黄金週間だってんで、慌てて宿なんぞを見繕っているけれども駄目。
温泉場と言う温泉場、宿場と言う宿場。
もう、予約で一杯。
鄙びた木賃宿まで満室ってんだから、
今年は余程、家に居つかない人達ばかり。
特に、今年が七年に一度の御開帳である、
善光寺付近なんぞは、旅客の過密を極めている。
人を観に行くようなものだと、思いつつも、
七年に一度の人を、観に行こうかと考えている。
2009年04月28日
黄金週間だってんで、慌てて宿なんぞを見繕っているけれども駄目。
温泉場と言う温泉場、宿場と言う宿場。
もう、予約で一杯。
鄙びた木賃宿まで満室ってんだから、
今年は余程、家に居つかない人達ばかり。
特に、今年が七年に一度の御開帳である、
善光寺付近なんぞは、旅客の過密を極めている。
人を観に行くようなものだと、思いつつも、
七年に一度の人を、観に行こうかと考えている。
2009年04月27日
今日は、都市で生活している人に向けて書こうかと思う。
普段はあまりこう言った文体(です・ます調)、では書かないのだけれど、
偶には気分を変えて。
都市で生活していると、季節の足音に気付かずに日日を送っている人も多い筈です。
私たちが、一年365日の道程を走っているならば、季節も共に走っています。
季節の方が先にゴールしたり、遅れたりと言う事は無く、常に私たちと並走しています。
それに気付くのは、都市では無く、矢張り自然の中にいる時です。
私は今日、群馬県の最西毛地域である上野村へ出掛けました。
高崎市から安中市を通って富岡市へ抜け、下仁田町を南牧村へ進むと、
漸く上野村です。
車で片道、所要1時間半程掛りました。
湯の沢トンネルが開通してからは、随分と交通の便が良くなり、
東京から下仁田ICを利用して、多くの日帰り観光客が訪れています。
小春日和ですが、日差しの注いでいない場所へ行くと、まだ寒く感じます。
季節の移りきらない、四月末の気候は、ひんやりと爽やかです。
上野村へ入ると、折り重なる雄大な山並の中に在る事を実感します。
山肌には新緑が活き活きと茂り、濃い緑薄い緑が不規則に混ざり合っています。
その思わず息を飲んでしまう自然美は、私の言葉足らずの描写より、
読者の豊かな想像力に任せる方が賢明かと思います。
折り重なる山の間には、細く滔々と流れる清流があります。
河原には日光が満ち、水面に乱反射する光が眩しく感じます。
時折吹く風が、渓谷の新緑の梢を揺らし、溢れる光を撫でさせていました。
私は橋の上に足を止め、その山景を見下ろしていました。
欄干に肘を付いて眺めていると、雀が2.3羽舞い集まって、
欄干の上へ気まぐれに止まりました。
一台の車が猛スピードで橋に差し掛かると、雀たちは舞い散って、
眩しい光の中に消えて行きました。
2009年04月26日
風の強い日は、決まって夕焼けが綺麗だ。
今日も、茜色の光が急ぎ足で行く千切れ雲に映り、
野面の緑に落ちている。
山は深い群青色になり、やがて夜を迎える。
日中、「土屋文明記念文学館」で開催中の企画展、
「村上鬼城〜その生涯と作品〜」を観覧した。
鬼城の作品は見知っていたが、展示品の直筆書簡や、
使用していた煙管、筆記具、補聴器袋などを見て、
改めて鬼城の存在感を掴めた。
俳人の詩は、郷土から生まれた。
その17音の詩が、心を潤す。
2009年04月25日
しっとりと、終日雨。
今年は菜種梅雨が見られず、好天の日が続いている。
今日の雨は、季節を足踏みさせる様な、冷たい雨だった。
榛名山と赤城山の麓に位置しているこの街は、
高崎市街地へ向かって、街全体が緩やかに傾斜している。
旧街道は、夕方になるといつも渋滞し、信号待ちの長い車列が出来る。
鉛色の雲が垂れた空には、夜の気配が濃くなっており、
前照灯を点けた車が目立つ。
十字路の信号が、青に変わるのを待っていた。
運転席前の硝子で、断続的にワイパーが動いてる。
街道沿いの古ぼけた小さなバス停に、
黒いオーバーを着た老爺が独り、座っているのが見えた。
