残暑厳しい日が続いている。Web句会の選を済ませ、別のWeb句会の投句をした。このところ、またWebの句会の出番が多くなってしまった。今週末にもひとつ句会の締め切りがあり、これを書いていて思い出した。こちらの句会は兼題がある。たしか、残暑と花火。残暑はまさに、さて花火は。庭で線香花火でもやってみようか。
2022年08月10日
残暑厳しい日が続いている。Web句会の選を済ませ、別のWeb句会の投句をした。このところ、またWebの句会の出番が多くなってしまった。今週末にもひとつ句会の締め切りがあり、これを書いていて思い出した。こちらの句会は兼題がある。たしか、残暑と花火。残暑はまさに、さて花火は。庭で線香花火でもやってみようか。
2022年08月09日
先月、坂口さんが5194声で「めんたいパーク群馬」と「新ラグジュアリー」のことを取り上げていた。実は、ということもないのだが、近場のめんたいパークには行ったことがある、すなわち、伊豆と大洗と群馬である。坂口さんは、「めんたいパークに行けば、明太子について学ぶことができるのだろうか。」と書いていたが、これができるのである。それぞれのパークには「工業見学」や「つぶつぶランド」という、学びについてのコンテンツというかアトラクションがあるので、ちょっと勉強になる。それぞれ特徴があるのだが、一番舌を巻いたのが「かわいい」ということである。外観、内観はもちろんのこと、徹底してポップで徹底してかわいいのである。明太子というと、どちらかと言えば大人向けの食品であり、酒のアテなんていう印象が濃い。それを払拭するかのように、テーマパーク性を重視して「子どもが喜ぶ」ということに全振りした施設であった。もちろん、大人が行っても、食欲や購買意欲を大いにくすぐられる。めんたいパークの影響か、この頃はプリっとした明太子を見ると、めんたいパークのマスコットキャラクター「タラピヨ」がチラつき、かわいいと感じるようになってしまった。もうすぐお盆休みという方も多いはずである。ぜひ、足を運んで体感してほしい。
2022年08月08日
夏バテ気味ということを、起床時の倦怠感で痛感しつつも、どうにか一日の終わりまでたどり着くと、ついつい缶麦酒に手が伸びてしまい、飲みすぎ、また同じことの繰り返しである。こんなことではいかん、と昨日は朝から散歩に出かけた。吟行がてら少し汗をかいて健康を取り戻そうという思いで歩いていると、野辺の無人野菜販売所に枝豆やらトマトなどが並んでいた。夏バテには夏野菜ということで、いくつか買って帰路についた。台所で水に浸して気が付いたのだが、これはこれで、麦酒を飲まずにはいられない。こうなると、冷やしトマトと枝豆で一杯やることに向って、一日が動き出す始末である。
2022年08月07日
これから、写真をプリントアウトしに出かけなければならない。或る会報に私の顔写真を載せるので、写真が一葉必要なのだと、連絡をもらった。メールにデータを添付して送信、とはいかず、現物が必要なのである。俳句の世界ではしばしばあることで、先方のE-mallアドレスが分かればそれで解決なのだが、郷に入っては、ということで、先方の申しつけに従うことにしている。ところで、先月は七夕があり、私はやはり芭蕉の句、もそうなのだが、その頃は『サラダ記念日』(俵万智著)も思い浮かぶ。久しぶりに書架から抜いてぱらぱらやっていると、次の一首が目に留まった。〈書き終えて切手を貼ればたちまちに返事を待って時流れ出す〉そうなのだ、こういう細やかなコミュニケーションの心の機微にこそ、詩歌の発露があるのだ。以前に、堀澤さんがここで書いていた文章の中で、この頃はなんでも「判断が早い」と書いていた気がする。たしかに、日々、丁寧なコミュニケーションができているだろうかと、書き終えての一首からいささか反省に似た気持ちさえ覚えた。「コミュ障」なんて言葉も良く聞く。相手の心に向けてコミュニケーションできているのか、これは、自分に向けて言っている。
2022年08月06日
曇りがちで暑さ和らぐ日だった。日中、信号待ちをしていたら、直ぐ脇の幹に甲虫がいた。何の気なしに角を持ち、べりべりと幹から剥がしてまじまじ見ると、全く動かない。すでに絶命しているのだと、そこで気が付いた。甲虫をまた元の幹に戻して、青信号を渡った。
2022年08月05日
