日刊鶴のひとこえ

この鶴のひとこえは、「めっかった群馬」に携わる面々が、日刊(を目指す気持ち)で記事を更新致します。担当者は堀澤、岡安、すーさん、坂口、ぬくいです。この5人が月替わりで担当しています。令和8年度は4月(坂)5月(ぬ)6月(岡)7月(す)8月(堀)9月(坂)10月(ぬ)11月(岡)12月(す)1月(堀)2月(坂)3月(ぬ)の順です。

3714声 野のや

2016年03月14日

「六合ドキュメンタリー映画祭」の開催に向けてチラシさこさえてチラシ配りに回った。旧中之条町地域はtsumujiや伊参スタジオに。中之条町の商店の老舗とも言うべき「ちぎりいち」では外の壁に貼りだしもしていただいた(僕はこのちぎりいちの壁こそ、中之条町の一等な掲示板だと思っている)。

 

で、六合地域も回る。役場の六合支所に、赤岩の案内所。取材対象者のいる北端(と言ったらおこられるかな)の入山も。となれば昼飯はもう「野のや」の舞茸天ぷら蕎麦に決まっている。

 

平家の落人伝説の残る六合。野のやのおじさんはまさに平家の血を継ぐんじゃないかってくらいごっつくて、けれど打つ蕎麦は細く繊細。自家栽培している大きな舞茸天ぷらもめちゃくちゃうまい。この入山地区は野反湖でも行かない限り足を運ぶことも少ないと思うのだが、高崎市内からもわざわざここの蕎麦を食べに来る人がいるくらいなのだ。

 

飲食店にとって良い立地は繁盛に欠かせない条件だ。けれど、とことんうまいものを出せば、人は山の中だろうが海の端だろうが通うのだ。おすすめの店です。

3713声 ドンピシャの湯

2016年03月13日

温泉が好きだ。

 

草津温泉にも四万温泉にも近く、物心ついた頃から月に2度は親と温泉に通っていた。温泉がそばにあることが自然だった。若いころはそれをどうとも思わなかったけど、今思えば贅沢なことだったと思う。

好きな温泉は人それぞれ。小野上温泉が好きだからと、中之条からあしげに通う人もいるし、沢渡の共同浴場と四万の清流の湯をかわりばんこに入る人もいる。僕はこのあたりじゃ小野上温泉が好き。

 

けれど、泉質だけではなく、自分好みの温度で、まさにドンピシャという時がある。同じ温泉で同じ時間に行ってもそのドンピシャに巡り合えるとは限らない。もう数えられない位温泉に入った僕だって・・その決定的な瞬間は2度しかない。

 

1度目は今は移転してしまった川原湯温泉の昔の王湯。移転するまでにも4回くらいしか行かなかったけど、その3回目あたりがドンピシャなお湯だった。そして2度目は四万温泉の積善館の元禄の湯。昭和モダンな見た目に圧倒される日常使いとは違うリッチな温泉だけど、その4回目くらいかな、もういつまでも入っていたい位のドンピシャが訪れた。

 

ドンピシャなお湯ってのは、もう全身が隈なく気持ち良いのだ。溜まっていた疲れやストレスがフワ―っと外に流れ出していき、変わりにジワジワと滋味深い熱量が適度に体を染みわたっていく。多分、温度が0.5度ずれても駄目。そういう経験は、100回に1回くらいかもしれないな。皆さんはそういうことありませんか?俺だけ?

 

ドンピシャの湯を求めて、我は行く。

3712声 ふとした瞬間

2016年03月12日

3月11日だったからというわけではないけど。

 

昨日の朝。花粉でチーンと鼻をかんでいると、「お前は鼻をかむのが下手だなぁ。片方ずつしっかりかめ」とよく父に言われていたことを思い出した。細かいことを叱る父でもなかったけど、鼻チーンだけはしつこいくらい言われた。

 

昨日の夜。新聞社への配達が終わり玄関口で、昔同い年の新聞記者に「子ども撮るならどんなビデオカメラかな。岡安くん教えてよ」と相談されたことを思い出した。家庭用でも画質は充分、手振れ補正も業務用より効くから安いやつでいんじゃねー、とたわいもない話をしたっけ。

 

彼らはもういない。でも僕は鼻をかむ度に、新聞社の玄関口に立つ度に、彼らの事を思い出すのだろう。そして彼らに頼まれたわけでもないのにその度に、頑張んなきゃな、と思う。

