日刊鶴のひとこえ

この鶴のひとこえは、「めっかった群馬」に携わる面々が、日刊(を目指す気持ち)で記事を更新致します。担当者は堀澤、岡安、すーさん、坂口、ぬくいです。この5人が月替わりで担当しています。令和8年度は4月(坂)5月(ぬ)6月(岡)7月(す)8月(堀)9月(坂)10月(ぬ)11月(岡)12月(す)1月(堀)2月(坂)3月(ぬ)の順です。

765声 裏通りへの誘い

2010年02月03日

1億7,400万円。
これはラーメン店の1年間の最高売り上げ。
驚くなかれ、チェーン全店でなく、1店舗あたりの売上なのである。
その店は、「博多一風堂」と言う。
現在、日本一流行っているラーメン店、と言っても過言ではない。
私の友人、知人等も行列して食べて、その都度、「美味い、美味い」と言っている。
私はと言うと、ラーメン店のみならず、流行りの店には疎いので、食べた事が無い。
群馬県では、高崎市に1店舗あり、とても盛況な様子。
この一風堂、来店者の4割を女性が占めていると言う。
「女性一人でも気軽に来れる」
ってのが、近年、飲食店繁盛のキーワードになっているようだ。
そう言えば巷の繁盛店を見るに、店舗から料理まで一貫して、洗練かつ清潔な印象である。
翻って、巷の伝統的な銭湯等も、このキーワードに則した経営方針を、
などと、無責任な考えを持つが、それでは味気ない。
それはまた、所謂、昔の銭湯とは違った商売なのだろう。
遠くない未来。
街には、「女性一人でも気軽に入れる」式の店が増えて行く。
それは、「男性一人では気軽に入れない」店と言う事になると思う。
そうなると、そこからあぶれた男たちが、小汚ない食堂で肩寄せ合って、
ラーメンを啜り、楊枝で歯を突いている。
と言う光景を、容易に想像し得る。
その件で言えば、私などは、流行最先端の往来を、大手を振って、
歩いていると言う事になる。
しかし、やたらと男ばかりが目立つその往来は、やはり裏通りである。
時代に誘導されるが如く、どうしても、裏通りに足が向いてしまう。

764声 買い損

2010年02月02日

明日は節分。
なのだが、朝のニュースから、昨夜の積雪による交通機関の乱れ、の報道一色。
巷の風潮、豆まきの「ま」の字も無い。
明日になったら、鬼が街中を、跳梁跋扈していない事を願う。
昼飯にあんぱんを食おう。
思い立って、道すがらのスーパーへ寄った。
弁当とあんぱん、牛乳も買おうと、日配品コーナーを物色。
「あったあった、牛乳、これだ」
と、手に取ったのは200mlの小さいパック。
価格は88円。
その直ぐ下、特売品の低脂肪牛乳が、78円。
これは、1ℓの大きいパック。
思わず、1ℓの牛乳を手に取り、レジへ向かう。
あんぱんと牛乳。
やはり、良く合う。
良く合うのだが、あんぱん1個に対し、牛乳の量が過剰である。
おまけに、牛乳パックから直に飲んでいるので、非常に飲みづらい。
車の運転席に座り、慎重に牛乳パックと顔を傾けて飲むのだが、
時折、唇の裾からこぼれてしまう。
衣服も運転席のシートも汚れる、と言う惨憺たる状況になってしまった。
しまいには、無理して全部飲み終えた直後から、腹痛に見舞われる始末。
損して得を取るのは、難しい。
買い物をしていると、自らの潜在意識に盤据しているさもしい気持に、
気付く事がある。

763声 雪の音

2010年02月01日

硝子窓の向こう。
夜の底がデコレーションされる様を、手を拱いて見ている。
空から粉糖を振り落としているかの如く、真っ白に雪が積もって行く。
天気予報は精度を欠かず、予報通りに夜半から降雪、そして積雪。
自家用車を、スタッドレスタイヤに履き替えていない私は、気を揉んで、
おちおち寝ていられない心持である。
しかし、巷の子供等は、別の意味でおちおち寝てはいられない。
雪原を走り回る事。
雪だるま作りの事。
そして、クラス全員での雪合戦の事。
明日は皆、「雪やこんこ、霰やこんこ♪」と、鼻歌交じりに登校する事だろう。
窓を開けて、顔を出す。
呼気が白く、現れて消える。
雪の音、久しぶりに聞いたな。

