デパートの地下に立ち寄ると、ふらりと足が向いてしまうのが、 酒コーナーである。
特に買うつもりも無いのだが、麦酒に洋酒に日本酒と一通り品揃えを確認する。
先日も、ふらりと立ち寄った地下食品売り場の酒屋にて、
いつものように並んでいる酒のラベルを見ていると、見覚えのある筆。
秋田の日本酒であったが、素竹さんの筆であった。
酒の味は分からぬが、ラベルの風格はただならぬものがあった。
ためしに、一番小さな瓶をレジへ持っていった。
2014年10月06日
デパートの地下に立ち寄ると、ふらりと足が向いてしまうのが、 酒コーナーである。
特に買うつもりも無いのだが、麦酒に洋酒に日本酒と一通り品揃えを確認する。
先日も、ふらりと立ち寄った地下食品売り場の酒屋にて、
いつものように並んでいる酒のラベルを見ていると、見覚えのある筆。
秋田の日本酒であったが、素竹さんの筆であった。
酒の味は分からぬが、ラベルの風格はただならぬものがあった。
ためしに、一番小さな瓶をレジへ持っていった。
2014年10月05日
台風が近づいており、朝から雨風ともに強く、
大荒れの一日だった。
明日は関東を直撃らしいので、交通機関の乱れは必至であろう。
近所の神社では秋祭が予定されていたが、午前中で切り上げたらしく、
祭半纏姿の男女が、とぼとぼと参道を歩いていた。
誰一人、傘もささずに、うなだれて濡れていた。
白字の背中に朱赤で染め抜かれた祭の文字が、昼の闇に浮かんでいた。
2014年10月04日
最近は外に出るのが億劫になってしまって、
家に引きこもって飲むことが多くなった。
新規の店には好きな麦酒の銘柄が置いて無かったり、
馴染みの店は混んでいたり、喧騒に疲れてしまったりと、
なかなか上手い具合に運ばないことが多いからである。
商店街の焼き鳥屋で誂えた焼き鳥を並べ、缶麦酒を見つめながら、
ちびりちびりとやっている。
普段の半分くらいの分量で、普段の倍くらいに酔う。
つまり好きな酒を飲みながら、安上がりに酔える。
自分の興を遮るものなくしたたかに酔えるのだが、ちっとも面白くない。
2014年10月03日
夜、不定期で開催されている句会に参加した。
人数は私を含め五人で、丸机を囲み、席題を中心として行う。
雰囲気は、真ん中に酒瓶の並び立つような、という具合である。
席題なので、その場で題を出す。
私が出した題のひとつに「白」があった。
つまり、白と言う一字が句の中に入っていればよいのである。
群馬時代での席題句会では、必ず自然に触れるようにして作った。
つまり、戸外に一歩出ればそれが実現したが、都内ではそうも行かない。
そう言う時は、無論、想像の世界で句を作る。
想像の世界で作ろうとするのだが、そこにある山河の、
なんと茫洋として頼りないことか。
つまり、自らの想像力が頼りないのである。
慌てて、白と言う題を出すきっかけとなった、
机に出ている白ワインをがぶがぶ飲みつつ、おぼろげな句を作って出した。
こう言う類の句は、家に帰るころにはもう忘れていたりする。
2014年10月02日
群馬に住んでいた頃は近かったが、千葉に住むようになって埼玉が遠くなった。
特に、川越以西へは東京都縦断して行かねばならぬので、殊ににその感が強い。
先週はその埼玉以西へ、標榜では「500万本の曼珠沙華」が咲く言われている里へ出かけた。
無論、吟行句会なのだが、里へ着いた時から人、人、人、その500万本を上回る人の数。
静な里山に蠢く雑踏に、俳句はもとより、すっかり観賞の興を失ってしまった。
花見や花火などは人の混雑や猥雑な屋台群があまり苦にならず、むしろそれこそが、
祭りに華を添える一事と感じるのだが、曼珠沙華の里ではそうはいかなかった。
ロープの貼られた幾万の曼珠沙華から離れ、里の脇を流れる小川に腰を下ろした。
木洩れ日注ぐ清流の沿いには、自生している曼珠沙華がいくつか見えた。
名もない川や田の畦や苔むす墓石の脇に咲いているのが、本当の曼珠沙華の興である。
人でごった返す屋台に並んで買った、伸びた焼きそばに箸を入れつつ、
缶麦酒を買いに戻るだけの気力はなかった。
2014年10月01日
本日から一月は抜井が担当いたします。
寄席のように代わる代わる、出てきては去って行きます。
寄席ならばトリを務める真打が登場して、拍手喝采で終わるところですが、
ここは書き手の三人以外、一向にトリの出てこないところが、おそろしい。
しかしまた、ひと月の間はこうやってパソコン前に腰を下ろし、
稿を繋いでいかなけばならぬことのほうがおそろしいですが、