2009年04月23日
起床して、洗面所の鏡面の前に立つ。
北向きの硝子窓を開けると、榛名山と赤城山が在る。
青空には、千切れた雲が幾つか流れて行く。
今日も、風の強い一日になる。
と思って、窓を閉めた。
風の強い日は、赤城の裾野がはっきりとした輪郭で見える。
2009年04月22日
ラーメンを啜る音が、店に響く。
顔を上げて、もう一度、静かな店内を見渡す。
やはり、いつもより広く感じる。
「暇だよ」
と、欠伸を噛み殺して厨房から歩いて来たのは、幼馴染の友人である。
友人は、工業団地に位置している、この定食屋の倅。
そう遠くない将来、二代目として店を切り盛りして行く筈の男だ。
「あぁ、工場が週休3日になったんだって」
私も、この工業団地にも漏れなく、不況の煽りが来ている事は知っている。
「そー、六月からさー、4日になるトコあるらしーんだってー」
コシのあるラーメンを茹でているくせに、声音には腰が入っていない。
「4日かよ」
週に、休んでいる日の方が多い計算。
「4日は、良いなぁ」
などと、私などは怠惰かつ能天気人間なので、率直な感想を述べてしまった。
「良くねぇよ、良くねぇ、良くねぇ」
溜息と共に、煙草の煙を吐き出す友人。
いつも着ている白い調理服が、今日はいつにもまして、白い。
昼時、時刻は12時30分。
いつもなら、作業服の男衆でひしめき合っている時間。
それが、今日の店内。
先程、入って来た2人連れの女工さんと、奥の座敷にいる老夫婦のみ。
私は、いつもと変わらない味のラーメンを、確かめる様に、
一口一口慎重に啜った。
2009年04月21日
父子。
あるいは、母子。
お互い年を経るにつれ、話のすり合わせが難しくなって来る。
取り巻く、環境。
取り巻く、仕事。
取り巻く、生活。
様々な要因が、お互いの人生軌道を、時に近づけ、時に遠ざける。
会話に窮した、ちゃぶ台の前。
茶請けに添えられている、老舗の最中に手を伸ばす。
薄皮に、上品な甘さの餡子がぎっしり詰まった、昔から変わらない郷土名物。
その味は、自分が子供の頃、況や親父が子供の頃から、変わっていない 。
老舗の最中の味を共有する事で、お互いの距離が、実は離れていない事に気付く。
味の記憶に、気付かされる。
2009年04月20日
「お客さんに、あげるんですか」
半ば答えは分かっていたが、気の良さそうなおじさんの顔に釣られて、
何の気なしに問うた。
「うん、子供になぁ、子供は喜ぶから」
少し恥ずかしそうに答えたおじさんが笑うと、所々欠けた歯が見えた。
レジの私は、接客文句と共に、お釣りをおじさんに渡した。
サイダー30缶入りの箱を、大事そうに持ち上げ、おじさんは店を出た。
おじさんの後には、いつもの様に、焼き芋の匂いが残っていた。
学生時分のアルバイトで、小さなスーパーのレジ係をした事がある。
余り客入りの良くないその店に、決まって夕方訪れるおじさんがいた。
おじさんはいつも、箱入りのジュースを一つ買った。
その煤汚れた風体と、衣服に染み込んだ匂いで、
おじさんが焼き芋屋だと直ぐに察しがついた。
いつも、クシャクシャの千円札を2枚出すおじさんの機微から、
それが商売の一環ではなく、おじさんの楽しみなのでは、と感じていた。
木枯らしの吹く中、百円玉を握りしめて買いに来る子供等。
焼き芋と一緒に渡すジュース。
瞬間に出会う、子供等の笑顔。
その笑顔を見て、きっとおじさんも、煤けた笑顔を見せるのだろう。
それは、商売の手法と言うよりも、善意の給付である。
あのおじさんの、所々歯の欠けた、一寸ひょうきんな笑顔と、
染み込んでいた焼き芋の匂い。
今、机の前で、ふと思い出した。
2009年04月19日
重兵衛湯の朝湯に浸かりながら、宿酔の諸症状と自責の念の緩和を試みていた。
体内のアセトアルデヒド脱水素酵素も、度重なる重労働で、
どうやらストライキを決行している模様。
酒はこわい。
わらべ唄の「通りゃんせ」を思い出す。