 

5年という節目だからではなく、日常の中のふとした瞬間に、亡き人のことを思い出すのだと思う。そして、人ひとりは案外弱くて、背負ったものの重さが、その人の強さになるんじゃないのかな。たいして知っているわけじゃないけど。

2711声 郷土に生かされる

2016年03月11日

今日は誰しもがあの日のことを思ったことだろう。
東日本大震災から5年。早いのか、遅いのか。

 

震災から2~3年は僕が知り合った方も吾妻に残っていたが、
今では知った人はみな、故郷や故郷のほうへ戻っていった。

 

僕が今でも忘れられないのは「はれのひ食堂」という催し。
震災により避難してきた方と僕ら県内の支援者がチームとなり、
福島県南相馬市の郷土料理を作った。
このめっかった群馬の堀澤さんは主力として参加、
南相馬のお母さんたちと共に、美味しい料理を作り上げていった。

 

湯気までおいしいほっき飯。さくさく美味なカスベ(エイひれ)唐揚げ。
5年たった今でも思い出せる味。
各々の大変さも経て、だからなおさら美味しかった気もするが。

 

堀澤さんが確か「震災により故郷から遠く引き離されても、
こうして郷土の味で心豊かになることができる。つまりは、
郷土に生かされている」的なことを言っていた記憶がある。

 

故郷に戻った人の中にはもしかしたら、ごく単純に、でも深く、
「またあれを食べたい」という理由の人もいたんじゃないだろうか。

2710声 いわびつレシピ

2016年03月10日

NHK大河ドラマ「真田丸」人気で、僕の会社がある東吾妻町の岩櫃山は例年の倍以上の人が訪れている・・らしい。その人気は僕の仕事にも関係しており、東吾妻町が立ち上げた真田丸関連サイトのコンテンツ作りを担当している。

 

その中のいちコーナーに「いわびつレシピ」という料理に関するコンテンツを作る。東吾妻町では生産が多いトマトやナスを使った料理レシピコンテストを開催したことがあり、その大賞作品である「いわびつ汁」が面白いものだから、それを掲載しようと思ったのがきっかけだ。(ちなみに、いわびつ汁はコクを出すために豆乳を投入します)

 

せっかくなので、他に郷土料理的なものを入れようと思い立ち、先日「おっきりこみ」を作る現場を取材してきた。今回の「いわびつレシピ」は、写真や文章だけではなく、作り方を動画でわかりやすく伝える事が肝となっている。この日の作り手は食育推進のおばさま達。ただ黙々と粉をこねるはずもなく、おしゃべりも絶え間ない。けれどそれも味として撮影した。

 

我が家では祖母がうどんをこねていた記憶があるが、聞くとわりと多くの家々でおっきりこみやうどんをこねていた、現役でこねているらしい。「たまに食べたくなるんだよね」と、慣れた手つきでトントントンと生地を切っていく。撮影が終われば試食時間、とても美味しかった。人の手間がかかった料理はごちそうである。年々そう思うようになった。

 

大河ドラマ「真田丸」東吾妻町公式サイト
http://iwabitsu-sanadamaru.com/

2709声 Netflix

2016年03月09日

めっかった群馬の読者でいてくださる皆さんが、どのような方々なのかは実際は良くわからないのだけれど、Netflixのような動画サービスをバリバリと使いこなす方はあまりいないんじゃないかと良い意味で?思っている。

 

Netflixは、huluなどと並び、月額低料金で国内外の映画やドラマが見られる動画サービスだ。パソコンだけではなく、スマフォや、機材を買えばテレビでも視聴ができて、「そのうちレンタルショップはなくなってしまうんじゃないか?」的に会員数を増やしているような勢いがある。

 

映画が人一倍好きなくせに、電車に乗ってる時は小さなスマホ画面じゃなくて向かいの席でいびきをかいて眠っているおっさんの顔を見た方が良いんじゃないか?と変な対抗心を抱く僕だけど、Netflixの月額650円プランに加入していて、たまに動画を見ている。

 

近年映画を観る機会が減ったのは、「2時間自由に使える」という時間を作れないと思い込んでいるからだ。映画を切れ切れに観る習慣はないのだが、「入浴中や寝る前にスマホでNetflixのドラマを観る」程度であれば敷居が低いことに気付いた。このサービスでしか観られないヒーローものの『デアデビル』や、ドキュメンタリーとドラマを融合させた『山田孝之の東京都北区赤羽』はこのやり方で全て観た。

 

どんな事にも共通だけど、使う人の分別がつけば、取り入れて良いものはある。

2708声 design

2016年03月08日

デザインって何だ?

