日刊鶴のひとこえ

この鶴のひとこえは、「めっかった群馬」に携わる面々が、日刊(を目指す気持ち)で記事を更新致します。担当者は堀澤、岡安、すーさん、坂口、ぬくいです。この5人が月替わりで担当しています。令和6年度は4月(ぬ)5月(岡)6月(す)7月(堀)8月(坂)9月(ぬ)10月(岡)11月(す)12月(堀)1月(坂)2月(ぬ)3月(岡)の順です。

927声 マッコリの去り際

2010年07月15日

先日更新された「名店のしきたり」の第26回。
今回の名店は、伊勢崎市の「韓国居酒屋J」である。
私も、記事の筆者に何度か連れて行ってもらった事があり、
本文にもあるような韓国家庭料理を堪能した。
その中、私の持つ印象を、新しく塗り替えた酒があった。
マッコリ、である。
マッコリは、飲んだ事が無いでもない。
この酒とは、その程度の付き合い方だった。
焼き肉や韓国居酒屋へ大勢で行って、誰かが頼めば飲む。
自ら進んで注文した記憶はない。
しかし、この店の自家製のマッコリは、美味かった。
マッコリってのは、韓国の大衆酒。
酒類で言えば醸造酒で、まぁ日本で言うどぶろくに似ている。
醸造酒なので、当然、酵母でアルコール発酵させて、そのまま飲む。
マッコリの場合は、雑菌の繁殖を抑える為に乳酸発酵させる。
なので、一見、強そうな酒に見えるが、アルコール度数が麦酒程度に弱く、
ほのかに酸味があるので、口当たりがとても良い。
のったりと白濁した液面を見ると、ヤクルトでカルピスを割ったような感がある。
美味い事は、確かに美味いのだが、印象を新しくしたのは、その残り方、なのである。
酒が残るってぇと、当然、碌な事が無い。
あるのは、二日酔いと自己嫌悪ぐらい。
そこがこのマッコリは、違った。
「明日苦しむ覚悟」を決めた。
と言いたい所だが、現実は酒と状況に押し流され、
次々に杯を重ねていたこの日は、日曜の夜であった。
麦酒を飲んでマッコリを飲んで、また、麦酒を飲んでと言う始末。
千鳥足で終列車へ潜り込んで、明朝、驚いた。
予想に反して軽い。
体が、である。
つまり、マッコリが残っていないのだ。
あのアヤシゲな白濁からは想像し得ない、見事な去り際。
蒸留酒の焼酎やウイスキーだと、その液面はスッキリと澄んでいるが、
去り際がなんともよろしくない。
いつまでも、居座って、昨夜の復讐に精を出す。
酒と人は、見た目で判断できない所がある。
などと、格言めいた締め括りをしようと思ったが、止めて、蛇足する。
もしかしたら、韓国料理とマッコリの相性が良かったのかもしれないと、
書きながら思った。
そう言えば、唐辛子や発酵食品が多い韓国料理は、
いかにも新陳代謝が活性化しそうである。

926声 人に食あり物語あり

2010年07月14日

私は食事に関して冒険しない性質である。
つまり、食に関する好奇心が薄いのだろうが、通っている食堂などへ行っても、
一度これと決めると、何年も同じ品物を注文をする。
食堂の大将に、「いつものね」なんて言われるタイプである。
相反して、好奇心旺盛な人も、勿論いる。
そう言う人と一緒に食堂などへ行き、メニューに変わった品を見つけると、
即決で「じゃあ、食べてみよう」と言う事になる。
私の身近では、ほのじ氏が、職業柄と言う事もあろうが、まさにそのタイプ。
俳句ingなどで訪れた、見知らぬ土地の一見居酒屋で、
メニューから何やら得体の知れぬ料理を見つけ出す。
(いつぞやは、ダチョウの刺身だったかタタキだったか)
すると、即座に店員を呼び、喜々とした眼差しで注文している光景を、
何度となく見た。
先日、そんな、食に暗い私が読んでも、とても面白く感じた食の本があった。
嵐山光三郎氏の『文人悪食』(新潮社刊)である。
漱石、鴎外から池波、三島まで、日本文学史に名を成した37名の文士たちの食卓事情、
ことにその「悪食」ぶりが、氏によって軽妙に描かれている。
アイスクリームとビスケットが好物の漱石。
饅頭をご飯の上に乗せて、煎茶をかけて食べるのが好きな鴎外。
群馬県に縁のある作家で言えば、ウイスキーをサカナに睡眠薬を常用していた安吾も、
「とも食い」と称してアンコウ鍋を好んで食べていた。
そして、洋食好きで知られる朔太郎も、東京の借家を転々としながら、
毎晩、酔っ払っては終列車に転がり込む毎日を送っていていた。
そんな折、夜中にただ独りで食う、母が作った握り飯の味に、悲哀を感じていたのだ。
文人の作家生活の中で「食」を照射する事により、有名文学作品が持つ、
裏舞台を見事に浮かび上がらせている。
元雑誌編集者であった氏は、壇一雄の担当編集者であり、
多くの文士と直に付き合っているので、内容も深く貴重なものが多い。
やはり、昨今「文豪」なんて言われる方々には、
その私生活にも、常人とは異なる「食物語」があるようだ。