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
こわいながらも、「飲ましゃんせ」
などと、月明かりに映える、可憐な八重桜に囁かれて痛飲。
午前零時頃、酔眼甚だしくも詠んだ俳句。
書き散らした紙切れを、何処かに忘れて来てしまった。
自らが酷く酔った状態で書いた文章など、見るのがこわい。
こわいながらも、一寸見てみたい。
2009年04月18日
出掛ける支度をしている。
前橋市の八重桜が見頃だと言うので、これから自転車で行こうと思う。
前橋も外れの方なので、自宅からは自転車で、凡そ1時間は掛る計算である。
窓の外は日も大分薄くなり、黄昏の気配が濃くなって来た。
遠回りになるが、市街地経由で銭湯に寄り、ひとっ風呂浴びて行く行程も悪くない。
ふと軒先から、涼やかに走り抜ける鈴の音が聞こえた。
近所の三毛も、そろそろ出掛ける時間らしい。
2009年04月17日
机の前で呑んで居ると、どうしてこうも、真っ直ぐに酔ってしまうのだろう。
摂取したアルコールが、寄り道せずに、真っ直ぐに大脳新皮質へ浸透して来る。
黙って呑んでいると、なんだかゲップばかり出る。
今日は終日曇天。
断続的に冷雨が降った。
雨の日には「雨の匂い」があって、
その匂いによって思い出されるのが、「夢幻像」である。
ふと、思い出したのは、小学生時分。
黄色い傘を持って、非常に心細い心持で、桑畑の横を歩いている自分。
何処へ行くのか、行路なのか帰路なのか、夢幻像なので定かでは無いが、
確かに体験した事だと言う記憶はある。
そして、その日も丁度、今日の様な曇天で、
冷たい雨が断続的に降っていた日だった。
旧群馬町は現在でも、桑畑が多い。
そんな夢幻像を肴に、一杯。
机上には瓶の丸染が、一杯。
2009年04月16日
「250円」
これは、本日私がス−パーで買った弁当の値段。
少々簡素だが、一般的な弁当と別段変る事の無い、豚の生姜焼き弁当だ。
デフレ経済とは言うが、年々激化する小売店の価格競争は、
今年に入ってさらに加速度を増している。
毎週、朝刊に折り込まれてくる各スーパーのチラシを見比べると、顕著である。
それにしても250円とは、地方都市の相場なのだろうが、此方が心配になる。
「遂に風呂代よりも安くなったか」
と、消費者にとっては嬉しい事なのだが、売り手の薄利多売を思うと、
総菜コーナーで、いささか嘆息してしまった。
しかしながら私も低所得者のはしくれ、レジへ持って行って、
どこか申し訳無い心持で300円を払っているのだ。
では、現在の群馬県の風呂代を見る。
県内でも特に銭湯の多い、桐生、高崎市は330円。
県庁所在地の前橋市は360円。
これは、「群馬県公衆浴場業生活衛生同業組合」と言う、
早口言葉みたいな名前の組合によって、保たれている適正価格。
私は安いと思うが、適正価格であるとも思う。
なので、毎回、番台で嘆息しないで済む。
ここで、文章展開の路地を横丁に曲がる。
ついでに、「全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会(全浴連)」
(更に舌を噛みそうな名前だ)のHPを見てみると、
「都道府県の入浴料金表」が載っている。
全国で一番高いのは、東京都と神奈川県の450円。
一番安いのは、佐賀県の280円。
400円台が目立つ中、群馬県の360円は安い方ではないか。
400円でお釣りの来る喜び。
360円で得られる満足感。
2009年04月15日
先日、ATMから出てきた通帳に、振り込みの記載があった。
定額給付金である。
遂に来たかと思い、もう一度、通帳をATMに突っ込んで、下ろした。
占めて壱萬弐千円成。
ATMに備え置いてある、薄手の長4封筒に入れ、そそくさと持ち帰った。
自宅に着き、机の上に壱萬円紙幣と、壱千円紙幣を二枚置いて、考える。
「はて、どの様に使ってしまおうか」
考えあぐねていると、次第に、窓の外は夜の色が濃くなって来た。