762声 黒網タイツとちびまる子ちゃん

2010年01月31日

窓のサッシの隙間から、午後の陽が鋭角的に差し込んでいる。
その下、光と影の中、子供に絵本を読み聞かせている、お母さん。
今日、一寸した暇を埋める為に、近所の図書館へ行って来た。
図書館には、古い邦画のビデオがあるので、それが目当だった。
ロケ地が群馬県。
なんて作品は、マイナー映画でもしっかりと置いてあるのだ。
2本観た。
私が観ている視聴ブースの隣の席に、黒網タイツを履いた、
女子高生と思しき女子がやって来た。
エナメルのバッグを床に放り投げて、足を組んで画面を観ている。
映画を観終え、返却に行く途中、チラリと黒網タイツ、
じゃなくて、画面を覗いてみた。
そこには、「ちびまる子ちゃん」。
2本目の作品を物色していると、先程の女子、何やら隣のお爺ちゃんに話し掛けている。
どうやら、お爺ちゃんに、DVDデッキの操作方法を教えているらしい。
やるじゃん、ちびまる子ちゃんのお姉ちゃん。

761声 元気に、力強く、湯が沸いていた

2010年01月30日

喉が痛くて、おまけに鼻水が出る。
こりゃ、完全に風邪の諸症状だが、それでも、行って来た。
病院、でなく銭湯へ、である。
ここ最近、銭湯の件、と言ってもおぼろげだが、この件は膨らませないで、進行する。
その件で連絡を取っている方からの情報で、「営業しているよ」と言うのである。
営業しているのは、高崎市街地に在る「本町支店湯」。
私はてっきり、休業もしくは廃業したと、誠に失礼ながら、そう思い込んでいた。
それには、理由がある。
私の携帯電話に、高崎駅から一番近い銭湯を紹介してくれとの旨が寄せられた時は、
この銭湯を紹介していた。
一番近くも無いが、駅から歩けない距離でもなく、何より、午後1時と言う、
市内では一番早い時間から営業している銭湯だったからだ。
その日も、知人から連絡があった。
確か、一昨年の金曜日、午後3時頃だと記憶している。
本町支店湯が、月曜定休とは、入浴へ行った際に確認していたので、
迷わずこの銭湯を推薦し、場所の詳細を伝えた。
数分経って、私の元に連絡が来た。
「やっていない」、と言うのである。
そんな筈は無いと思いつつも、近所の「浅草湯」を紹介し、事無きを得た。
後日、私も確認に行った、火、水、木曜日なのに、やっていない。
「これはとうとう…」などと憶測している内に、確信へと変わってしまった。
それが今日、私の憶測は憶測に過ぎなかった事を、確認できた。
午後6時、柳川町裏の路地裏に、しっかりと暖簾がたゆたっていた。
しっかりと、浴室には、南国砂浜のペンキ絵が、描かれてあった。
元気に、力強く、湯が沸いていた。
以前は、臨時休業だったのだろう。
銭湯営業だって、晴れのち曇り、曇りのち晴れ。
熱い湯に浸かったら、風邪など、彼方へ吹き飛んで行ってしまった。

760声 麦酒と蜂蜜

2010年01月29日

喉が痛い。
季節性の空気乾燥と風邪の初期症状が相まって、喉に出ているのだろう。
何のこれしき構わずに、なんて腹を括ろうとしたら、丁度良い具合に、
先日頂いた蜂蜜の壜が、食卓の上にあるではないか。
蜂蜜は喉に良い、と聞く。
実際に効くのか、試しにスプーンにたっぷり取って、舐めてみた。
確かに、蜂蜜が喉に絡まって、いかにも具合が良さそうである。
しかし、それよりも何よりも、美味いのだ、この蜂蜜。
製造元の住所が、高崎市井野町になっている。
この「井野」ってのは、上越線の駅で言うと、高崎、高崎問屋町、井野、新前橋と来るから、
前橋市寄りの高崎市と言う位置に在る町。
この井野町は、私の見地から言うと、養蜂とはとても結びつかないが、
ともかく、住所は井野町と記載してある。
その種類は、百花の蜂蜜。
「百花」と書いて何と読むか。
答えは「ひゃっか」なのかどうかは確証が持てない、実は私も読めなかった。
あっさりしていて後味が良いこの蜂蜜は、まさに、野原で咲き競っている百の花を連想できる。
この味なら、ワインなどにも合うのではなかろうか。
と、ワインに疎い私の推薦なのであてにならないが、合うと思う。
麦酒で言うと、スタウト、つまりはギネス系統のコクのある苦みに良く合うと踏んでいる。
麦酒と蜂蜜。喉に良いんだか悪いんだか。
それでも明日あたり、早速、試してみるつもりである。