925声 カンカン帽の娘

2010年07月13日

今日、勤めの帰りにショッピングセンターへ寄った。
この「センター」ってのはもう旧時代的で、巷では「モール」ってな事を言う。
今時のショッピングモールとやらは、何しろ入っているテナントの数が多い。
店内のパンフレットにて、確認すると、およそ170店舗らしい。
住み慣れた町で、私が地図を必要とするのは、この店内だけである。
ようやく、目当ての店を探し出して、足を止めた。
ここは帽子屋である。
手頃な「カンカン帽」を求めてやって来た。
今時は、そう昨年辺りから、若い女性の間で、このカンカン帽が、
爆発的な流行になっている模様。
雑誌を見ても巷を見ても、猫も杓子も、カンカン帽の娘だらけである。
然るに、この帽子屋で手ぐすね引いている若い女性店員も、被っているのである、
カンカン帽を。
そんな状況なので、どうにも邪推してしまう。
店員との噛み合わぬ会話を、である。
「こんにちは、今日はどんな帽子をお探しですか」
「へい、えぇ、カンカン帽を、ひとつ」
「カンカン帽ですね、こちらの品物などは、今夏流行の〜」
なんて言って、この店員が手にしているのは、明らかに女性用のカンカン帽。
「あぁ、いえ、プレゼント用ではなく、自分の、カンカン帽なのですが」
「えっ、お客様の、カンカン帽ですかぁ」
と言いつつ、訝しむ眼光を浴びて、たじろいでいる、自分。
そんな会話及び状況に怯えつつ、店員の目をかいくぐって、
店内の隅でこそこそと帽子を物色。
すると、商品陳列棚の上に、男性用と思しきカンカン帽がひとつ。
値札は、福沢諭吉に気を持った程度の価格。
「けっこう値が張るな」
などと、考えていたら、案の定、悪魔の囁き。
「こんにちは、何かお探しですか」
ギクリと狼狽しつつ、直ぐ前に陳列してある、洒落た中折れ帽子を手に取って答弁。
「えぇ、まぁ、良い帽子があれば」
「そうですか、良かったら、試してみて下さい」
差し出された鏡で、その帽子を被った自分の顔を映して見ると、
これがまた、似合わねぇでやんの。
「うぅん、まぁ、すこし、あれですな、そうかそうか」
煙に巻いて、そそくさと逃げ帰って来た始末。

