汗ばむくらいの陽気だった。
半袖の人も多く見かけた。
この先が出てこない。
こういう日もあります。
街路樹のハナミズキが満開で。
いつから街路樹はハナミズキになったのだろう?
ハナミズキはラグジュアリーである。
キュートか。
銀杏並木はどこへ行った。
2015年04月23日
汗ばむくらいの陽気だった。
半袖の人も多く見かけた。
この先が出てこない。
こういう日もあります。
街路樹のハナミズキが満開で。
いつから街路樹はハナミズキになったのだろう?
ハナミズキはラグジュアリーである。
キュートか。
銀杏並木はどこへ行った。
2015年04月22日
お客さんと話していたら、街の隙間、についての話になった。
この「隙間」はちょっと前に書いた「空白」と同じようなもので、人によってはそれがあるからやっと安心できるというような、その大事さは案外気づかれずにほったらかしにされている場所、のことだと思う。
街には、スポットライトの当たらない隙間がたくさんある。
そういう隙間のないことに窮屈を感じるという、今となっては当たり前なのかどうなのかすらよくわからないこういう話は、なかなか普通にできる機会がありそうでない。
街には隙間があって、隙間があるから生きていられるのだけれど、経済原理は隙間から排除して行く構造になっている。
街にある隙間は、そのまま心の隙間の投影である。
それがあるから人間は人間でいられる、ということでもあるかもしれない心の隙間は、やっぱり経済原理にさらされると容赦無く排除されて、、というよりそれは人間の側の問題で、人間が経済原理に身を任せてしまうと、経済原理はほっとけば心の隙間も均一に平らにならしてしまう。
そのお客さんは、街の隙間を少しでも埋められたらと思って、という言い方をして、コミュニティ大学をやっている。
それはそのまま心の隙間を埋めることで。
隙間は誰にでもある、のだと思う。
ところがそれが埋まる、というのは結果であって、その前に当たり前だが、そこに隙間があるということに気づく、がないと始まらない。
だからまず、光を当ててそれが隙間であることに気づく、という順番があって、その上でどうやったらその隙間が埋まるか考える、がないと、埋まるものも埋まらない。
埋めるのはそう簡単なことでもない。
手順だけ考えても大変な上に、およそ隙間に気づかされるきっかけは外から光が当たることで気づく場合が多いから、気づくという段階ではその大変さに気づかないことが多い。
外からの光は長続きしない。
いつかは自分で光を当てていかないといけないときが来る。
これが大変なんでね。
それでまた、隙間には隙間である理由もあって、つまりそれは気づかなければ楽でいられたかもしれないようなある種の闇、であることも多いから。
闇に外から光が当たると気持ちいいけれど、光の当て方もその埋め方もよくわからないのに自分で光を当てるのはたいへん、なので。
だから、街の隙間を埋める、というのは、美辞麗句なんかでは決してないんだね。
美辞麗句なんかでは決してないのがわかった上で楽しんだらいいじゃん、みたいなものではあると思うけれど。
そこに感動があるよ、みたいなものかもしれないな。
あー、いいこと言った。
もう言うことない。
明日から抜井にバトンタッチしたい。
2015年04月21日
私はコーヒーが飲めない。
飲めるが飲むと頭が痛くなるか気持ち悪くなる。
だから怖くて飲めない。
それなのに仕事の都合でコーヒーを淹れることになった。
初めての体験になる。
引き立ての豆に向かって、口の長いやかんでちょろちょろとお湯を注ぐ。
そうするとなんとも言えず深く甘い香りが立ち上ってくる。
こんないい気分の香りなのに気分がいいのは香りまで。
飲んだらとたんに頭痛が始まる。
なんて皮肉なのだろう。
仕事とはいえいい機会だから、少しずつ慣らしていってコーヒーを飲めるようになれたら嬉しい。
始めて淹れたコーヒーは、なんだかよくわからない酸っぱい飲み物になった。
コーヒーに申し訳ないので、せめてちゃんと淹れられるようにならないといけない。
2015年04月19日
中之条町に行ってきた。
街中はもう桜は散っているが、山に少し入ると、満開だった。
こればかりは何度見てもいい。
伊勢崎は4月に入ってすぐに満開になったから、半月くらいの違いがある。
早くも田植えの準備が始まっていて、こちらに関しては伊勢崎よりも随分と早い。