759声 感覚の付け所

2010年01月28日

「目の付け所」
の事に付いて、友人、知人から言われる事がある。
流石に、面と向かって「悪い」とは言われないが、「良い」とも余り言われない。
「変わっている」と言われる事が、一番多い。
この場合の「目」と言うのは、狭義の意味で着眼点であるのだが、
私は広義の意味で、「感覚」と解釈している。
だから、「感覚の付け所」と言う方が、私なりに説明が付けやすい。
それが、「変わっている」と言うのである。
そう、目の付け所なんて、そんな大層な物差しを持って、物事を測る能力は、
私には皆無である。
目の付け所、すなわち着眼点と言うのは、その後の結果を見込んだ狙い。
だと思っている。
「株式売買で高配当を得た」
なんて人は、目の付け所が良いと言えるのだろう。
しかし私のは、「結果を見込んだ狙い」ってのが無い。
ただ、「感覚的」に目当てを決めて、行動しているだけ。
闇雲に切った舵の方向に、氷山があるかも、はたまた滝壺があるかも知れない。
その見当を付ける時は、いつも「感覚」に頼る。
なんだか、抽象的な内容になっているが、結果的にそうなっていると言う話である。
そう言えば、「ガチャポン」ってのがあるでしょ、
別名「ガチャガチャ」とも呼ばれている、店頭なんかでよく見かける機械。
100円玉を入れてレバーを回すと、玩具の入ったカプセルが出てくる、自動販売機。
アタリが中々出ず、回しても大半がハズレで、得体の知れないゴム人形の玩具やら、
子供だましで安普請な玩具が入っている。
子供時分、私はアレが好きだった。
小遣いを1,000円貰って、その日に10回、ガチャポンマシーンに注ぎ込んでしまった事もある。
目の付け所が良い人間は、少ない小遣いで非効率的な浪費はしないだろう。
しかし私は、「感覚」だけに頼って勝敗を決める、ガチャポンに魅かれた。
その頃から、無意識に、目の付け所でなはく、感覚の付け所を重視していたのだろう。
アタリでなくとも、「何か」良い玩具が出そうな空気を感じた時に、
ガチャポンのレバーを回す。
幸か不幸か、いや不幸の方に幾らか分があると思うが、
人生においての重要な岐路に立った時も、感覚的に決めている傾向がある。
その結果は未だ出ていないが、今の所、「変わっている」と言う事になっているようだ。

758声 饅頭男

2010年01月27日

今日は故あって、終日、「饅頭」の事について考えていた。
饅頭ってのは、文字通り、まんじゅうである。
日本での饅頭のルーツを遡ると二系統ある。
一つは宋の国から帰国した「聖一国師」が伝えたもので、1240(仁治元)年、
甘酒で発酵させた生地で作る、「酒素饅頭」。
もう一つは、その後100年の時を経て、1341(暦応4)年、
健仁寺の「竜山禅師」が、「林浄因」を伴って元の国より帰国して伝えた、
塩餡(小豆こし餡)を包んでから、膨張剤で膨らませた、「奈良饅頭」である。
どうして塩餡を包んだのかと言うと、この頃の日本では、仏教の戒律によって、
肉食が禁止されていたからである。
それによって、羊肉や豚肉の代わりに、塩餡が用いて創作された。
前者は後の「虎屋系の酒饅頭」となって、主に関西へ派生し、
群馬県の温泉場などでも多く見られる、「酒饅頭」もそれに当たる。
後者は、「塩瀬系の薬饅頭」として、主に関東へ派生して行った。
とまぁ、何だか堅苦しい説明文を突発的に書きたくなってしまった。
子供が親に、学校での一日の出来事を、息せき切って話すかの如く、
知り得た情報を吐露したい衝動に駆られたのだ。
この様に、饅頭の事を調べるあまり、私の脳みそは餡子にでもなってしまった心持である。
「アンパンマンVS饅頭男」
ってのが実現すれば、最大のライバルになるのではないだろうか。
今日はやはり、頭を縦割りにしたら、中から餡子がぎっしり出てくるのであろう。

