祭り明けの月曜日。
運良く私は仕事が休み。
夕べの酒が、熱気が渦巻いて、悪寒とともに午後となる。
お酒のありがたさを噛み締めながら、お酒に謝りながら。
いいから早く抜けてくれと、じっとしている。
飲んだら酔う。
一滴でも酒を飲むのなら、そういう大事なことを忘れちゃいけない。
男も女も関係ない。
ダメな自分を自覚するつもりはないけど飲む、なんて、どうかしている。
飲み過ぎはいけない。
2015年08月10日
祭り明けの月曜日。
運良く私は仕事が休み。
夕べの酒が、熱気が渦巻いて、悪寒とともに午後となる。
お酒のありがたさを噛み締めながら、お酒に謝りながら。
いいから早く抜けてくれと、じっとしている。
飲んだら酔う。
一滴でも酒を飲むのなら、そういう大事なことを忘れちゃいけない。
男も女も関係ない。
ダメな自分を自覚するつもりはないけど飲む、なんて、どうかしている。
飲み過ぎはいけない。
2015年08月09日
年に一度の楽しみがある。
桐生の八木節祭りに行くこと。
今日がその日だった。
今年はひとこえ執筆者である抜井とすーさんと一緒に、他にも友人を交えて行ってきた。
夕方16時過ぎに桐生駅に到着。
まちなかはずらりと列ぶテキ屋の一群、そこに列をなす夏休みの子供達、思い思いに道路に張ったテントで昼から飲んでいる住民などで溢れていた。
三日間の祭の最終日だからか、街はどことなく疲労感を漂わせている。
ところがこれが八木節音頭がなり始めた途端に街じゅうからアドレナリンが分泌しているかのような高揚感に包まれるのだから、八木節の音の力はすごい。
ここ数日の中では幾分過ごしやすいとはいえ炎天下の桐生の街をウロウロして、冷房の効いた料理屋から行きつけの雑居ビルの屋上ビアガーデンへ。
この夕暮れを見るために来た、と言っても言い過ぎじゃないくらいの特等席に腰を下ろす。
眼下には、今か今かと八木節が始まるのを待つ櫓と人の波。
桐生盆地を縫うように走る両毛線。
その向こうに沈む夕陽。
十分ですこれで。
それにしても、今年は踊ったなぁ。
息も絶え絶え踊った踊った。
来年は岡安さんも交えて、あのビアガーデンで句会をしたいねぇ。
2015年08月08日
コース料理の予約でスッポンを仕立てた。
通常ならばこれでよしというだしの旨みが濃く感じたので水で薄めて味を整え直した。
こっちの方がいい。
もしお客さんがいつもと同じ味を求めていたらがっかりするかもしれない。
でも今回のコースでその前に食べた料理とその後に食べる雑炊のことを考えるとやっぱりこれがいい。
一皿で完結しないところがコース料理の面白さである。
今の店はコース料理はほとんどない。
だから一皿の中で完結するように考える。
その大根のツマもその蛇腹に切っただけの胡瓜も、それがあるから完結できる一皿なのだよ。
2015年08月07日
酒を飲むとメモするクセがある。
そのことについては前にもここで書いたことがあるかもしれない。
夕べのメモ。
いつものホルモン屋で飲んでいて、あぁ、やっと酔ってきたと思ったそのときに書いたもの。
「二軒目にいけない」
これは覚えている。
普段ならここから離陸、というときにガス欠、みたいなこと。
あまりおもしろくない。
おもしろくないって笑えるかどうかというそういうことではなく、二軒目にいけないくらいの体力しかないことがおもしろくない。
2015年08月06日
連日の暑さはひと段落もせず、日中のシャワーの回数ばかりが増える。
シャワーの格別さをこの夏は噛み締めている。
8月に入ってから、引越しのための片付けを始めた。
店のある場所が区画整理だから、その引越しのための片付け。
店は何処か他の場所に移転するのではなく、店のその建物ごと動かして10数m移動したところで再び営業を始める予定でいる。
たかだか10数mの移動と言っても建物の中の物はすべてカラにする。
店は100年以上になる古い商家だから、今の家のように基礎がない。
だから家を持ち上げれば家の中の物もすべて持ち上がるわけではなく、厨房に備え付けてあるガス台や流し台から、便所の便器まで一旦取り外す必要があるらしい。
その上今度はそれを一時、家の移動に半年以上もかかるというからその期間保管して置く場所が必要になる。
そのための場所を何処かに借りるのも大変そうだから、実家になんとか押し込んでしまおうと思い、まずは実家の整理を始めた。