 

10年前くらいには、まさか自分がチラシやパンフレットの所謂デザインという仕事をするとは思ってもいなかった。もとは中之条町のtsumujiで店を任されていた時に「パソコン1台でできる仕事」と独学で始めたものだったが、吾妻にそれほどそういう人がいなかったおかげか、ありがたいことに今では個人事業や町関連のチラシや広告を作らせていただいている。

 

ところが、このデザインってやつはとても奥が深い。ただ目立つようにレイアウトする、文字が読まれるようにきれいに入れ込む、だけではなく、本質的なものを抽出し伝える、見た人に豊かなイメージを連想させる、といった目的も含まれるし、さらに言えば「ただのモノのデザインではなく、そのモノを通してどういう人がどう周囲と関わりどう流通させていくか」といったモノや人や地域の流れまでも加味して考える、という領域まで含めて「デザイン」と呼べたりもする。むしろモノ多き今の時代は後者の意が外せない気がする。

 

自分にそれができるかと言えばまだまだなのだけれど、先日嬉しいことにパンフレットを担当している高崎の「BIOSK」が、渋谷ヒカリエで行われたD&DEPARTMENT PROJECTのd47 MUSEUM「食の活動プロジェクト」(舌噛みそう)の群馬代表に選ばれた。これは、各都道府県からひとつ「食をテーマにただ商品が良いだけではなく、その商品がいかに地域や世の中の状況と良い関係を持っているか」という基準で店や活動を選ぶというもの。「BIOSK」は、種を採取し植えてを繰り返す固定種の野菜作りや、その野菜を使ってのソースや菓子などの商品化など、6次産業っぷりが評価されてのノミネートだった。

 

ちょうど用事があって立ち寄ったヒカリエには、栃木の「ココ・ファーム」や千葉の「寺田本家」のような「ザ・いい仕組みでいい仕事してます!」という企業の間に「BIOSK」の商品が並んでいた。嬉しかった。

 

僕は多分、他の人以上に「自分のため」に生きてきてしまったタイプだと思うが、ようやく近年になって「人のために自分がそっと手を添えて押し出せるものは何だろう?」と考えるようになった。デザインは、奥が深い。

2707声 デイ・ドリーム・ビリーバー

2016年03月07日

今やすっかりセブンイレブンの歌になってしまったが、忌野清志郎がカバーし日本語の歌詞をつけた「デイ・ドリーム・ビリーバー」という曲が好きだ。その時代に聞いたわけではないけれど、忌野清志郎のライブは1度観ることができて、なんだろう、直に観ておいて良かったと思っている。

 

朝のラジオでダイアモンドユカイが「「デイ・ドリーム・ビリーバー」は清志郎さんが亡くなった母を想って書いた曲なんですけどね」と話していた。清志郎さんは母が亡くなった際に、母だと思っていた人は実は母の姉で、実際の母は彼が3歳の時に死んでしまっていた、ということを聞かされたらしい。

 

ずっと夢を見て安心してた
僕はデイ・ドリーム・ビリーバー
そんで彼女はクイーン

 

この歌を聞いて僕はずっと「別れた彼女の事を歌った歌」だと思っていた。まあ歌は聞いた人がどう解釈しても自由なものだと思うし、別れた彼女にしろ母親にしろ、男は所詮女性の手のひらの中にある、ということでは同じという気もする。

2706声 六合ドキュメンタリー映画祭

2016年03月06日

あなたは六合(くに)を知っていますか?

 

6年前、中之条町と六合村が合併し、今の中之条町となった。中之条ビエンナーレをきっかけに暮坂峠を越えて六合を訪れるようになり、山ひとつ越えただけでこれだけ土地柄も人柄も違うのかと驚いた。六合には、昔から脈々と続く山里の暮らしが今も息づいていた。

 

観光で訪れるだけでも、野反湖やチャツボミゴケ公園などの自然があり、入山の「野のや」や「くれさか」の蕎麦は、県外から食べに来る人もいるくらい、うまい。しかし、六合もまた少子高齢化と言われる地域である。仕事も限られており、住むにはそれ相当の覚悟もいるのだろう。だけどまたしかし、僕が知っている六合の人たちは、自分が六合に住むことに誇りを持ち、なにやら自信を持っている人が多い。「ある程度のことが起きても自分で生きていけるんだぜ」というような。