757声 新湯は身の毒心の徳

2010年01月26日

1月26日の今日は、一番風呂の日。
と言うのは、私が今し方、思いつきで作った記念日。
「新湯は身の毒」と言う諺もあるくらいで、医学的見地から言えば、
一番風呂は体に悪い、良いう事になっている。
湯温も高く、塩素の刺激が強いので、体に悪いと言う訳だ。
人が入れば、その不純物で湯が馴染む。
なので、二番煎じの風呂の方が、適温、適質の湯になるのである。
しかし、路地裏の夕方。
銭湯の暖簾が掛かるのを、今や遅しと待ち構えている、常連さんの列。
そんな光景が、未だにある。
市井の家庭ではどうだろう。
「お父さんの後はヤダ」
なんて言う具合にごねて、一番風呂に入っている中・高校生が、
大勢いるのではなかろうか。
そんな時は、ごねるのでなく、この「新湯は身の毒」と言う諺をチラつかせてみる。
そうすれば、すんなりと、むしろ好意的に一番風呂が頂けるかもしれない。
私も、路地裏の一番風呂争奪戦に、幾度か参加した事がある。
誰もいない浴室を撮影する、と言う目的があったが、
やはり一番風呂にも入りたかったのである。
体に毒だろうが何だろうが、そこはかとなく心持が良いではないか、一番ってのは。
何だか、徳をした様な、徳がありそうな、縁起物の気配をそこに感じる。
もしも私が父親で、息子や娘に「新湯は身の毒」と言い包められそうになったら、
「良薬口に苦し」で、徹底抗戦の構えをとるつもりである。

756声 笑顔で行こう

2010年01月25日

終演を迎えてから一夜。
先程、実行委員長から、最終観客動員数の集計を終えて報告が来た。
その詳細は記載しないが、昼席、夜席合わせて、999席。
この結果は、群馬県民会館小ホール、昼、夜、2回公演を満席にしたと言える。
偶発的な話から、突発的に参加させて頂く事になった、今回のコンサート。
自らのおぼろげな人生を、ふと振り返って見れば、
一番の大舞台だったのではなかろうかと思う。
「そう言えばそうか」
と、間が抜けた思考回路の隣で、昨日の舞台上から見た光景が、
スライドショーで流れている。
脳内のスクリーンに映しだされる、どの写真も、会場の人たちの笑顔。
芝居屋らいぶヨロコンデの十八番に、「笑顔」と言う曲がある。
つまりは、昨日のコンサートで、一番最後に演奏した曲。
その歌詞のサビには、こうある。
かなしいことが いっぱいあっても
うれしいことも たまにあるから
やっぱり生きて ゆこうと思う
やっぱり笑顔で 生きてゆきたいね
読者諸氏の中で、昨日来てくれた人、ほんとにありがとう。

755声 小さな朝

2010年01月24日

現在、NHKテレビ「小さな旅」を見ている。
珈琲を飲みながら、見ている。
集合時間には、遅刻。
しかし、遅刻常習の私は、たじろがない。
良くない、性格である。
遅刻も依存するものだ。

754声 二人をなだめて

2010年01月23日

悩んでいる。
油断大敵、と思うあまりに、優柔不断。
つまりは決めかねている。
明日使うギターを、である。
思わせぶりな書き出しだが、明日、私の出番などは全体の3割程度。
しかし、その3割が重要だったりする。
この「明日」ってのは、群馬県民会館小ホールで開催される、
「芝居屋らいぶヨロコンデ」のコンサート。
古い馴染みのオンボロギターにするか。
それとも、長い事ギターケースの中で眠らせておいた、ベテランギターにするか。
悩んでいるが、とどのつまりが、ギターなど道具ではないか。
道具として、使い勝手の良い方を選べば良いだけではないか。
なんだ、こんな簡単な事だったのか。
と、割り切れないのが、悪い癖。
そんな事ばかりに気を取られて、当日の進行が頭に入っていなかったりする。
この決着を明朝まで延期すると、これは完全に遅刻すると言う最悪のシナリオである。
「どっちにするか、決めなさいよ」
目の前に並んで立っているギターに、問い詰められている。
そのギターの名は、ジャズマスターとテレキャスター。
やはり私は、なんとか二人をなだめて、寝てしまうと言う腹を、決め込むとする。

