ある一定の年齢になって前だけみている人間に魅力を感じなくなっている。
2015年07月06日
マラソンも半分走ったら折り返えす。
折り返さないでまっすぐ走れば、どんどんゴールから遠ざかる。
自分の人生は確実に折り返しに入ったと決めている。
興味の向くまま手を付けてきた、種々の脈絡のないことを
自分の中で収斂させていく時間にしたい。
2015年07月05日
今年度から、この仕事をしている。
先日、伊武雅刀さんの演技を間近で見た。
伊武さんが、低くて声量のある声で怒るシーンであったが
とてつもない迫力であった。おしっこちびりそうであった。
あんな上司がいたら出社拒否である。
場の支配感が半端ではない。どの世界にも極めた人が居る。
2015年07月04日
先日良く行く焼き鳥屋の親父、私は師匠と思っているが
この親父は若い頃から相当哲学を修めたらしい。
これは常連からのこぼれ話だが。
彼の話していることは原理的でぶれがなく明晰である。
ある日聞いてみた、哲学は何から読めば良いですかと。
デカルトの方法序説でしょ。即答だった。
翌日買って読んでいるが、まさに未知との格闘である。
スイスイとは進まない。一読ではとても理解できない。
随分、こういう読書をしてこなかった気がする。
2015年07月03日
本を読むということは2種類ある。
既知を読むことと、未知を読むことである。
未知を読むということは、岸壁をよじ登るような困難がある。
昔の漢学の素読がまさにそれである。
2015年07月02日
内村鑑三の著、「後世への最大遺物」では
後生への遺物として、お金、事業、文学を挙げている。
ただ、これ以上の後生への遺物として、
「高尚なる人生を送ること」としている。
鑑三の講演を元にした、平易な語り口ながら、
鑑三の格調高い精神に、清々しい気持ちになる。
2015年06月30日
「〇〇のうちで飯食べるから来ない?」
こう見えて友達が少ない僕も、たまにそんな誘いを受ける。
そんな時は、わりといろいろほっぽりだして参加することにしている。
飲食店での飲み食いも気楽で楽しいが、
知り合いが作ってくれた料理を囲んでみんなでわいわいする、
という楽しさはまた別格。自分で一品作って持っていくのも好き。
いい大人になってようやく、「みんなで集まれる時間」は
ずっとあるものじゃない、と思うようになった。
後悔しない時間を、もっと増やしていきたいものですね。
〇
さてさて、明日からはすーさんへバトンを渡します。
すーさんにとっての「楽しいこと」は何だろうね・・・
「ザブン」で一杯やることか、司馬遼太郎を読むことか・・・
あ、「ザブン」でちゃんとビール飲んでないまだ!
・・・取り乱してしまいすみませんでした。では、どうぞ。
2015年06月29日
雨の降る6月。「楽しいこと」を一応のテーマに、
ふたを開ければ真面目っぽい長文が続いてしまったけど、
自分が楽しいと思うことこそが自分自身の生き方を決めている、
というような気もした。書いてみて初めてわかったことだ。
実際の6月の生活は、実はけっこう大変だった。
いつもそうなのだが(笑?)仕事ややることを溜めこんでしまい、
不規則な生活と食事で体調もかんばしくなく、
月の前半は内心どんより。顔にも出ていたと思う。
「気分がのらない時は、出来ることを淡々とやる」
モードに切り替え、信号待ち、車の窓に落ちる雨を眺めていた。
基本お気楽能天気な僕にもこんな月があるんだから、
「楽しいことなんてない」という人の日々は、とても大変だと思う。
梅雨はもうじき明けるかな。今突然思い出したけど、
僕が好きだった「うしおととら」という漫画でこんなセリフがある。
「いやな時って、トンネルみたいだよな。寒くて一人でよ
でもさ・・・いつかは抜けるんだぜ。」
梅雨やトンネルには終わりがあり、その先にはきっと、空が広がっている。
それを、信じてみようじゃないか。
2015年06月28日
