けていた、金髪の青年三人に向かって言う。
「綺麗になるとさ、きもちいいだろ」
「そーっすよね」
大分酔っているらしい青年たちは、うすら笑いを浮かべつつ、
腰を上げて雑踏の流れへ向かった。
腰をかがめて黙々と、道路を歩いて行く親父さんの後姿を見ていて、
冷水を浴びせられた様に、胸に響いた。
親父さんの居る桐生の街は、素晴らしいと思った。

自分の血の中に、八木節の音頭が染み込んで行く、感覚。
その土地の湯へ浸かって、その土地の酒を飲んで、
その土地の音頭に身を委ねる。
理屈ではない、この面白味。

【天候】
終日、曇りがちなる晴れ。
各地域で、一部夕立。

1312声 八木節祭前夜

2011年08月05日

いまからもう、胸の奥底にある埋火が、チロチロと燃えている様な感がある。
明日の夜はおそらく、その火に八木節と言う音頭が放り込まれ、
業火となって燃えている。

明日の8月5日から三日間に亘って開催されるのが、「桐生八木節祭り」である。
今年で第48回を数える、伝統的な祭りであるが、その熱気は県内随一であろう。
目抜き通りの、「本町通り」に櫓を立てて、ひたすら八木節を輪になって踊る。
特に、午後7時からは、人出も熱気も最高潮に達し、まさにトランス状態となった大きな渦が、
八木節のステップを踏んでいると言う状況。
その輪の中へ、身を投ずる。
と言うのが、我が人生の一つの生きがいとなっている。

おばあちゃん、なのである、あるいはおじいちゃん、でもよい。
どこにでもいる様な、腰の曲がった人の良さそうな。
そのお年寄りが、祭りの半被にねじり鉢巻きをして、
覚束ない足取りで、撥を懐に、櫓に上がって来る。
音頭が始まると、太鼓を叩きながら調子を取って、マイクに向かって謡う。
「はぁ~あ~ぁ~あぁあ~あ~」と言う謡い出しで、胸の底がざわめく。
その節廻し、声量、声質、そして、醸し出ている堂々とした雰囲気。
その全てが、私を魅了する。

【天候】
終日、曇りがちなる晴れ。

1311声 三面鏡の天瓜粉

2011年08月03日

ベビーパウダー。
日本で言えば、天瓜粉(てんかふん)がそれに当たる。
俳句では夏の季題であるが、瓜の粉と書くくらいだから、
その原料は、やはり、黄烏瓜の澱粉を用いて製造されている。

あせも防止の為に、現在でも幼児のいる家庭では欠かせない物だろう。
先日も、知人宅へ行った際、風呂から上がった赤ちゃんに、パタパタとはたいていた。
それがベビーパウダーでなく、天瓜粉だと分かったのは、あの匂いの為。

あれは、小学校一年生くらいだろうか。
夏休みには必ず、祖父母の家へ泊まりに行った。
一日、遊び疲れて夕暮。
風呂から上がると、祖母はかならず、私を風通りの良い縁側へ連れて行き、
天瓜粉をはたいてくれた。
白い粉に包まれると同時に、あの天瓜粉の乾いた花のような香りに、包まれる。
脳裏に浮かぶその映像はいつも、日暮し蝉の鳴いている、晩夏の夜である。

その祖母はいま、病院で夏を過している。
あれから二十年以上経った今も、祖母の家の仏間には、
天瓜粉の入っていた三面鏡が置いてある。
夏が過ぎても、祖母は家に戻って来れなそう。
そんなことは、万に一つも無いのだけれど。
なんだか、あの三面鏡の引出しの中には、まだ。
あの天瓜粉の缶が、入っている気がしてならない。

【天候】
終日、曇り。
高崎市では雨は降らなかったが、
隣の埼玉県ではゲリラ豪雨があったらしい。

1310声 藁蒸せば牛肉

2011年08月02日

国産牛肉が、おぼついていない。
先日、放射性セシウムを含む稲わらを食べていた牛の肉から、
基準値を上回る、放射性セシウムが検出された。
これを受けて、いま東日本を中心とする各県では、 
放射性物質の全頭検査が進められている。