 

一昨年、昨年と、僕も通った日本映画大学(当時は日本映画学校)の学生たちが、六合に10日ほど滞在し、六合に暮らす人々を主人公に9本の短編ドキュメンタリーを作った。3/19-20、それらを集めた「六合ドキュメンタリー映画祭」を開催できる運びとなった。言いたいことは原稿用紙3枚くらいあるが、「地に根ざし生きていくとはどういうことか」を考えることができる素晴らしい作品群だと思っている。19は六合入山、20は花の駅美野原。ぜひお越しいただきたい。

 

「六合ドキュメンタリー映画祭」

https://www.facebook.com/events/516395111876230/

2705声 勝頼様は来てくれませんでしたが、みな様は来て下さい

2016年03月05日

岩櫃城おもてなしの乱〜密岩神社の陣〜

 

何がなんだかよくわからない名前とも思う。ようは、「NHK大河ドラマ「真田丸」人気に乗っかって、真田昌幸や信繁が過ごしたとされる岩櫃城があった東吾妻町を盛り上げよう。岩櫃城址を残す岩櫃山が一番良く見える場所、密岩神社にて、観光で訪れる人や地元の町民たちをお茶や甲冑コスプレ体験などでおもてなしするぞ!」という試みである。地元ボランティアと東吾妻町役場の有志が毎週末の土日・祝日に無料でおもてなしをしており、僕もスタッフの1人に加わっている。

 

密岩神社はJR吾妻線・郷原駅の北にあり、町内の人でも知らない人がいそうな場所。岩櫃山登山で人が多いのは群馬原町駅から登っていった平沢登山口で、密岩神社がある方はどちらかといえばマイナーな場所なのだ。そんな場所でおもてなしと言っても人が来るのかな・・と半信半疑だったのだが・・やはり「真田ブーム」なのだろうか。僕が顏を出す日も町外や県外から観光客がちらほらではあるが来てくれた。

 

来た人と話しをしていても面白いが、良いのは人が集まることにより地元のお年寄りの方などが喜んでくれることと、おもてなしをする側のボランティアスタッフの仲がとても良いこと。「人が集まる場所がある」ってのは、大事なことなんだね。

 

「真田丸」をご覧になった方なら記憶にあると思うが、武田勝頼は、真田昌幸からの誘いを受けてもここ岩櫃城へ来ることはなく自害してしまった。このおもてなしの乱のキャッチコピーは、「勝頼様は来てくれませんでしたが、みな様は来て下さい!」である。ここから見る岩櫃山は絶景なので、土日・祝日の10~15時限定の開催ではあるが、お近くに来た際にはぜひお茶しに寄ってください。

2704声 百円の恋

2016年03月04日

僕はもう長いこと中之条町の「伊参スタジオ映画祭」のスタッフをしている。近年は上映後の対談司会も務めるようになった。

 

昨年の映画祭では、玉村出身の大崎章監督『お盆の弟』を上映した。これは、群馬に住む売れない監督と脚本家の冴えない日々を描いたもので、上映後の対談には大崎監督と、この作品の脚本家である足立紳さんをゲストに招いた。勘の良い方ならすぐにわかると思うが、この「売れない監督と脚本家」という設定は、大崎監督と足立さんの実人生がフルに活かされているのだという。

 

「映画なんかに夢見ないで、自分の人生を生きなさいよ」みたいなセリフで、主人公が奥さんから罵られるシーンがある。会場には明日を夢見る若手監督たちもいるので、彼らにとってもまさに刀で切られるくらいに痛いシーンだ。そして奥さんから三くだり半を突きつけられるシーンは、脚本の足立さんの本当の話なのだという。一見すれば悲惨でしかない現実を、素晴らしい映画に昇華させたお二人には、スタンディングオベーションを送りたい。

 

・・・などと思っていたら3月4日の今日、その脚本家・足立紳さんは、安藤サクラさん主演の『百円の恋』により、日本アカデミー賞最優秀脚本賞を獲ってしまった。脚本界におけるシンデレラストーリー?いやいや、長年にわたる苦渋の成果だと思う。そんな足立さんは最近、小説家デビューも果たした。題名は「乳房に蚊」。働き者の恐妻と、自意識だけが高い無職の夫の話らしい。・・・素晴らしいではないか。

 

 