924声 遊鄰座の大活辯上映会

2010年07月12日

昨日は桐生市で開催された、大活辯上映会へ行って来た。
主催は、遊鄰座で「活弁」実行委員会。
会場は、有鄰館の煉瓦蔵。
有鄰館に足を踏み入れるのは、この日が初めてだった。
蔵内の雰囲気に、成程、各種イベントスケジュールが数ケ月先まで埋まっている、
人気スポットたる所以を理解させられた。
チラホラ、立ち見が出る程の盛況ぶり。
演目は、澤田正二朗の国定忠次、ハロルド・ロイドの豪勇ロイド、
阪東妻三郎の坂本竜馬。
勿論、三本とも白黒の無声映画で、私は観た事がなかった。
それもその筈、前の2つは大正時代、最後の坂本龍馬でさえ、昭和3年の作品である。
活動写真弁士(活弁士)を務めるのは、
麻生八咫(あそう・やた)子八咫(こやた)親子。
映写するのは、桐生和紙を貼って作った大型スクリーン。
この味のあるスクリーンに映し出される映像に向かって、「語る」のである。
あらすじ、セリフ、効果音の全てを人力で映像に合わせるのだが、
その臨場感たるや、現代映画を凌ぐが如し。
弁士が語る事により、映像が見えなくとも楽しめる。
そう、録音で聞く落語みたいに。
「チントンシャン」
このオツな音色は、地元桐生の「山茶花の会」の方々が三味線と尺八で奏でるお囃子。
スクリーン一杯に映し出されるのは、ギラリと愛刀の小松五郎義兼を抜く国定忠次。
そこに響くのは、弁士の朗々とした語り。
「赤城の山も今宵を限り〜」
これを聞くと、生粋の桐生人は血が滾るのだろう。
私の隣に座っているおばちゃん、固く拳を握りながら、映像に喰い付いている。

923声 信州の香

2010年07月11日

台風一過を思わせる、夏空。
思い立って、午後3時。
向かったのは、北高崎駅。
部活帰りの高校生に紛れて、乗り込んだ電車は、信越線。
碓氷川沿いに広がる、水田と町。
その中、彼方の妙義山へ向かって進んで行く。
およそ30分走ると、列車は終点の横川駅へ到着。
ドアが開いて、一歩。
碓氷峠から吹き来る風は、そこはかとなく、信州の香。

922声 夜空の煌めき

2010年07月10日

昨夜の大雨暴風警報発令下に、自転車を漕いでいた。
雨はそうでもないが、手に負えないのは風。
まるで台風の如き暴風雨であった。
合羽を着ていなったので、目的地へ着くまでに、大分、濡れてしまった。
用事を済ませて帰る頃、雨はしとしと。
雨の日は、高崎中央銀座のようなガード商店街に批難する酔客が多い。
その為、昨夜も随分と人出があり、一時、かつての繁華が戻ってきたようであった。
そうこうするうちに雨もすっかり上がり、台風一過の様な清々しい夜空が現れた。
去り際に連れて行ってしまったのだろうか、どこを見ても月の姿が見当たらない。
繁華街から遠ざかるにつれ、星も瞬きを増してくる。
漕ぎ疲れて空を見上げれば、目の前に夏の星座がある。
空気も入れ替わった様に清浄で、自転車でのろのろと走行するのが、
とても心地好い。
榛名山と赤城山を隔てる町へ、灯りの無い郊外の夜道を北上して行く。
西の空に、強い輝きが一瞬。
あれは、流れ星。
それとも、電線から垂れ落ちて煌めいた、雨水一滴。

921声 味噌胡瓜

2010年07月09日

今日、行きつけの食堂のおばさんに、胡瓜を沢山頂いた。
何でも、プランターで自家栽培しているらしい。
成程、定食に付いてくる、茄子と胡瓜の糠漬けの味が、絶品であった。
早速、自宅へ持って帰って、水で洗いし、一本かじってみた。
味が、極めて濃厚である。
量販店で袋詰めして売っている胡瓜とは、やはり一線を画す。
こちらの方は、見た目から言って、野性感に溢れている。
その形は、捻り曲がっている無骨な頑固者と言った印象である。
コイツは畳の上で死ぬようなたまではあるまいと、
塩を擦り込んでバリバリと、手掴みで丸かじりした。
そう言えば2、3年前。
飛騨高山を訪れた際に、露店で売っている胡瓜を食べた。
その露店は、味噌蔵の実演販売。
買った胡瓜に名物の赤味噌を塗り付けて、丸かじりにする。
真夏の炎天の下、水で晒した胡瓜と赤味噌の味は、これまた、格別だった。
格別なのだが、赤味噌を塗った胡瓜の見た目と言うのは、どうにも解せないものがある。
味噌をどう塗っても、一向に美味そうな見た目に仕上がらない。
味噌を塗ったくられた胡瓜も、あの時ばかりは、
どこか恥ずかさの裏に、そこはかとない悲しさが見え隠れしていた。