伊勢崎は麦が終わって田植えのところが多いから、7月にならないと田んぼに水は入らない。
里山に水田の景色は情緒がある。
中之条に行くたびに思うことだが、空気がおいしい。
山ならばどこでもそうかと言われるとそうでもない気がしている。
中之条で何度も同じように感じるのは、好みなのではないか。
きっと空気にも味がある。
2015年04月18日
何かガサガサと音がした。
他の部屋の住人が朝から掃除でもしてるのかと思ってもう一度寝直そうとしたら、やっぱりもう一度音がする。
どうもこの部屋らしい。
朝日の当たるカーテン越しに小さな虫の影を見つけて、これだと思ってカーテンを開けたら、そこに羽根をバタつかせて、てんとう虫がいた。
てんとう虫を見るのはいつ以来か。
てんとう虫は私にとってはタックルである。
仮面ライダーストロンガーと一緒に戦う電波人間の。
電波人間タックル。
名前がタックル。
仮面ライダーは虫である。
タックルは仮面ライダーではないが、てんとう虫をモチーフにした改造人間であり、ヒロイン、つまり女性である。
仮面ライダーのヒロインとしてはたぶん唯一の改造人間だと思う。
調べた。
間違いなさそうだ。
2015年04月17日
歌手は歌い方や声の出し方で、その歌の登場人物と一緒に泣いたり肩を組んでみたり、声をそらして気遣ったりする。
この歌を聞くとどうして決まってこの部分で泣くのかと思って聞き返してみると、歌声の、声の表情の変化がある。
歌い手の気持ちが入りすぎた声はあざとくなる。
さしずめホップを入れすぎたビールみたいに。
その気持ちが歌い手の身体感覚で理解されていないと、これもあざとくなる。
あざとさを理解できてしまう頑強な肉体、というのもあるのかもしれないが、やっぱり普通はあざといと伝わらない。
感情的な歌い方だと勿論伝わらない。
2015年04月16日
ホテル街を抜けた一角の、往来の頻繁な裏通りの日暮れどき。
壁のない、いくつかある入り口の一つが取り外された路面に向かって腰高の小さいテーブルがあって、そこに大人が外を向いて焼き鳥とビールで一杯やる。
楽しそうでもなんでもない顔つきでいる。
外からみたらなんだあれはと思う。
そういう店が鶯谷にある。
そこに白いスニーカーにハイソックスで、紺の丸帽子をかぶったランドセルの男の子がお父さんと一緒に焼き鳥を買いに来る。
近所のおばさんも自転車でエプロン姿のまま来る。
白のエナメルシューズにリーゼントの全身白づくめの男が、人の良さそうな語り口で他のお客さんと話していたり。
帰宅のサラリーマン。
OL。
若いのも子供もなんでもいる。
上野のガード下の、昼からやっている立ち飲み屋とはまた趣が違う。
ここに寄る時は、仲間に入れてもらう、という感覚になる。
知らない町の祭りに参加させてもらう感覚に似ている。
2015年04月14日
何かを獲得する意識の強弱で格差が生まれて、獲得意識薄弱がそのまま経済的薄弱になってしまう、ということがある。
気づいてないかもしれないけれど獲得意識の薄弱、つまり成り行きが許されない雰囲気だけはあって、しかも当人はそれを意識はしてない上に空気だけは読んでいるから、獲得のために毎日を費やすようになる、ということになる。
人間の成り行き性が経済的薄弱への筋道になってしまうのは、これ、獲得意識格差社会です。
そんな社会で生きていると脳は、獲得意識の薄弱=経済的薄弱を勝手に人間的薄弱につなげる。
もう本当に勝手に。
経済的薄弱になったらそんな自分のまっとうさを誇ってもいい、というコンセンサスはない。
たぶんそんなことしたら、「は?」って言われちゃう。
知らず経済的獲得に文字通り絶対的価値があって、そのことで精一杯になると、ほんとに欲しかったものはぼやける。
ほんとに欲しいものがわからないからひとまず生きる、というのが人生でもあるかもしれないのに、ほんとに欲しいものを考える、が、経済的獲得と平行されて保持されないから、逆にいらないかもしれない獲得も簡単に増えてしまう。
それよりもっと見えにくいのは、結果的に経済的獲得もできずに、その上ほんとに欲しかったものを考えるという意識も消え去って、獲得欲だけが残るという状態で。
こうなるともはや社会は、獲得欲の格差だけはない社会、ということになる。