2703声 会いにいく

2016年03月03日

長年お世話になっている築地の仲卸の社長から、仕事のお礼として多量の「手巻きずし用の魚」をいただいた。中之条の友人夫婦に連絡したところ、「3月3日は子ども用にちらし寿司を作ろうと思っていた」と言うではないか。久しぶりにこのタイミングで会っておきたい気もしたので、お魚持参でおじゃました。友人宅ではまだ幼い子どものために、酢飯や海苔、薄焼き卵で作ったお内裏様とお雛様が作られていた。キュウリで作られたしゃくと、人参で作られた扇がかわいらしい。子どもは、キャッキャキャッキャと喜んでいた。

 

「会おうと思った人には会った方がいい」。最近、そんなことをよく考えるようになった。いつでも会えるからなどと思っていると、時間だけが過ぎる。

 

若い時は「誰かと一緒じゃないと駄目」という時期もあった。そんな時期は、会って楽しいことはあっても、しんどいことが同等かそれ以上にあった。年をとり、「自分一人でもある程度大丈夫」と思えるようになってからは、人と会うことが楽しくなった。さらに年をとればまた孤独を欲するようになるのかもしれないが、しばらくは、会おうと思った人には会いにいこうと思っている。

2702声 路地

2016年03月02日

先日、高崎の友人夫婦の家におよばれして泊まらせてもらった。

翌朝、彼らが住む家を出て4人で、細い河川づたいに小さな路地を歩いた。

 

河川には鴨がのんびり浮かんでいて、川が一段階低くなる場所まで流されると急に羽をバタつかせ飛んでいった。そのあたりは、趣のある古い建物も多く、ここは〇〇さんが住んでいるんだよ、と教えてもらった家はいい具合にくたびれた感じで格好良かった。大きな道路に出て、登った歩道橋からは遠くの山が見渡せた。外塀はそのままに家だけが取り壊され、そこがまるっと畑になっている場所もあった。作付けの並びがきれいで、この畑の主人はずいぶんマメな人なんだろうなと思った。ポケットには200円位しかなくて、けれど見つけた豆腐屋では小さな厚揚げが6個位買えて、そのまま手づかみでみんなで食べ歩いた。1時間位の散歩だったろうか。

 

10日に1度は、車で通る地域だった。でもやはり見えていたものは、ごくごく一部だった。

2701声 徴は至る所に

2016年03月01日

4年に1度のうるう年が終わり3月。中之条町からこんにちは。岡安です。

 

抜井さん、2か月という中距離走、お疲れさまでした。顔も合わせずに言うのも何ですが、正月に元気かつ実に社会的な?抜井さんの様子を見て、その昔勝手に抱いていたイメージ、つまりは「ああこの人はいつか酒と言葉と孤独を浴び過ぎて、部屋の片隅から動けなくなるんじゃないかしら」という風にはならないんだなと、残念・・安心しました。

 

前回の投稿では確か、1日1本映画について書くという酔狂なことをした記憶があります。今日のタイトル「徴(しるし)は至る所に」もまた、ジャン=リュック・ゴダールという、名前に=が入ってしまうほど小難しい映画監督の言葉なのですが、僕の解釈としては、「予兆はあちこちにあるんだよ~見逃すなよ~」だと思っていて、それは大事なことだと思っているわけです。

 

ありがたいことに、ここ数年忙しく毎日が過ぎていきます。それは=たくさんのことを・見落としている、ことだとも思うのです。だから今月は、至る所にあると思われる徴を探す一ヶ月にしたいと思います。花粉もしんどい季節ですが、お付き合いください。

2700声 梅の頃

2016年02月29日

明日より、私から岡安氏にバトンタッチと相成ります。

今は、中之条でも梅が綺麗な時期でしょうね。

連載中に桜も咲くでしょう。

二ヶ月間お付き合い頂き、ありがとうございました。

それでは、また。(ぬ)

2699声 俳句以前~俳句ingの発足から現在まで~(第4回)

2016年02月28日

一度参加した句会で、ノウハウをそれこそ盗人のようにくすねてきた私は、
早速、ワルノリ俳句ingに導入した。
歳時記を購入し、五七五にも季語を入れ、即席なれど俳句会と名乗れるくらいの会に仕立て上げたのである。
反面、参加者は減少の一途をたどったが、最盛期には十人を越す参加者で上野を吟行したり、
群馬県各所での吟行譚を新聞の地方版に掲載してもらったこともある。
今思えば、朝からローカル線に揺られ、夜まで俳句を作るなど、本当に贅沢な吟行であったと思う。