私などは疎いので、牛肉の産地など気にせずに、日々の食生活を送っている。
しかし、子供のいる家庭や食の安全性に過敏な方は、相当、衝撃を受けている様子。
幼子のいる友人の家庭でも、飲料水から野菜に始まり、今度は食肉と、
日々の食事に神経をすり減らしている。
いささか気の毒に思うが、子供の方が影響を受けやすい。
と言う一般常識に基づき、実直に、親としての勤めを果たしているのである。

百鬼園先生に「「養生訓」と言う随筆がある。
その中の一説に、こんな話がある。
体調が芳しくない百鬼園先生が、かかりつけである小林博士に、
日常の養生法を申し渡される。
その中、食べてはいけないものに、好物である牛肉が入っていた。
これが面白くなかった、百鬼園先生。
「牛は冬の間は藁しか食ってゐない。牛の本質は藁である。
藁を体内に入れて蒸すと牛肉になる。」
「藁が肝臓に悪いと言ふのは可笑しい」などと、独自の理論を展開。
家庭内で、牛肉のすき焼きの事を「藁鍋」と言う事に決めてしまって、
しきりに、牛肉、いや藁を食べてしまうと言うのである。

この偏屈っぷりが、百鬼園節なのだが、先日のこのセシウム牛の報道を目にして、
案外、この百鬼園理論は的を得ているかも知れないと、思い直した。
「藁を体内に入れて蒸すと牛肉になる。」
と言う表現のまま、藁に付着していた放射性セシウムが、肉になってしまったのだから。
食の安全性について、混迷を極めている、現在。
もし百鬼園先生だったら、この状況下で、どんな偏屈な理論を打ち立てて、
牛肉を食べようとしているであろうか。

【天候】
終日、曇り。
朝晩涼しく、過ごしやすい。

1309声 詩の現場

2011年08月01日

「詩の国」
などと言う大袈裟な表現も、確信を持って使えるくらい、その実感を得ている。
先月は、自分が定例で参加している句会に、突発的な句会。
そして、ジョウモウ大学の句会と、様々な場所と状況で、俳句に親しんだ。
どの場所でも、様々な方々と、俳句を通して触れ合う事が出来た。

そこで感じたのは、「なんと、詩人予備軍の多い事か」、と言う事。
例えば、先日、ジョウモウ大学の授業の一環で行った句会。
参加してくれた方々は、概ね全員、生まれて初めて「句会」と言う形式で俳句を発表した。
「有季定型」
と言う情報だけで、実に多彩な句が揃った。
中には、無意識に、「省略」や「切れ字」などの技巧が利いている句も見られ、
眠れる「詩」の才の片鱗が見られた。
初めて季語を捉える感性が、新鮮な句を沢山生んだ。

そして、一番最近では、昨日参加した、句会。
私は初めてお会いする方の句を、特選に頂いた。
その方は、主に「投句」だけの俳句活動をされているとおっしゃっていたが、
見事な写生句を作っていらした。

群馬県内の、都市部へ行こうが、どんな山深い村へ行こうが、
そこには必ず「詩」に親しんでいる方がいる。
小さな村の広報誌にも、俳句コーナーがあったりするのが、その顕著な例である。
群馬県に留まらず、日本全国津々浦々、遠い海の島へ行っても、
必ず、その土地の「詩」があるだろう。
この状況はもはや、詩の国と言っても過言ではない。
それらの詩を、何か大きな網で掬いあげたら、素晴らしいものが獲れそう。
例えば、昭和初期にあった虚子選の「日本新名勝俳句」みたいな。
その時の応募投句数は、十万句を越えた。
様々な後日談が言われているが、今なお語り継がれている、
所謂「名句」も多数生まれた。
それからかれこれ、約80年。
詩は今尚、生まれ続けている。

【天候】
終日、曇り。
朝晩は涼しく、過ごしやすい一日。
夜には、小さく虫の音。