いつのまに獲得欲だけ煽ればいいということが前提化されてしまったの?社会、というか。
そう思い込んでいるからやっぱり煽られる側は獲得しようとして、その列の先で何を買えるかもわからないままスーパーのタイムセールの列に並ぶ、みたいなことになる。
いい年をした人が並ぶ。
そんな時である。
悲しくて泣きたいなんて言ってられないと心に誓うのは。
叱り飛ばすしかないと思うのは。
2015年04月13日
肌寒い雨の月曜日。
この頃「疲れた」を連発している私は、これはとことん寝るしかないと思い、晩飯を食べに外に出た以外は、一日中部屋の中にいた。
夕方部屋を出て何を食べようかとウロウロしていて気づいた。
疲れているときはほっといてもらえる店に行きたいんだと。
店の人のことを考えなければいけないと思うだけで疲れてしまう。
そうなんだと思って次に頭に浮かんだのが、テレビのある店がいいな、で。
テレビがあれば店の人をあまり気にしなくて済む。
そうしようと思って近くの繁華街をウロウロして、テレビのある天ぷらやがやっているのを見つけた。
店に入ると私の母くらいの年齢の女性とその娘さんらしき女性。
マスターは奥にいるのかなと思って注文したら、その娘さんらしき、娘と言っても私よりは歳の上のその女性が天ぷらを揚げ始めた。
こういう状況に非常によく似た店を他に知っている。
もしかしたらマスターは他界されたのかもしれない。
そう思って店内を見渡したら、ビールケースの上に男性の写真が飾られていた。
それ以上は詮索もせず、だから本当にそうだったのか確認もせず、テレビを見ながらお銚子一本と天ぷらを食べて、ゆっくりできたと思って店を後にした。
部屋に戻り、珍しくもうこれ以上飲みたくもないので、さっきまで本を読んでいてまた気がついた。
「スポットライトの当たらない空白」というフレーズを目にして。
考えたいことがまとまらないとき、何かのフレーズでまた思考が始まることが多く、それは食材を見ないと料理が浮かばない、というのと同じようなことだと思うけれど、「スポットライトの当たらない空白」というフレーズを見つけて、昨日のひとこえで言いたかっためっかった群馬についてというのは、そういうことだった。
めっかった群馬というのは、スポットライトの当たらない空白を見過ごせない者の見つけてきた空白集みたいなもの、かもしれない。
街には、そんな空白がたくさんある。
今日の天ぷらやもそうかもしれない。
2015年04月12日
風呂に入ってめっかった群馬のことを考えていたのだがいざアウトプットする段になるとそこまでのエネルギーがイマイチ足りない。
疲れた話ばかりで申し訳ないです。
持ち越しということで。
2015年04月11日
繁盛店の調理場はお客を気にしない。
あれは気にしないんじゃなくて本当はいちいち気になっている。
満足してるか。
うまいと思ってるか。
忙しいとそれを気にしながら気にしてないような時間になる。
料理人は料理と動きを見てもらうのが仕事なのだからそれでいい。
それがよくて料理人になろうという人も多いと思う。
動きについては、そこを意識し始めるまでには、料理を始めてから少し時間がかかるかもしれない。
いい動き、見ていて気持ちいい動き、というのがある。
ここに興味がないと料理はうまくならないので。
ところが店が暇だとぼーっと立っている時間が増える。
これも動きのうちだが、見ていて気持ちのいいでくの坊というのは、これは案外難しい。
飲めばどうにかなると思うからコップに酒を注ぐ。
どうなのかと考えながら飲む。
芸人が芸をせず場を持たす難しさに似ている。
忙しかろうが暇だろうが、お客が見ていて気持ちいいのかどうなのか。
これはつまり自分が客としてそこにいたときに気持ちいいかどうかということ。
だから要するに、一体この店は、自分は、何を気持ちいいとするのかという問いがなければ、料理人としての進歩はない。
志ん生がいいのか。
談志がいいのか。
小三治なのか。
どれも気持ちいいのだが自分が芸を志すならなりたいのはどれなのか。
そういうような話。
2015年04月10日
体調がどうもこれはよくない。
ものを考えようという気にならない。
どうにもこうにもだ。
ならばそれでいいと、思ったらいい、という。
それでいいと思えない質の、そういう人に限る話かもしれないが。
そう思ったとたんに考えられるようになるみたいなことは案外正しいが、今日はそれ以上に、これはよくない。
