「さあ始めよう」。橋本さんのひと声で、都会の公園、僕らはカフカの「変身」の文庫本を開いた。「映画だけじゃだめだ。全てのことに興味を持て」橋本さんは僕ら学生に対し、常にそう言っていた気がする。
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便利なのか怖いのか、LINEに登録したら電話帳に入っている人に「僕LINE始めたよ!」みたいな通知が一斉送信されてしまったらしく、何年も連絡をとっていない知人とスマフォの小さな画面内で繋がってしまった。
その流れで、「日本映画学校15期橋本ゼミ」のグループにも入ることになり、10年以上の時間を経て、当時の同級生の子どもの写真などが目に入るようになった。映画に関わっているのかそうでないのかは定かではないが、みんなそこそこ元気にやっているようだ。
今は日本映画大学になってしまったが、僕らがいたころは専門学校。日本映画学校では1年時に脚本から撮影、インタビュー取材など一連を学び、2年時から専門コースを選び分かれるようになる。1年が始まる際には、「学生が自分の担任を選べる」というユニークな制度もあった。
僕が橋本信一監督を1年時の担任に選んだのは、「他の講師が映画監督然としていてケリでも入れられそうな中で、橋本さんはニコニコ優しそうだったから」という不純な動機からだったかもしれない。でも、一番ピンと来たことは確かだった。
橋本さんはドキュメンタリー演出と学校講師を兼任し、僕らが卒業した後には、『掘るまいか』、『1000年の山古志』という新潟県中越の山村に暮らす人々を追ったドキュメンタリー映画を監督した。ラーメンが好物で、「岡安、あのラーメン屋はうまいぞ」と、ゼミ生数人と共にラーメン屋に連れて行ってもらった記憶もある。
冒頭のカフカ「変身」は、橋本ゼミ恒例だった「一つの小説を皆で読み、意見をぶつけ合うことで、自分が気付かなかったことを知る授業」である。沢木耕太郎の「人の砂漠」を合評した記憶もある。映画を作る人間は、人間を知らなければいけない、と、裁判の傍聴にも連れて行ってくれた。予想通り優しい人だったが、映画や表現については全力の人だった。
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映画学校を卒業して6年が経ったころ、お隣新潟の「長岡アジア映画祭」で『1000年の山古志』が上映されると知り、観に行った。中越大地震後、全損に近い被害を受けた山里で生きる人々を長年取材したその作品には、橋本さんやスタッフが「取材する人される人」の垣根を越えた密な付き合いを重ねたことが、はっきりと反映されていた。力作だった。舞台挨拶が終わり、楽屋のような部屋に、橋本さんを訪ねた。
「おー!岡安、久しぶりだな!」と橋本さん。何を話したのかはよく覚えていない。「この後、ラーメン食ってくか?」という橋本さんに、「群馬まで帰んなきゃなんで今日は帰ります」と僕。それが、橋本さんに会う最後になるとは微塵も思わなかった。
「映画だけじゃだめだ。全てのことに興味を持て」という生徒への激。それは実は橋本さんが自身を奮い立たせるために自分に課していたことなんじゃないか、と今になっては思う。もっといいかげんな人であったなら、今もひょっこり会えていたような気もする。
映画学校卒業から10年以上の時が経った。映画に関わっていてもそうでなくても、僕ら橋本ゼミ生の心の中には、橋本さんの想いがきっとある。そう思ったら、顔を上げ前を向くしかなくなった。