考えるのを一旦中断して、紙幣をポケットに入れ、麦酒を買いに出掛けた。
2009年04月14日
昨夜の事、もう真夜中の床である。
突然、小刻みに震え出した携帯電話に驚き、小説を読む手を止めた。
手を伸ばして電話を取り、眩光の画面を確認すると、「新着メール1件」
確認すると、差出人は車寅次郎に良く似た知人。
本文は、「今、長野から岐阜に入るところです。和歌山に行きます…」
最後まで読んでみると、どうやら突発的に旅立ってしまったので、
旅先の情報が無いとの事。
直ぐに、和歌山での映画「男はつらいよ」の撮影地を調べ、返信。
最後に聞いてみた。
「こっちには、いつ帰って来るんですか?」
「明後日です」
過密スケジュールにも程がある。
まさに、劇中の寅さんを地で行く旅暮らし。
慌てて調べ物をしている、私。
寅さんに振り回される劇中の登場人物の如き姿に、一寸苦笑。
今頃は、もう和歌山だろうか。
などと、思い馳せる床。
気付くと私は、じっと天井を見つめている。
2009年04月13日
ここ数年、文明的なモノから文化的なモノに、自らの興味が移っている。
特に、この「めっかった群馬」と言うサイトなど、その最たるモノだ。
文明とは、誰もがその利便性を享受できる、
言わばグローバルスタンダード的なモノ、あるいは社会。
例えば舞台。
スポットライトが当たっている、主演の演技は素晴らしい。
誰もが、拍手喝采を惜しみなく送っている。
しかし、その舞台を構成しているのは主役だけではない。
そこには、助演しいては脇役、端役の存在がある。
スポットライトは当たっていない、拍手喝采も無い。
しかし、そのいぶし銀の演技に、私は深い感銘を受ける。
舞台を引き立てている、その脇役、端役の存在こそが文化なのである。
文化とは、その価値を共有できる人を限定する、
言わば、ローカルスタンダードである。
このサイトにある様な、各コンテンツを作る。
そして、それを読む。
と言う行為は、観覧席の隅っこに集まって、
主演そっちのけで、助演や脇役、端役の良さを語り合っている。
その様な状況だと思う。
それは、極めて異質な行為であると同時に、
価値観の共有によって、安心感を得られる行為である。
しかし、インターネットと言う、彗星の如く現れた新人の主演舞台上で、
こそこそと演技させてもらっている事を、忘れてはならない。
2009年04月12日
いつも行っている、近所の日帰り温泉から帰って来て、
二缶目の麦酒に手を伸ばしたところ。
今日の露天風呂は良かった。
敷地内に植えてある、満開の桜を眺めながらの月光浴。
散り始めた桜の花が一ひら、舞い落ちて湯にたゆたう光景は風情豊かである。
桜は、潔く散る。
自らの鄙びた姿を、見られまいとしているかの如く。
美の絶頂で、儚くも花びらを舞い落とす。
気高くある事は孤高である。
その姿は、見る者の精神の働きにも影響する。
だから人は、桜を見ながら想いを馳せるのだ。
そう言えば、先日のワルノリ俳゛句ingでも、
その影響を体現しているワルノリ俳句があった。
たしか、「本当よ 桜が散ったら ダイエット」。
二缶目が飲み終わる。
2009年04月11日
本日、和のカルチャースクール「ほのじ」にて、
堀澤さんと一緒に、新聞社の方に取材を受けた。
主な内容は、ワルノリ俳句ingに関する事である。
次回で第八回を数える、ワルノリ俳句ing。
真夏の渋川市街地、麦酒片手に流れ落ちる汗を拭きながら。
真冬のみどり市大間々、銭湯から出て熱燗と湯豆腐をつつきながら。
質疑応答中、過去に訪れた俳句ingの場所とワルノリ俳句が、
鮮明に思い出される。
心象を五・七・五で表現する行為は、見ている風景まで心に活写する。
と言う事を、改めて実感した。
現在、次回のワルノリ俳句ingは何処にしようか、思案に暮れている。
来月、5月初旬。
まずは、第2回ワルノリ俳゛句ingの開催を開催しようかと思う。
それはまた、近日中の「クレインダンス情報」で。