そんな時は、コツがある。
考えたくても考えられない時のコツ。
飲まず食わずでいる。
そうすると内臓はたいしたもので、自分から動き出して、また考えようという気持ちにまで、内臓がしてくれる。
それから、体調のよくない自分を受け入れようとしてみる。
受け入れる、というのは、自分を自分外のものであると仮定して他者化して向き合う、ということで。
ただこれ、考えないということと矛盾する。
何も考えたくない、の中には、人のことなんか気にしたくない、というのも含まれていて、なのに自分を他者化したら、それは一にも二にも自分について考えるということだから、また疲れる。
ところがこれが、結構、非常に意味がある。
考えなくていいと思えない質の、それはたぶん頑張らなくていいと思えない質の、そういう人に限って。
他者化してその上受け入れる、というのは、自分に向き合って、それが自分が受け入れらる自分であると認めることでもあって、ここに意味がある。
体調のよくない自分を受け入れることができたとき、たぶんこれは強くなれている。
考えなくてもいい自分をほったらかしにできるくらいには。
周りが許すとか許さないとかいう発想や、どうにもならない自分を超えていく、という作業は、地道なんだ。
この作業が大変なのは、それが孤独を受け入れるということでもあるからだと思う。
大変なんだが、同じことに取り組んでいる人もいると思えたら、少しはやってみようという気にならないか。
しっちゃかめっちゃかだが、考えなくてもいいことについて考えていたら意外と頭が働いて来た。
仕事をする。
2015年04月09日
ここ数日の目覚ましは選挙カーの「お願いします」の声。
日に日に大きくなる声にも慣れてしまった。
選挙カーが通り過ぎた後はすごく静かになる。
街って静かなんだと改めて思ってたりすると、鳥が鳴く。
街にも結構いろんな鳥がいる。
鳥が鳴いて、もう一度朝が来たと思い直してみたり。
それにしても、体が重い。
低気圧だから仕方が無いと思い直して、今日もまずうんこから。
2015年04月08日
歯が痛い。
店のフェイスブックを見てくれたお客さんが、そのフェイスブックに投稿した筍の料理を食べに来てくれた。
「年を取ると、これ食べとかないとと思うんですよ」と言って。
「あぁ、そうですよねぇ」と、確かにそうだなと思って言ったら、「若い頃はずっと唐揚げ食べてても平気だったでしょ」と。
「(笑)」
「冬至のときに、柚子を買いにコンビニに行きましたもん」
「(笑)」
こちらも楽しくなるやりとりをしてそのお客さんは帰りましたけれど、楽しかったのは、なんで楽しかったかと今思えば、そのお客さんが季節感を大事にせずにはいられなくなっているというそれと、それから清々しい孤独があったからだと思います。
毎日気軽な受け入れ態勢で営業していると、この料理を作ってよかったと思えるときを見過ごしがちなんですが、今日は気持ちよかった。
2015年04月07日
帰宅してまず脱ぎたいのは上着よりもズボン。
その前に靴下を脱ぐ。
明日は冷え込むそうで、そんな予報だからか夜の街に人は少なかった。
靴下とズボンだけ抜いで、次にするのは上着を脱ぐことではなしに缶ビールの栓を開けること。
今日は一番搾りの限定版「小麦のうまみ」。
一番搾りの甘みをシャープにした感じでおいしい。
疲れている感じなので早めに寝た方がいいのかもしれないと思いながら、だいたいそんな感じで晩酌は始まる。
と、書きながら、缶ビールを飲み終えた。
日本酒が飲みたくなっているが、今この部屋に日本酒はない。
何を飲めばいいのかそっちを考える。
そっちの方が大事。
2015年04月06日
飲食店の扉を開けるとき、できることならば重くなりすぎた自分の尊厳を少しでも軽くしたいという思いがたぶんどこかにある。
だから店にとっては、お客さんの尊厳を預かる、くらいの気構えがないと、カウンターの内側は務まらない。
尊厳を一時的に預かってもらえるだけでどれだけ救われることか。
尊厳は、最後は自分で持っていないと意味がない。
だからそれはお客さんに返すことになるのだけれど、店側が返す方法は、まず、気持ちの入った料理なのだと思う。
その料理が気取り過ぎていたら、距離が開いてしまう。
料理は素朴がいい。
素朴に自分の尊厳を込めたとき、何か伝わる。