自分の受け持ちではない、ふた月の間、岡安さんと堀澤さんの書いた文章を、
悠然と楽しんでいたのだから、致し方ないと腹を据えております。
2261声で二日酔いに苦しむ堀澤さんも、書いていましたね。
「あれだけいい思いをさせておいてもらって、
その上薬を飲むなんてばちあたりである。」
2014年09月30日
中島みゆきはいいことを言う。
中島みゆきというと暗い歌を歌う人というイメージがあるのだが今はどうなのか。
興味がないほうが多いか。
何曲あるかもわからない楽曲を手当たり次第聞いている。
昔から聞いてるのを改めてちゃんと聞いている感じ。
3ヶ月くらいそんなことをしている。
そういうのをしつこくやると言葉とメロディ以外の部分、行間を聞くようになる。
行間を聞けないと和解はない。
中島みゆきが行間で言っているのは、
どうにもならない、ということだったりする。
どうにもならない、というのは、
言葉にしてしまったらどうにもならないではなくなってしまう。
行間に、
目にも耳にも触れずに気がつく人にしか気がつかないという形でずっしりそこにあるから、
どうにもならないは生き続けられる。
要するに、私にとってのいいこと、というのは、
どうにもならないが生きていることを教えてもらえること、
なんだとわかるわけ。
最後にいいこと言った。
おしまいです。
2014年09月29日
大福はプリンに勝てるか?
状況による。
深夜、
一日の疲れがどっと押し寄せている時に、
大福がプリンに勝つのは難しい。
一つは華やかさ。
一つは軽さ。
卵や牛乳の華やかさに、地味な小豆と米は太刀打ちできない。
軽さも然り。
作ってから時間が経てばなおさらである。
結局プリンを先に食べ終わってしまった。
でも大福が好き。
2014年09月26日
いいところというのは、
探すというより、信じ込む能力が問われる。
それがいいのかという疑問はいいとして、
疑り深い自分に気づいてしまったら、
それでもいいところを感じたかったら、
信じ込める能力への憧れを放棄して自分の基準を持つしかない。
ということが、
あからさまになってしまった時代なのだと思う。
2014年09月24日
ニコニコしている時もあればしかめっ面してたり、
飲みすぎてまっすぐ歩けないのは飲み過ぎたら誰でもそうで、
大事にされたいなんていう何処かの意識だとか、
下品が嫌いだとか、
自分も十分下品だとか、
そういうのをひっくるめて一人の人間で。
そういういろいろを抱えながら、
別にとくに、
精神はまとまりを持っていていいのだよね本当は。
他者はなかなかそれを許さないけれど。
2014年09月23日
結局体力なのだって随分前から思ってるが、
やっぱり体力がないと、
これがどうにもならない。
たとえいろんなことを考えたとして、
体力がなければできないわけだから、
考えようともしなくなる。
私は食べると動けないからできるだけ食べない。
噛まずに食べたら余計に動けないからこれでもかと噛む。
それでわかる食べることの醍醐味もあったり。
結局体力がないと始まらない。
面白くない。
それなのにまた酒を飲んでいる。
これが一番疲れる。
2014年09月22日
口の中で盛り上がったまま着地してしまったら、
興奮が残る。
料理はいらなくなる。
生ホップは盛り上がらない。
これがいい。
クラフトビールが飽きられるとしたら、
その口の中に入れた時の、
テンションの高さだろう。
2014年09月21日
酒を飲んだら酔う。
酔えば味の違いなどどうでもよくなる。
だから酔う前に説明する。
どうして酒がこの順番になってるのか。
なんでこの料理と合わせるのか。
でもこれはやりすぎるとしらける。
料理で説明できるのがいいのだろう。
でも伝わったと思えない場合はどうすればいいか。
わからない。
だから喋る。
伝えたいことが通常のおいしい、だけじゃないからそうなるのだろう。
2014年09月20日
著作権は作品を育てない。
たとえば料理のレシピを自分のものだけにしていたら、
料理は育たない。
いろんな料理を食べる楽しみもある一方で、
いろんな人が作る同じ料理を食べる楽しみだってある。
料理を育てるとはそういうことで、
時間に耐えるものを作っていくためには必要なことである。
2014年09月19日
自分を投げ出すのは、
投げ出したら取り戻すのがたいへん、なんだけれど、
どこまで自分を投げ出せるか、というせめぎ合いをしないと、
学べない。
たいていは、
投げ出したくなくても投げ出さざるを得ない、の中で、投げ出している。
そんなときなのである、
学んでいるのは。