四十。私の年齢なのだが、こう書くとじわじわと恐ろしくなってくる。思えば、このWEBサイトに携わったときは確か二十代後半だったので、まさか中年になっても相変わらずここで文章を綴っていることなど、全く想像していなかった。そして、じみじみ高齢化してきたと感じている。しかし、この「めっかった群馬」自体の構造は変わっていない(古いコンテンツばかりで恐縮だが)ので、深夜にPCの画面を見ていると、現在と過去がおぼろげになってくるような感覚がある。話は逸れるが、このWEBサイトは「WordPress」というソフトウェアで運営されている。バージョンアップなどしていないが、いまでも問題なく動いている。そして、素人ながら現在でもWEBでは普及しているソフトウェアであろうと思うが、他のサブスクリプションのサービスがあふれる中、いささかならず相当、時代に遅れている感じがする。そして、それでも良いというか、そんなことがあまり気にならない。それは、自身が時代に遅れているせいもあろうかと思うが、このブログというかコンテンツが、その本質だけはかろうじて見失っていないからと、自負できるからかもしれない。本質などと、偉そうに書いているが、こういうWEBサイトのコンテンツはやはり、更新されていないと、途端に古びる。年齢やコンテンツの古さとは関係なく、更新をやめた時点で、古びるのである。ささいなことでも、日々一歩一歩更新しているというところが大切である。それは、波風のある日々の中でとても難しいことで、半分、怠惰な自分自身に向けてこれを書いている。
2022年08月04日
昨日から降り続いている雨の影響で、山形県の最上川流域を中心に河川が氾濫している。車や橋などが押し流されている報道の映像が痛ましい。少し前は「ゲリラ豪雨」いまは、それを引き起こす原因が「線状降水帯」にあるということで、新聞でよく目にする。私の住んでいるところにも少し行けば江戸川、近所には真間川があり、昔はよく水が出たと聞く。それを鑑みて、やや高台に住んでいるのだが、大雨の後はすぐ裏の梨畑から川のように水が流入してきて狭庭が水没してしまう。防災というのは一筋縄ではいかない。
2022年08月03日
坂口さんに加わっていただいたことによって、この「鶴のひとこえ」も、ぐっと詩歌の成分が濃くなった。麦酒の成分も濃い、どうりで私には居心地が良いわけである。類は友を呼ぶというか、友は類を呼ぶというか。昨今のなかなか大手を振って帰郷できないような状況になってみると、このコーナーで私以外の執筆陣の文章から垣間見る群馬情報の断片が、煌めいて見える。
2022年08月02日
「吟行」をしている。どこかに出かけて詩歌をつくることだが、この炎天下でも、おそよ「逍遥」などと程遠い形相になりつつ、そこらをほっつき歩いて地べたの蟻などを眺めている。私よりも何倍も蟻の方が働いているなぁ、などと手にもっているコーラをすこしおすそ分けしたり。効率の悪い取り組み方だとは思う。冷房の効いた部屋で団扇を仰ぎつつ歳時記をめくっていれば良いのだ。しかし、先週のことであるが、午後からの定例の句会の前に、地元の商店街を吟行していた。奥へ進むにつれ、すれ違うのは何やら浴衣の人が多くなってきたと思ったら、小さな鎮守で祭が開催されていた。この日の情報は事前にGoogleなどで調べていたが、全くヒットしなかった。もろもろ考慮したであろう、主催である商店街の方々の苦労が垣間見える気がした。祭の様子は盛況で、ステージでは地元のバンドが演奏し、境内におさまりきらぬほど、ヨーヨー釣りに各種焼き物の屋台にと、コロナ前に戻ったような光景であった。人波に揉まれつつラムネ片手に句帳をめくる時間は至福であった。こういうことがあるから、吟行はやめられない。現実の五感を働かせた上での想像は、やはり貴重である。この数年、こんな当たり前の機会を失ってきたことは、改めて大きな損失と感じた。
2022年08月01日
坂口さんよりバトンを繋ぎます。今日から八月、ということはもう秋がすぐそこに来ているということである。暦上は七日が立秋だが、連日猛威を振るう日差しにそんな兆しは微塵も、なくはない。川沿いを歩けば川幅よりも高い草やら、木陰へ寄れば蝉の骸やら、確かに、秋の気配はなくはないと感じる。もう書くのも鬱陶しいが、日差しだけでなく流行病の猛威もとどまることを知らず、パンデミックな日常である。先月の初旬あたりまでは、句会の後に酒場の暖簾をくぐることもあったが、すこしの間はばかられるようになってしまった。もっとも、私などが行くのは煙の立ち込めるマッチ箱を横にしたような店であるので、なおさらである。しかし、そういう店の便所の隣の薄暗い席で冷めた焼き鳥を突きつつ、俳句の話などをするのも悪くない、というかそういうのが好きなのだと、しみじみ。