始めてわかったのは、整理というのは普段から整理している人がそうすればすむというようなもので、私のように(親もだいたい一緒だが)何年も物を放置している者たちにとっては、整理と言うより廃棄をメインにしないと一向にことが進まない。
それで取り掛かったはいいが、予想以上に物がある。
洋服だけでも相当あったが着る機会がなさそうなものはすべて捨てた。
食器と本も相当ある。
これはなかなか捨てられない。
食器は使わなそうなものをひとまずよけた。
本は捨てられない。
特に料理の本は。
子供の頃の遊び道具だとか若い頃の思い出の何かだとか、さすがにこの歳になると残っているものも少ない。
こういうものは引越しのたびに整理してきているから捨てるものはあまりない。
残っているものは、いらないと思えばいらないけどどうするか。
さすがに全部捨ててしまうのもなんだから、写真なんかはとっておくことにした。
元来物に執着のない方だと思うが、歳とともに捨てられなくなるものができるんだ。
以外と高かったはずの靴や洋服は捨てられる。
値段は捨てられても記憶にまつわるものを捨てにくくなるのかもしれない。
2015年08月05日
嫌なものが多いのは大変だ。
だから嫌なものは少ない方がいい。
と言ってなにもせずに嫌なものが嫌でなくなるわけではない。
減らしたい嫌なものは、それがなんで嫌なのかがわからないと対処できないから、それがなんで嫌なのかの最初のとっかかりを探すことになる。
違和感を辿り始めるのは、そういう止むに止まれぬ理由が先にある。
違和感を辿ってその理由まで突き詰めたとして、かといってその違和感が消えるわけではない。
ただ、理由がわかればその違和感に出くわしたときに余裕ができる。
その違和感との距離がある一定のところで保てる場合に限ることだが。
他にもある。
嫌なことの減らし方。
ジャッジをしないでじっと耐えると嫌なことは減る。
嫌なものが多いのは大変だからそれを少しでも減らして楽にしたいだなんて、そんなことを真面目にやってるやつなんているのかね。
いるでしょうねきっと。
2015年08月04日
頭が働かないときや体が重いときは食べない方がいい。
心が定まらないときもやはり同じ。
腸の疲れがとれると脳は落ち着いてまた働きだすし、体は軽くなるようにできている。
ところが、気分や体調が優れないときこそ食べて束の間満たされたいと思う。
体調が良ければ良いで、飲みたくなる。
そうやってまたつまずくことになる。
2015年08月03日
夜はやっぱり文章を書けないな。
と以前から思ってたその理由がようやくわかった。
夜は、日中の思考過多を停止したいわけ。
だから概ね書けない。
要するに書きたくないんです。
休みの日に本の一冊も読みたいと思うのになかなか読めないのも一緒。
思考を停止したいからなんですね。
仕事が終わってホルモン屋のカウンターの隅に座って黙ってビールを1、2杯。
すると思考のスイッチが次第に切れてきて、覚醒と陶酔の間をウロウロする。
たまにそこから、ごくたまに覚醒が優って妙案明考に至ることもあるが、およそ近頃はウロウロのまま暗闇に墜落。
その闇がまた深い。
闇はこれ、放っておくとどんどん深くなるのでね。
だからこうして力ずくで思考を呼び起こすことも必要なんだけれど。
文章を書くって大変だけど大事ですよ。
それは一にも二にも自分と向き合うという意味においてだけど。
文章を書くとき大事なのは嘘をつかないこと。
嘘をついてしまう瞬間なんて簡単に訪れるからねぇ。
「お前それ本当かっ」ってずーっと自分に聞きながらじゃないとあまり効果がないんじゃないかな。
効果って闇から這い上がる効果ね。
あるいは闇に落っこちない効果。
嘘をつかずに自分と面と向かって文章を書いていれば、ぼけることはないんじゃないかと思う。
でもあれかな。
その書いた文章を誰かに認証されることも必要だな。
2015年08月02日
夏祭りでまちなかは人だらけ。
地方都市の8月は夏祭りで始まるところが多いかもしれない。
浴衣姿の女性連れ、若いカップルが多い。
女性が髪を結い上げ、帯を締めてしゃんとしている姿は絵になる。
絵にはならないがその金髪もその厚化粧も一寸許せてしまう。
隣の男がダサいとなおさら絵になる。
男も格好良く決めているのが何処か面白くないのは、女性が際立たないからか。
それもあるかもしれないがどうなのか。
男の格好が質素なほど女性の美しさは際立つ。
女性の言い分を聞けば、男が決めていた方がいいと言うだろうか?