920声 ネラレマセンカクマデハ

2010年07月08日

夜半に寝床でうとうとしていると、
何処からともなく、
声が聞こえる。
ネラレマセンカクマデハ
のそのそと寝床から這い出して、
パソコンの前に、
突っ伏している。
急かすんじゃねぇやい。
扇風機の分際で。

919声 不況に和音

2010年07月07日

終日、バルサンをたいたような、曇天。
判然としない雲間から、太陽の気配だけが見え隠れしていたのだが、
日が傾いてからは、俄雨。
お陰で幾分か、風が涼しくなった。
最近、週に一、二度は三味線を触るようにしている。
触る、ったって、膝の上でただ撫でまわしているだけでなく、
ちゃんと撥で弾いてみたりする。
この三味線、年末に買ったのだが、まず何三味線なのか、未だに判別がつかない。
津軽か民謡か、然るべき本やネットで調べれば、一目で分かると思うのだが、
それも何だか億劫で、中々実行に移せない。
それでも、東さわりが付いていて、胴が津軽ほど大きくないので、
民謡三味線かと踏んでいるのだが、一向に確信が持てない。
そんな、まさに今日の空模様の如き状態なので、現在使用している撥も、
リサイクルショップで購入した、得体の知れぬ木製の撥。
そのアヤシゲな組み合わせが、判然としない三味線を、
さらにおぼろげな状態にしている。
私は、なまじギターが弾けるので、三味線を軽視している。
つまりは、「直ぐ弾けるだろう」とタカをくくっているのだ。
そう言う気持ちが、現在のおぼろげな状態に起因しているのだろう。
それでも、弾く。
出鱈目に音を合わせ、
出鱈目に三味線を抱きかかえ、
出鱈目に撥で弾く。
音は、
そりゃもう、
滅茶苦茶、
酷いものである。
それでも、弾く。
それでも、
出鱈目に、
それでも、弾く。
今月の幾日だったかに、小さな演芸会がある。
それに出演する為の、練習。
形式やら教則やらを、一から放擲して三味線を弾いたらどう言う事になるか。
その惨状を観客にぶちまけてやろう、と言う企みを、密かに胸中に秘め、
当日を迎えようと思っていた。
しかし、今は、その企み、そしてこの三味線さえも放擲して、寝床に寝転んでいる。

918声 砕け散った流れ星の物語

2010年07月06日

明日は七夕である。
七夕は明日なのだから、明日この内容を書けばよいものだが、
思い付いてしまったので、今日書く。
一年前の今時分、伊勢崎市の相川考古館で行われた、川柳会に参加した。
うろ覚えだが、席を囲んだのは、私を含め12、3名。
しかし、最優秀賞に選ばれた川柳だけは、鮮明に記憶している。
天の川渡り切れずに流れ星
なるほど、仄かにメランコリックな香り漂う、口当たりの良い川柳だと思う。
川柳としての善し悪しは、会の当事者が決める事なので、
この期に及んで言及するまでも無い。
問題は作者である。
作者は、Iさんと言う男性。
私よりも年嵩は随分と上の方だが、数年前から親しく付き合わせて頂いている。
と言っても、私がIさんと会うのは、十中八九、どこかの酒席である。
そして、酒席でのIさんに、私はいつも感心する。
それは、要望の貫徹だけを試みているからなのである。
その為、徹頭徹尾、女性を口説くのである。
私は未だかつて、Iさんが女性に対する悪口を聞いた事が無い。
反面、同性に対する悪口は、悪口に留まらず、罵詈雑言である。
それも、サラリと器用に川柳を詠む人だから、言葉の刺を絶妙に抜いている。
だから、座を心地よく沸かせるのが上手い。
先日も、とある酒席で久しぶりにご一緒したが、男などには目もくれていない。
しかし私は、Iさんと会うと、一緒に杯を重ねる事が多い。
「あんたはべつ」
と言う、何だか複雑な心境になる言葉を頂戴しているからだ。
その結末はと言うと、千鳥足で、街の闇に独り消え行くIさん。
と言った具合である。
先日も、酣になった酒席。
私は帰りがけに、空のジョッキ片手に、ぽつねんと虚空を見つめながら、
座っているIさんの姿を見た。
天の川を渡り切れない流れ星は、何の事は無い、自分だったのだ。
年に一度、天の川の橋を渡って逢う、織姫と彦星よりも、砕け散った流れ星の物語を、
私は読みたい気がする。