先日書いた小冊子の祭典「ZINPHONY」が終わった。
僕がこさえた「スーパーで売っている自分でよそうカレー」
のオリジナルな盛り方バリエーションと、そのカレーを
題材にした短い小説をこじんまりとまとめた「自炊式カレーzine」は、
少部数ではあったが完売との知らせ。
短時間のわりに力を入れた書いた小説が「面白かったよ!」との
声を何人かからいただいた。とても嬉しい。
映画学校ではドキュメンタリー専攻。今の仕事としても、
俳優さんやスタジオを使っての作りこんだ映像の経験はごく浅く、
イベントやブライダルなどのノンフィクションなものを撮る機会が多い。
ちいさく広くやらせていただいている紙媒体の広告仕事も、
大げさに作り上げるというよりは、現状を整理して伝えることが多い。
近年、そんな「100%現実」なものから、
ひとつまみ「嘘」を加えることがとても面白いと思うようになった。
もちろん「100%現実」なんてものは存在せず、どんな表現にも
切り取った人の主観は入るのでフィクションにはなるのだが、
・・・そういう難しい話は抜きにして、単純に
「今ある場所が、この人たちが、こんなだったら面白いな」
と考えるのが楽しいのだ。
趣味の範囲とはいえ、小説を書くこともこれに含まれる。
この「めっかった群馬」への寄稿も、それだと言えなくもない。
『誰も知らない』や新作『海街diary』など是枝裕和監督の映画や、
伊参映画祭のシナリオコンペ審査員でもある横山秀夫さんの小説など、
現実に基づいた嘘には、固い現実を変えていく力がある、と思っている。
自分の話のあとにそんな偉大な人達の名前を挙げるのは恥ずかしいが、
「ノンフィクションとフィクションの境界」というものに、
とても興味がある。だから、表現という行為はやめられない。
2015年06月27日
商店街活性化コンペの見学で久しぶりの県庁。
県内各地の組合やNPOが集まり、
空き家を利用するコミュニケーション重視の貸家の提案や、
地元の子どもやお母さんを巻き込んだ商店街のPR方法、
前橋空襲から70年目の節目に、史跡や証言を小冊子化するなど、
様々なアイデアが寄せられた。
「まちづくり」って何なんだろうね。実は未だによくわからない。
僕がスタッフをしている中之条町の「伊参スタジオ映画祭」や、
東吾妻町の真田の歴史を背景に遊ぼうという「岩櫃城 忍びの乱」
などの活動も「まちづくり」の範囲には入るのだと思う。
商店街、ということで言えば、ショッピングモールなどに流れた
お客さんを地域に根付いた個人商店に呼び戻すことが目的かもしれない。
「まちづくり」は「コミュニティデザイン」などという言葉に変化もし、
地方に若者やU・Iターン者を定住させることを目的とするかもしれない。
「まちづくり」という考えは昔からあったと思うけど、
近年よりいっそう方々でそれが言われている気がするのは、
少子高齢化、都会と地方の格差、物質から精神的豊かさへの変容など、
「今のままだとつらい未来が待ってるぜ、どうにかしないとね」
という共通認識が年を追うごとに増しているのかもしれない。
〇
話しは一気にこじんまりとなり(笑)先日歩いていたら
「よう!」と声をかけられた。9月の5・6と開催される
中之条町伊勢町の祭り連中である。
日曜の昼の2時、道端の駐車場でバーベキューをしているようで、
10人程度で炭を囲み手にはビール、数人は顔が真っ赤に仕上がっていた。
とても楽しそうだった。
難しい顔をして「まちづくり」を考える人も必要ではある。
けれど、その継続には、「楽しさ」が欠かせないと思っている。
2015年06月26日
二十歳過ぎてから仕事で初めて沖縄へ行った。
そこでの経験もすばらしかったのだけれど、
フェリーで本州に戻り、宮崎の知人たちに
会いに行こうと決めた。そのフェリーの上で、
いいようのない楽しさ、こみ上げる興奮を覚えた。
客観的に考えれば旅行とも言えない短期間の移動、
冒険などではなく、ある程度決まった工程を行くだけ、