男が、とは言わないだろう。
男も、とは言うかもしれないが。
女性は、まず自分が着飾ることに意味があるのだから。
私は個人的には、女性だけ美しければいいじゃないかと思う。
それは自分が見ていて満足できるかどうかに意味があるからだろう。
2015年08月01日
8月になっていよいよ夏という感じ。
夏バテなのか体調不良で2、3日寝込んで、昨日から動けるようになった。
体の融通がきかなくなってるのを年々感じる。
無理がきかない。
今年はとくに何度もそう思った。
最低限やらねばいけないことにすらコミットできないこともある。
他人と関わるとかそういう以前の問題として。
融通が効かないのは不都合である。
人生なんて自分の都合でどうにかなることなど限られていて、自分外の要因にどうコミットしていくかの過程が人生そのものだったりする。
それには体力も含めた融通力が必要になる。
ところがそれがなくなってきた。
けれどもそのことで楽になることもある。
融通力が低下すると諦めがよくなる。
選択肢が少なくなる。
これは非常にありがたいことでもあって。
融通力はそれが存分にあることの大変さもあって、どこかで「まだなんでもできる」というような根拠のない自信みたいなものを無意識に持ってしまうことがある。
そんなのがなまじあるとやるべきことが定まらない。
選択肢が多いのは、本当は多いわけじゃなくて融通力があるから勝手に多いと思いこんでいるだけなんだが、そういう状態は仮になんにもしてなくても疲れる。
いつも何かやらなくちゃいけない抑圧みたいなものにとらわれるから。
だからやれることが少なくなるのは楽なことでもあるんだなぁと思うわけ。
でもこれ、生物としてはどうなんだか。
オスとして、とかさ。
子孫のために何かやらなくちゃいけない責任に追い立てられ続けて死んでいく、ということの方が正しいかもしれないんだし。
人間の場合は、抑圧を責任に育てる達成感みたいなものがある一方で、責任だけで物事を片付けすぎて見えなくなる真実味、というのもあるけれども。
2015年07月31日
夏になると食欲が増す。細胞が活性化する。
割と軽やかに波に乗れる。
次回は11月。引退も真剣に考えたい心境だが
なんとか1年はやってみませう。
では、堀さんバトンタッチです。
2015年07月29日
天然が多い職場である。
天然である自覚がないのが、ほんとの天然である。
天然どおしの会話、ほとんどかみ合っていないが
会話は成立している風である。
天然でなくても、人の会話なんて誤解と勘違いに満ちている。
だから天然ぐらいがちょうど良いのかな。
先日、職場の女性から天然だと言われた。
自覚は全くない。会話もかみ合っている。はず。。
2015年07月28日
今仕事で、飲食店に自店のキャッチフレーズを付けて貰っているが
常識的には、「○○を堪能ください」となるべきところが
「胆嚢下さい」となっていた。
臓器提供の依頼か誤字か悩んでいる。
2015年07月25日
赤城山には大沼、小沼、小尾瀬と言われる覚満淵という湿原もある。特に小沼は、人工物が一切ない。外輪山に囲まれ、霧に包まれることも多く、神秘的な場所である。昼間でも25度前後と快適。チェアーとビールを持って、日がな一日、読書と昼寝をしていた。至福の時間である。県央から1時間で灼熱の街から脱出できるのが群馬である。