917声 喝采と野次

2010年07月05日

夜半、外ではしっとりと雨が降っている。
薄い雨蛙の声と共に、迷い込んで来た夜風が、時折、カーテンを揺らす。
こんな宵は、一刻も早くこれを書き終えて、
読みかけの長編小説の世界に潜り込みたいのだが、毎度、そうは問屋が卸さない。
その為、毎晩厨房に入って、一仕事。
生活体験の断片を、幾つか見繕って鍋に入れ、煮詰めて行く。
時に煮詰め過ぎて、あるいは、煮詰める具材が少な過ぎてか、鍋に焦げつく。
その、おこげをガリガリと、ヘラでもってこそげ落とし、皿に盛り付ける。
今日の皿。
盛られたおこげをよく見ると、「917声」と書いてある。
夜を打つ雨蛙の声滔々と
喝采だろか
それとも野次か

916声 怠惰極まり

2010年07月04日

快晴。
とまではいかないが、良く晴れた一日だった。
梅雨なので、空にはチラホラ、怪しげな雲の残党が漂っている。
しかしながら、雲間から注ぐ薄日が山の輪郭を際立たせ、
吹く風に、雨上がりのような透明感を感じる。
窓から見える、榛名山。
山間にたなびく靄が西日に照らされ、幽玄な雰囲気を醸し出している。
その眩い濃淡は、どこか水墨画のような印象。
寝てる間に汗をかく為か、夏は二日酔いに陥る割合が低い気がする。
今朝も、昨夜の深酒にも関わらず、二日酔いにはなっていない。
しかし、如何ともしがたい、倦怠感。
調子に乗っていた自らの抜け殻が、背中にしがみ付いているかのようである。
「よし、午前中はオマエにくれてやる」
昨夜のツケを払う意味を込めて、この抜け殻が消えて無くなる事を願いつつ、
静かに午前中は寝ている事にした。
午後になっても、抜け殻が居座り、そうこうしている間に日暮れ。
寝床の文庫本を読み終えて、やっとこ本格的に起床。
そして今、窓から榛名山を眺めつつ、独り黄昏ていると言う、怠惰極まりない次第。
極まって、そしてまた、冷蔵庫から、始まりの一缶。

915声 紫靴下

2010年07月03日

昨日、首都圏に出る所用があったので、早朝、高崎駅から新幹線に乗った。
これが丁度、巷の通勤ラッシュと重なってしまい、駅構内は背広と学生服の洪水。
揉みくちゃになりつつ、新幹線口の改札を抜けると、
在来線口とは打って変わって、人も疎ら。
一足先にお盆がやって来たかの如く、穏やかに閑散としている。
もっとも、お盆休みの時は逆に、在来線よりも新幹線の方が満席と言う状況も多々ある。
平日のこの時間帯。
新幹線の乗客の大半は、新潟、あるいは群馬から、首都圏へ通勤だろう。
毎朝、田圃の畦道を、車でのろのろと通勤している身としては、
いささか羨ましく思える。
今、私の通路を挟んだ隣の列、一番奥の席に座った、背広の男性。
歳の頃、40がらみと思しき、サラリーマン。
暗色に薄いストライプ、その細身の洒落たスーツが、いかにも「都会の男」風である。
組んだ足の先から垣間見える、派手な紫色の靴下。
その先に付いている、焼き過ぎたコッペパンを思わせる細い革靴が、
忙しなく微動を続けている。
彼の全身からは、どこか怜悧な、都会の雰囲気が醸し出されていた。
この紫靴下男。
徐に背広のポケットから取り出したのは、iPhone。
やはり、都会に生きる者は時代の先端を求める。
などと思っていたら、今度は茶の革鞄を、ごそごそ。
次に、テーブルの上に取り出したのは、何とも旧時代的で無骨なCDウォークマン。
慣れた手つきでイヤホンを装着し、聞き始めたのである。
彼の一連の動作を横目で見つつ、胸中、咄嗟につっ込んでしまった。
「iPhoneで聞けよ」
紛れも無く、携帯音楽プレーヤーとしては、
CDウォークマンを凌ぐ機能を備えている、iPhone。
何故、そのiPhoneで聞かないのか。
CDウォークマンに、深い思い入れがあるのだろうか。
はたまた、聞く音楽が、英会話教材や自作楽曲作品等の、特殊なものであろうか。
まさか、使い方を知らない。
いやいや、この紫靴下に限ってそんな本末転倒な事は…。
思いは巡り、新幹線は駆ける。
窓の外。
流れる風景に目をやっているが、気になって仕様が無い。
慣れない行動は、いやはや、疲れる。