 

その後、様々な変遷を経て、私はすっかり「俳句」に執心してしまったし、俳句ingの際、
堀澤氏は今でも「ワルノリ俳句」を作っている。
「ワルノリ」と言うのも俳句に対する姿勢が良くなかろう(当初はそこが眼目でもあったが)
と言うことで、今では「新春俳句ing」と言う名称で、年に一回、参加者も片手で納まるくらいの、
こじんまりとした規模で開催している。
名こそ変われど、内容は発足時から変わらず、電車と言葉とお酒で遊ぼうと言う、会である。
それが、「酸いも甘いも噛み分けてきた大人のための」遊びになっているかどうかは分らぬが、
当時よりは大人になったことは確かである。
来年でワルノリ俳句ing発足から十年の節目である。
今年は、当時のように缶麦酒片手に群馬のローカル線に揺られ、土地の赤提灯で句会などできればと考えている。
来年十年目を迎えるに当たり、俳句に触れた頃の暢気な時代を振り返ってみた次第である。

 

2698声 俳句以前~俳句ingの発足から現在まで~(第3回)

2016年02月27日

誰か一人俳人を招いて教えを請えばすむ話だが、当然、こんな怪しげかつ酔狂な会に、
参加しようなどと言う酔狂な俳人もおらず、疑問は払拭できぬまま、回を重ねていた。
私が俳句を始めたという話が、知人づてにゆるやかに伝わって行き、ついに私は、
俳人の集う「句会」なるところにもぐりこむ機会を得たのである。

 

始めて参加した句会は、主催の俳人宅で有志数名が夜な夜な集まって開いているものであった。
晩秋の夜、案内役の知人を乗せ、私は子持山の麓まで車を走らせた。
到着したのは見晴らしの良い丘の上の家で、迎えてくれた家主が、今の私の俳句の師となろうとは、
このときはまだ露とも思わなかった。
その時分の私は、俳句に真剣に取り組もうなどと言う志も無く、ただ「輸入」のことのみ頭にあったので、
ともかく「句会」の手順を習得すべく目を光らせていた。
家主は炬燵に入って一升瓶からどんどん日本酒を注いでいる。
傍らで、参加者は一言も発せず、黙々と句を案じている。
張り詰める場の空気に気圧されつつも、私はどうにかこうにか、頭の中ででっちあげて体裁だけ整えた、
つまらぬ句をそろえて出した覚えがある。
そして、もちろん佳句など作れなかったが、俳句の生まれる現場を体感できた充実感は覚えている。
その夜、真剣に参加していた人には、お茶に濁しの私などが紛れ込んでいて迷惑をかけたが、
その数年後、自身がこの家に足繁く通うことになろうとは、これまた露ほどにも、であった。

 

第4回へ続く

2697声 俳句以前~俳句ingの発足から現在まで~(第2回)

2016年02月26日

思えば、自身の俳句歴を公称2010年と記載しているが、これを勘定すれば2007年
ということになる。
この三年間を抜いたのは、先の表明にも有るとおり、それが「俳句」でも「川柳」
でもないと判断したためである。そして、こんがらがった様々な糸からするりと
俳句の糸を手繰りよせられた、つまりは、一応の目指すべき俳句の道のようなも
のを歩き始めたのが、2010年ごろなのである。
それはまた、私から「ワルノリ」の部分が消えてゆくことにもなったのだが。

 

さて、ワルノリ俳句ingに参加した若き日の私は、朝から缶麦酒片手に電車に乗り、
五七五を詠んでいるが、これは果たして「俳句」と呼べるのかと感じ、その感は、
回を重ねるにつれ、強く心に取り付いた。
横を見れば、堀澤氏は何食わぬ顔でスルメをしゃぶりつつ缶麦酒を飲んでいる。
ここは電車の中である。
さっきまで近くに居た女子高生は、するりと隣の車両に退散して行ったではないか。
俳句には「季語」なるものが必要だが、参加者の誰一人として「歳時記」を持参
していないではないか。(それは九年を経た現在でも変わらぬ状況だが)
俳句の入門書を読んで一応「句会」のやり方は頭に入れたものの、それが合ってい
るのか、確かめようも無い。
そんな、たまりつつあるもやもやを払拭すべく、私はこのワルノリ俳句ingに、
俳句の「輸入」を試みたのである。

 

第3回へ続く