753声 金曜日には花を

2010年01月22日

今日は金曜日。
つまり、「花金」である。
「はなきん」なんて私語を、墓場から掘り起こして使ってみたのだが、
どうにもやはり、花金なんて言葉を使う風潮は、現代の巷に無い。
その昔は、金曜日に花があった。
なんて書くと、「お前はいくつだ」と突っ込まれてしまいそうだが、
実体験としてそう感じている。
金曜の夜と言えば、街にも華があったものである。
記憶の根は芋づる式に繋がっていて、次々に思い出す。
そう言えば、金曜夜7時半には、「はなきんデータランド」なるテレビ番組を見ていた。
今頷いている読者諸氏は、若くない筈。
確か、「ミュージックステーション」の前に放映していた番組で、桂文珍さんが司会だった。
私は未だ小学生、中学生時分だったが、あの華やかな番組セットを見つつ、
明日に控える土曜日と、魅惑的な日曜日の待ち遠しさを噛み締めていた。
金曜日には、浮き立つような足取りで、学校から通学路を帰ったものだった。
年齢の為か世相の為か、あるいは懐具合の為か、金曜日と言えど、
感慨は薄くなってしまった。
街に出掛ける回数も、めっきり減ってしまった。
雪崩式に金曜日を転げ落ち、はっ、と気付けば土曜日の朝。
と言う具合だから、土曜日だって、満足な過ごし方が出来ない。
金曜日。
少しは、自ら摘んできた花を添えてみようかと思う。
そうすれば、私の週末が幾らかでも華やぐかも知れない。

752声 飛び級で御林住

2010年01月21日

「えーっ」
と先日も、驚かれてしまった。
年齢の話、なのである。
銭湯や俳句のイメージが影響しているのだろうが、
にしたって、少々、上に見られる事が多い。
「私、てっきり、少しお兄さんかと…」
と、30代前半の女性。
「いや、ずっと、30代後半くらいかと思ってたわ」
これは、40代後半の男性。
「確かに、20代後半です」
息巻いているのは、私。
五木寛之さんの「林住期」ではないが、古代インドでは人生を四つに分類すると言う。
学生期、家住期、林住期、遊行期が、それである。
学生期(がくしょうき)は、生まれてから24歳まで、家住期(かじゅうきは25から49歳、
林住期(りんじゅうき)は50歳から74歳、そして、遊行期は、75から90歳となる。
そして、この林住期には、社会的な務めを終え、輝かしい「第三の人生」が待っている。
と言う事になっているらしい。
家住期に入ったばかりの私ではあるが、
こうもことごとく年齢を上の見られるならば、早く林住期に行きたい心持である。
いっそ事、家住期は飛ばしてしまって、飛び級で事を進めたい。
そんな事を考えているから、いけない。
どうやら、学生期での道を誤った感がある。

751声 中将湯とバスクリン

2010年01月20日

「バスクリン」
で有名な、ツムラライフサイエンス株式会社がその社名を、
「株式会社バスクリン」に変更するらしい。
今年の6月に開催予定の定時株主総会以降なので、9月1日付での変更となる。
勿論、私も子供時分から、バスクリンは良く使っていた。
「森の香り」などを入れると、湯が緑色に染まり、はしゃいでいたのを記憶している。
大人になってからは、吝嗇根性を出して、規定量よりも少なめにして、使っていた。
このバスクリンってのは、その歴史を遡れば、日本初の入浴剤なのである。
入浴剤の元祖と言う訳だ。
1897(明治30)年、当時の社名で津村順天堂、が発売したのが、
「くすり湯浴剤中将湯」。
これは家庭用と言うよりは、銭湯向けの入浴剤として商品化されたらしい。
その後、この商品から、芳香浴剤「バスクリン」が生まれ、
高度成長期の内風呂付住宅の普及により、家庭用入浴剤として、飛躍的に浸透する。
元は、銭湯への誘客を見込む為の入浴剤が、今は、銭湯へ向かう客足を、
留める効果を生んでしまっている。
時代の移ろいは、ときに皮肉な結果を生む。
私も銭湯を巡るようになって、この「中将湯」の看板を目にした事がある。
中将姫と言うお姫さまが描かれた、華やかで豪奢な看板であった。
そして、発売から100年以上経った現在でも、現役で使用されているのだ。
今日は大寒。
この真冬、久しぶりに、バスクリンであったまろうと、思い立った。
のだが、気温、小春日和で温かいんでやんの。