なんだけど、その時は
「自分の人生を自分の意思で進んでいる」
という思い込みみたいなものが沸き上がっていた。
そういう時期だったんだと思う。
昔も今も好き勝手生きているほうではあると思うが、
その頃に比べるとやはり何かしらの制約を感じているんだろうね。
もういい年だから、制約は当然だよね、と思う一方で、
青空の下、人生の波をかき分け進むあの時の興奮を、
もう一度味わいたいと思う自分がいる。
2015年06月25日
朝どの番組を見るかによって、個性ってでるかも。
子どもの頃は福留から福沢とズームイン一本だった僕も、
近年では「女の子がたくさんいるから」とZIPを見て、
「たくさんいなくても夏目アナ一人いればいいや」と
TBSあさチャンを見ている。
あさチャンではよく、料理サイト「クックパッド」の
流行レシピの特集をする。今朝は「焼きヨーグルト」なるもの。
作り方は簡単。無糖ヨーグルトをペーパーで30分ほど水切り。
それを耐熱皿に移してオーブンで30分焼く。それを冷蔵庫で1晩。
水気がなくなり豆腐のような歯ごたえも出るので、
チーズっぽくなる、というレシピらしい。さっそくやってみた。
作り方によるんだと思うが、チーズではなく、
水気がなくなったヨーグルトがやや固まったもの、が出来上がった。
でもこれはこれで悪くない。肉と一緒にレタスに巻いたり、
グリーンカレーで炒めた挽肉と一緒に食べたらおいしかった。
「どんな味なんだろう?」というワクワクは、ネットを通じて拡散する。
そこから家庭の味に定着するものはごく一部なんだろうけど、
結果だけじゃなくて、作っていく過程が楽しい。夏目アナはかわいい。
2015年06月24日
早朝の仕事をしていると、
ふと見た山や草花が、はっとするほど美しい時がある。
朝日の加減もあるが、自然には美しい時間帯があるんだと思う。
そんな時、ちょっと携帯を出して写真を撮る。
カメラの精度も腕も足りないのでそのままは映らないが、
普段撮るものよりはいい写真である気がする。
「ライトを当てて物を撮る時のコツは、
肉眼で見ていいと思うまでファインダーを覗かないこと」
とめくった本にあった。基本中の基本ではある。
カメラの機能で、撮った後にコンピューター上で、
どうにかきれいにしようとすると、並の腕では失敗する。
「撮る瞬間にその対象が心動くものであるかどうか」
が、大事なんだと思う。
それは写真に限らず動画もしかり。きっと、俳句もしかり。
2015年06月23日
塀にずらーっと布団が干してある。
今日はお日さまいっぱい吸い込む天気。
とり込みたての布団にこどもがダイブしたら、
まだあっついからやめなさい、
ってお母さんは怒るんだろうか。
夜。
お日さまいっぱい吸い込んだ布団に、
洗い立てのシーツをふぁさーっと広げる。
それは、三ツ星ホテルもかなわない、最強の寝床。
2015年06月22日
映画を観る機会はめっきり減ってしまったが、
それでもシネマテークたかさきへ観たい映画を観に行くのは
僕にとって至福の時である。
以前観た映画に『私はロランス』という映画があった。
男前な学校教師のロランス。彼はある日、
自分が女性として生きることを宣言する。
スカートを履き、化粧もバッチリ決め出社。
生徒や同僚にはざわめきが起きる。なにより、
彼と親密に付き合ってきた彼女・フレッドはひどく混乱する。
そんなロランスとフレッドの長きに渡る愛の軌跡を、
独自の映像美と肉薄する人間描写で描き切った力作なのだが、
観終わりクタクタにやられたと思った後に、
実はこの映画の監督、グザヴィエ・ドランは若干25歳位だと知り、
「そんな若い奴に驚かされ泣かされコテンパンにやられた」
とくやしい思いをした記憶がある。世間は彼を天才と呼んでいる。
彼の新作『マミー』をシネマテークたかさきへ観に行った。
精神疾患を持つ暴力気質のある息子と、
一人親として彼とどう接していいかわからない不良な母親の物語。