2022年07月31日
酔うて寝ん撫子咲ける石の上 松尾芭蕉
今日も暑かったが、夕方からの大雨で、少し過ごしやすくなった。
7月の最終日、本日の芭蕉の一句は鶴のひとこえに相応しそうなので紹介したい。
「納涼」の前書がある一句。
酔った勢いで、河原撫子(かわらなでしこ)の咲く河原の石の上で寝転び、涼をとりたい、ほどの意か。
今日のような夕立のときに酔って河原は危険だとおもうが、明日からも暑くなるとのことなので、芭蕉の句のような納涼気分で乗り切りたい。
明日からは、抜井さんです。
2022年07月30日
本日は、町内の山車の打ち合わせとお囃子練習の準備があった。お囃子の練習も、山車まつりの本番もPCR検査をして臨むこととなる。
ウィズコロナ。随分前から言われていたが、そろそろ「なんでも中止」から、思考を変えていなかくてはいけないのかもしれない。
しかし、もう少し科学的な報道をしてくれないかな、とおもう。人数だけを速報するのは、もはやどうなのか。たとえば、死亡率の変化、重症者の年齢、重症者のワクチン接種の回数、重症者のワクチン接種の時期・・・、平均寿命が伸びていることの考察など、いくらでも分析できそうなのだが。
山車の打ち合わせ中、今話題のゲストも見えて、一緒に準備をしていただいた。大変な中、よく来ていただけたとおもう。少しでも気分転換になったらとおもう。
文脈を無視して言葉の一部を切りとって騒ぎたてる人がいるのは、いつの時代も変わらない。現在は、映像が簡単に加工できるようになったので、余計に気を使わなくてはならない。
まあ、本来は、気をつかうというより、何事にも真摯な心で向きあうということが大事なのだとおもう。とくに弱い立場におかれた人のことに普段から思いをよせていたなら、それらの人が傷つくようなことばは口からは出てこない。影響力ある人は、特にそうであるが、想像力を働かせなくてはいけない。自分でまいた種は自分で刈るしかない。
しかし、チャンスはピンチの中にある、ともいう。飛躍の機会にしてほしい。
2022年07月29日
甘楽町に「めんたいパーク」ができて、そこの「鬼盛り!めんたい丼」を食べた人の話を聞いた。
美味しいけど、一年分の明太子を一食でとったような感覚だそうだ。
めんたいパークには工場も併設されていて、つくりたての明太子が購入できるらしい。
明太子の原料は、スケトウダラの卵子。スケトウダラは、アラスカやロシアや北海道で水揚げされる。博多明太子の原料となるスケトウダラも同じだ。
ちなみに、博多でつくったものだけを博多明太子と呼んでいいらしい。そりゃそうなのだが、なんだか仙台の牛タンに似て、それでいいのかともおもう。原料がなくても、技術があれば名産がつくれるということなのか。新ラグジュアリーの参考になるかもしれない。
まあ、そう名付けることで売上が上がるともおもえないが、めんたいパーク群馬でつくられた明太子は、甘楽明太子、または群馬明太子と呼ぶことができそうだ。かねふく製だけど。
めんたいパーク群馬のウェブサイトを少しのぞいてみたが、たしかにどこにも「博多」とは書いていない。ブランディングは意識していそうだ。
めんたいパークに行けば、明太子について学ぶことができるのだろうか。機会があれば訪ねてみたい。
2022年07月28日
今、『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済10の講義』という本を読んでいる。まだ、3講義目を読んでるところだが、いろいろな示唆に富んでいて、とても刺激をうけている。
例えば、最終消費材のイノベーションが目指すべきなのは、「大衆化」ではなく、「民主化」であるとか、「ラグジュアリーの反対は貧困ではなく、下品」であるということばだけでも刺激的だ。
読んでいて、ラグジュアリーは、「粋」に似ているなとおもった。ただし、ラグジュアリーはマーケティングと結びついて理論化されているところが、粋とは違う。粋を理論的に語ったものには、九鬼周造の『粋の構造』があるが、マーケティングの文脈では語られていない。もっと本質について語っており、むしろ「新」ラグジュアリーは、粋の構造を検討することによって拓けるような予感を持って、読んでいる。