750声 ツイッターとハサミは使いよう

2010年01月19日

最近よく見かける、「Twitter」と言う用語。
「ツイッター」と読むらしい。
最近では、今年の1日から内閣総理大臣である鳩山首相が、
ユーザー登録して利用を開始した事でも知られている。
そして先程、ニュースを見ていたら、今月18日、地震に見舞われたハイチの支援のため、
米赤十字社の本部を訪れた際、このツイッターを利用したとの事。
まずそもそも、このツイッターってのが、どう言うシステムであるか。
私は知らない。
システムか、ってぐらいだから、一応、新手のコミュニケーション・サービス。
ってな事は分かる。
ウィキペディアから引くと、つまりは、140文字以内で投稿する、
ブログとチャットを足して2で割ったようなシステムを持つもの、らしい。
ユーザーたちが、「つぶやき(ツイート)」を投稿するから、ツイッター。
確かに、機能を見れば素晴らしいと思う。
これが、災害時おける非難情報の提供など、リスク回避の面で活躍してくれれば良い。
しかし、反面、私には疑心暗鬼の感がある。
何だか「つぶやき」ってのは、リスクを誘発する気がしてならない。
日常生活で、余り良い事はつぶやいてない気がする。
むしろ、不平不満、つまり「ぼやき」の方が圧倒的に多い。
規制が無ければ、そんなぼやきが、サイト上に充満してしまうのではないだろうか。
思春期の学生などは、そう言う事に感覚的に敏感なので、
むしろこれを避けて通る気がする。
裏を返せば、大人が鈍感になっていると言える。
偉そうに書いている、私も。

749声 因果鷹揚

2010年01月18日

どうしてこうなったのだろうか。
因果が絡まりあっていて、解きほぐしてから、改めて考える気にもなれない。
こうなったらもう、この因果を鷹揚に受け止めるべきである。
ともあれ、大舞台なのだ。
来週、1月24日の県民会館小ホール。
芝居屋らいぶ「ヨロコンデ」のコンサートに、参加する事になった。
参加するっても、ステージに上がる演者として、である。
私はエレキギターでの参加で、勿論、脇役である。
脇役ながら、非常に、僭越かつ恐縮している。
しかし私は、もう、やらねばならないのだ。
やらなければ、来てくれる人の心は打てない。
もしもの時は、どうするか。
懐に忍ばせてある、脇差を抜いて懐紙で包み、逆手に持って一気に、腹。
読者諸氏、介錯を願い出るならば、来週の日曜日、県民会館にて。

748声 ひとこえリズム

2010年01月17日

役に立つ、事だってある。
毎日、こうやって一文の得にもならぬ文章を書いていも、である。
このサイト以外に、文章を書かねばならない時と言う事が、少ないながらある。
その媒体は、大きく分けて、紙かインターネットになる。
そんな時、書くテーマにもよるが、テストでヤマが当たった時の如く、
完成度はともかくとして、スルリ、と左程苦も無く書ける時がある。
「ひとこえの賜物」
だと思う。
毎日、こうやって更新している作業が、知らずに文章修業になっており、
自らの力になっていたのである。
しかし、その文字量と言えば、概ね400字〜800字くらいなので、
原稿用紙に換算すれば、1、2枚。
その1、2枚のリズムが、どうやら体に染み付いてしまっているようなのだ。
例えば、文字数を原稿用紙で5枚、つまり2,000文字の文章を書くとする。
そうすると、目測を誤ってしまう事が、多い。
1,500文字で終わってしまったり、2,500文字を超えても終わらなかったり。
リズムが掴めない。
掴めていないか、元からリズム感が悪いか、どちらかである。