もうすでに一ファンである。今回も、コテンパンにやられた。
ドラン監督自身、ゲイであることを告白しており、
映画にもいわゆるマイノリティな人物が多々登場する。
世間との軋轢の中で彼らが見せるむきだしの感情と、
その芯にある愛、輝きのようなものを、若干25歳位のこの監督は
ストレートに差し出してくる。映画好き人間好きには溜まらない。
そういった映画を暗やみの中、見ず知らずの誰かと共に
観て、共感することは、とても大切なことだと思う。
その日の上映後、知り合いは誰ひとりいなかったので、
この『マミー』を観て興奮したと言っていた知人に
わざわざ電話をかけた。「なあなあ、あのシーンだけどさ!」と。
映画をもっと観たい。映画館へ行きたい。
2015年06月21日
Zine(ジン)というものをご存じだろうか。
出版社ではなく、個人がハンドメイドで作る小冊子、
書く内容も、本としての装丁も自分で考え作る小冊子のことだ。
東京などではこれを集めた販売会イベントが行われており、
高崎でも「ZINPHONY」(ジンフォニー)という名前で不定期開催されている。
次は6/27(土)28(日)に高崎・SNARK3階での開催だ。
僕はなんだかこのイベントが好きで、過去にも
「自分史をめっちゃ絡めた、にほひたつような極私的映画コラム集」
「この鶴のひとこえコラムから、(ぬ)と(ほ)の僕が思うベストの抜粋冊子」
を販売させてもらった。後者は、他人のふんどしで相撲を取る作戦である(笑)
そのわずかな売上で、正月の「お気楽俳句ing」ではわずかなビールをシェアした。
今回僕は「自炊式カレーZine」なるものを出展する。
自炊式カレーとは、一度は見たことあるかな、スーパーの惣菜コーナーで
売っている、じぶんでしゃもじやお玉をもってよそうカレーのことである。
なぜそんなものを小冊子にするのか?
1杯198円(税込)という安さから、本気で昼ごはんとして食べていたが、
ある日ふとこれにコロッケや豚カツ以外を乗せたらおもしろいんじゃないかと。
それ以降、そのスーパー内で買えるもの限定で、焼き芋や駄菓子のビックカツ、
鰻やソフトクリーム(ネットに書いてあったんだよ)を乗せて食べてみた。
「その写真や感想を本みたいにまとめるのだ」と思うと、楽しさも増す。
そしてこのコラムのおかげもあり最近「文を書くこと」に関心があり、
「僕の隣で自炊式カレーを食べているおじさんは実は・・」という妄想から、
小説も書いてみた。それをA3用紙表裏に印刷し、八折にして出来上がり。
日々の生活の中で「表現したい」という気持ちが沸き上がることはないだろうか?
それを、ネット上のデータではなく小冊子という「モノ」として形にする。
それが誰かの手に渡り、同じように誰かが作った小さな「表現欲求」に触れる。
それは「大事に書いた手紙のやりとり」に近いものがある。
僕にとってはそれが、とても面白い。
2015年06月20日
たまに、出張カメラマンをする。
運動会や演奏会などのビデオ撮影である。
今日は伊勢崎で、演歌コンサートの撮影だった。
3カメ体制。僕は、歌の調子に合わせ寄ったり引いたり撮る係。
昔から、さほど演歌が好きじゃなかった。
テレビで流れる演歌を聞いては親父が口ずさみ、
聞きたいんだから黙ってて、と母が言う。
僕はいつも、「チャンネル変えたいな」と思っていた。
ところが、である。30も半ばに差し掛かってきたら、
「演歌悪くないじゃん」と思うようになった。
自分から聞くことはないが、今日のように生で聞くと、
伝わってくる“何か”がある。
映像撮影的に言わせてもらうと、
演歌は情などをのせ力を込めて歌うので、
情念込めて歌いきった後のドヤ顔?に清々しさを感じる。
多分、藤あや子や伍代夏子の熱唱を間近で見て、
うなじから湯気があがるような色気を感じたら、
天城越えしてしまうかもしれない。
・・・なんだ。発想が中年らしくなってきたから、
演歌も年相応になってきた、というだけかもね。