914声 状況偽装

2010年07月02日

私は人の為に装ったのです。
3,4年前、東京は下町の路地をほっつき歩いていた時の事。
一寸歩き疲れ、往来の脇で何をするでもなく、独りぽつねんと突っ立って、休んでいた。
そこに丁度、小さなタウンバスが来て、私の前で停車するではないか。
開かれたドア、その先に見えるのは、無愛想な運転手の顔。
窓越しの客席から一斉に、猜疑的な眼差しが、
呆気に取られている私の間抜け顔に向けられる。
気が付いた時には、状況が既に瀬戸際。
横目で見ると、直ぐ横に立っている電信柱の影に、バス停。
「あっ、すいまんせん」
と一言、言えばこの状況を打破できる。
しかし惜しむらくは、そんな公明正大な心を、私は持ち合わせていなかった。
刹那に私の思考回路が神経に伝達した命令は、この状況の偽装であったのだ。
努めて取り澄ました表情で乗り込み、この行き先も分からぬバスは、また発車した。
数分後、行く予定も無い浅草で、闇雲にバスを降りた。
波の如く押し寄せる疲労感に、深いため息ひとつ。

913声 客に塩を送る

2010年07月01日

夏だから。
なのだろうか。
行きつけのうどん屋のつゆの味付けが、
いささか濃くなったように感じる。
その店は、立ち食いではないのだが、限りなく立ち食いに近しい店舗で、
カウンターの他、机が二つ置いてある座敷だけの、小さなうどん屋である。
平日客の大半を、近所の勤め人が締めており、皆、その滞在時間は10分程度。
とにかく客の回転が速く、「安い早い美味い」を地で行く店で、
私はとても重宝している。
その店の味が、最近、濃い。
もっとも、私のおろぼろげなる味覚なので、信憑性は怪しいが、
濃いと断言しないと、話の根幹が揺るいでしまうので、濃いのである。
健康には、盛夏でも塩分を控えた方が良いと言うが、
やはり夏は、塩辛い物を体が要求している。
だから、その店の濃い味のうどんが、以前にも増して美味く感じる。
それには、私が田舎者だと言う理由も、起因しているのかも知れない。
夏とは言え、体には悪い。
分かっちゃいるが、その店の塩辛いうどんの味に、知らぬ間に依存しており、
足が向いてしまう。
塩の依存性にも、馬鹿に出来ない力がある。
「敵に塩を送る」ならぬ、「客に塩を送る」と言う、
賢明なる店主の夏期戦略かも知れぬ。

912声 過去からの手紙

2010年06月30日

タイムカプセル。
それを彷彿とさせるのは、古本である。
古本を買うと、時折、発売時に折り込まれていたチラシやリーフレットを、
そのまま頁に挟まった状態で発見する。
特に文庫本に多いのだが、後世、賞を獲って名を成す作家の新刊本の告知など、
興味深い内容が多く掲載されている。
その中、「読者アンケート」の葉書も、高い頻度で発見する。
先も一つ、手を伸ばした文庫本の頁に挟まっていた。
これが、とても懐古的で思わず、頁を捲る手を止めて、まじまじと観察してしまった。
まず表面、まだ郵便番号が3桁の時代。
次に裏面、記入方式がマークシートなのである。
だから、用紙全体が心持、黄ばんだ様に見えるのは、
経年劣化でなくマークシート用紙と言う事になる。
高校受験や、大学入試センター試験などで、幾度となくお目に掛かっていた、
そして、余り良き思い出の少ない、あの用紙。
この葉書、今は無き、旺文社文庫から出てきた物である。
文庫は無くなれど、現在、旺文社は元気に営業している。
よって、この葉書に切手を貼って投函すれば、
宛先の「旺文社書籍局愛読者カード係」に届く事になる。
その係が無くなっていても、確実に旺文社までは届くのだろう。
出版業界隆盛の時代。
旺文社文庫には、他社と一線を画す玄人向け志向が垣間見え、
廃刊になった現代でも、古本屋で見かければ、手に取る事が多い。
内田百?の旺文社文庫シリーズは、未だに私の憧れである。
鉛筆でマークシートを記入して、投函して見ようか。
などと、葉書を眺めていると、酔狂な考えが入道雲の如く、もりもり増幅する。
「過去からの手紙」
なんて、一寸、オツなものではないか。
もっとも、旺文社の担当係の方は、迷惑するだろうが。