さて、どうなりますか。
2022年07月27日
昨日は、兼題『秋刀魚』が実態を先取りし過ぎていて、俳句がつくりにくいという話を書いた。
本日は、逆の話をしたい。
ここ数日、枝豆をたくさん食べている。枝豆といえば、ビール。ビールといえば枝豆、というイメージだが、実は枝豆は秋の季題だ。麦酒(ビール)は夏の季題。ややこしい。枝豆は、実態が季語を先取りしているパターンだ。
結社の兼題、枝豆ならよかったのに、と、おもう。
ということで、俳句はおもいつかないので、昔つくった枝豆の都々逸でも。
・都々逸
枝豆は 秋の季語だと いわれてみても
真夏にビールと 食べてたい 喰粋
2022年07月26日
1週間ほど前、豊洲市場の初サンマのニュースを見た。
卸値は、1キロ12万円とのことで、過去最高値を2年ぶりに更新した。不漁の影響だという。一匹あたり1万3,200円とのこと。
落語、『目黒のさんま』では、下魚ゆえ将軍様の口には入らなかったサンマだが、この値段ではもはや下魚ではなく、高級魚、将軍様の魚である。
サンマの話を書いたのは、所属している俳句の会の提出兼題が「秋刀魚」のためだ。俳句の結社を、わたしは他に知らないので、確かなことはいえないのだが、俳句をやる人は、季節を先取りする傾向があるようにおもう。
わたしは、『客観写生』とかでは、ほぼ俳句をつくれないので、構わないといえば構わないのだが。
それでも、あまりに先取りの兼題だと気分がのらない。写生を意識して詠むこともあまりないのだが、今年のさんまの匂いもかがずには、流石に俳句も浮かんで来ない。とはいっても、提出句をつくらねばならない。ということで。
今はむかし殿垂涎のさんまかな
下魚とはなんぞや高値の初さんま
庶民には秋刀魚は冷凍に限る
あえて命名すれぱ、当季妄想詠といったところか、いや、ちょっと違うか。
2022年07月25日
本日、7月25日は、(725 な・つ・ご)で「夏氷」、ということで「かき氷の日」だそうです。
匙なめて童たのしも夏氷 山口誓子
角川の歳時記には、「氷水)の傍題として、「かき氷」「夏氷」などが載っている。夏氷の句でも考えて、この暑さを乗り切りたい。
2022年07月24日
先日、芥川賞が発表になりましたね。(おとといかな?)
芥川龍之介仏大暑かな 久保田万太郎
さて、昨日は、羊羹の歴史みたいなことを書いてたら、肝心の小城羊羹のについて書くことができなかった。
切ようかん、昔ようかん、断ちようかんと呼ばれる羊羹は、表面がシャリシャリしている。これは、羊羹に含まれる水分をなるべく少なくし、日持ちすることを狙っているため、表面が糖化するためだ。
わたしが密かに「シャリ系」と呼ぶこれらの羊羹は、全国に点在するが、なぜか小城にある羊羹屋にはほぼある。「小城羊羹」と検索すれば、上位には必ず、シャリ系がならぶ。
現在は、包装技術(パッケージ技術)の発達のおかげで、表面を糖化させなくても日持ちさせることができるようになった。すると、わざわざ表面を糖化させ、シャリシャリさせることなく日持ちがし、現代人の好みの柔らかさをもキープできる練羊羹のアルミパッケージが発明されていて、市場を席巻した。しかし、小城ではなぜか昔ながらの羊羹をつくり続けているところが多い。
シャリ系の羊羹は、つくるのが面倒くさい。しかもアルミパッケージに比べると日持ちがしないなどの弱点がある。しかしながら、羊羹通の間では、シャリ系こそ羊羹という、共通認識があり、シャリ系の羊羹をみると、笑顔なる人を何人か知っている。そんな羊羹だ。
このシャリ系の羊羹、小城羊羹は、実は酒のあてとしても優秀である。好みにもよるので、ゴリ押しはできないが、甘党兼左党の人は試してほしい。ナチュールのワインのさっぱりしたものやシンキチ醸造所のビールには合うものが多いとおもう。
ところで、芥川龍之介は、甘党でした。隅田川の流れを羊羹に例えるくらい、甘いものが好きでした。この羊羹は、時代的にシャリ系だろう推察される。
本日、7月24日は、芥川龍之介の命日、俳句の世界では河童忌ともいう。
冒頭の万太郎の句、大胆でいいですね。
芥川龍之介と久保田万太郎は句仲間(連衆)でした。