911声 狂と向き合う

2010年06月29日

夕立が盛んに降ってくれたおかけで、窓から弱く吹き込む夜風にも、
ひんやりと冷気を感じるようになった。
これで、今宵は連日の熱帯夜から、束の間の解放を得るだろう。
現在時刻は午後11時30分。
サッカー・ワールドカップ日本対パラグアイ戦の真っ最中なので、
今宵の閲覧者は著しく減っているのだろう。
我が部屋のテレビにも、それが映っており、試合は前半戦。
両者の一進一退の攻防が続いている。
8強進出なるか否か。
運命の試合を控えた今日は、日本列島全国的に、興に乗っていた。
その中で私は、「興」ではなく「狂」の事を考えていた。
「興に乗る」
大辞林を引くと、こう書いてある。
「おもしろさに心が浮かれて何かをする。興に乗ずる。」
では、「狂に乗る」とは、どういう事なのか。
辞書にその意は無い。
それならば、自ら「狂に乗る」と言う言葉を解釈し定義するしかない。
何故、そんな事を考えているのか。
それは、狂に乗ろうかと企んでいるからである。
その為、自らの「狂」と向き合っているのだ。
もう少し煮詰つまったら、その企画、「クレインダンス情報」に告知するつもり。
テレビのサッカー、今、短いホイッスルの音。
前半戦を、双方無得点で折り返し、賽はまた、後半戦に投げられる。

910声 つゆの冷麦

2010年06月28日

サウナ。
と割り切れればまだ良いのだが、この部屋、高温多湿による不快感が甚だしい。
扇風機でなく、クーラーを電源を押せば、直ぐに快適な室温になる。
と言う短絡的な方法を実践してしまうと、今夏を過す体力が培われないような気がして、
暑さに耐えている。
梅雨の熱帯夜は、ほとほと、不快である。
ここはひとつ、冷たい麺でも手繰り込んで手軽に夕餉を済まそう。
と思い立ち、勤め帰りにスーパーで、乾麺の冷麦を買って帰った。
台所に立ち、早速、冷麦を茹でようと鍋と笊を用意した時点で、気が付いた。
「めんつゆが無い」
茹でたての麺に、生醤油をかけて食べるのは、いかにも讃岐流であるが、
今、袋を開けようとしているのは、安物の乾麺。
喜ばしくない結果が、容易に想像できる。
なので、めんつゆも拵える事にした。
よくよく考えてみれば、こちらの方が、喜ばしく結果を招く確率が高かったのだ。
まず、冷麦を茹でる。
鍋の中、沸騰した湯に一束入れたのだが、なんだか、想像よりも麺が太い。
菜箸で掴み上げると、素麺の倍くらいである。
3,4分茹でて笊に開け、水にさらして粗熱を取る。
次は、つゆを作る。
先程の鍋の中に、醤油、水、ほんだしを入れ、かき混ぜながらひと煮立したら、完成。
硝子の器に氷水。
その中に冷麦を泳がせる。
そこまでは問題無く料理が進行していたのだが、つゆも冷たい方が良かろうと思い、
温かいつゆの中に、氷をどかどか入れて冷やす。
それによって、冷たくはなったが、当然の如く、つゆが薄くなってしまった。
それを補う為、醤油をどばどば入れので、もう何だか、只の塩辛い醤油と言う具合である。
「ずるずる、ずるずる」
とやって見たが、美味くない。
結果、半分残した。