日刊鶴のひとこえ

この鶴のひとこえは、「めっかった群馬」に携わる面々が、日刊(を目指す気持ち)で記事を更新致します。担当者は堀澤、岡安、すーさん、坂口、ぬくいです。この5人が月替わりで担当しています。令和6年度は4月(ぬ)5月(岡)6月(す)7月(堀)8月(坂)9月(ぬ)10月(岡)11月(す)12月(堀)1月(坂)2月(ぬ)3月(岡)の順です。

775声 せめてごえん

2010年02月13日

チョコと念溶かす貴女は魔女と化す
そんな、恥ずかしく安直な韻を踏んで、一句創作したくなってしまう理由は、
明日のバレンタイン。
浮かれている人。
あるいは、我関せず、とは言うものの、内心は落ち込んでいる人。
その明暗が別れるのが、明日。
一定の年齢を越えると、自らの年中行事の中で、バレンタインの存在感が、
薄らぐものである。
しかしながら、年齢の所為ばかりではないのだろう。
チョコは貰えど、義理チョコばかり。
と言う、釈然としない心持になる人も、多い筈。
特に、ここ群馬県では、多く見られるのではないだろうか。
その理由は、「上毛かるた」の「ら」。
「雷と空風 義理人情」
県民性と理解し、コンビニで見掛けたようなそのチョコレートと一緒に、
煮え切らぬ気持ちを嚥下しちまうのが賢明である。
そう言えば、一昔前の今時期。
当時よく訪れていた、高崎市街の喫茶店。
勘定を払った私に、レジの娘が、渡した小さな紙袋。
紋切り型の礼をぼそぼそと述べて、そそくさと店を辞した。
往来に出て、慌てふためいて袋を開けると、中には、「チロルチョコ」が一個。
せめて、姉妹商品の「ごえんがあるよ」と言う、通称「五円チョコ」と呼ばれている、
あのチョコの方が…。
とは言いつつも、チョコをシャツの胸ポケットに入れ、軽やかに、スキップ。

774声 それぞれの更年期

2010年02月12日

先日、某氏と私、焼鳥屋のカウンターの隅で飲んでいた。
某氏はここ最近、「めっきり酒が弱くなった」と言うのが、酔って来た合図かの様に、
背中を丸めて、ぽつりと呟く事がある。
その日も、近日の泥酔体験を交え、瓶麦酒を傾けつつ、その合図が毀れ落ちた。
「某さん、それは更年期ですよ」
ぎょっとした目線で、私を見る。
「いや、一種のね、所謂、女性の更年期障害と言う意味ではなくて」
その意を介したのか、コップの麦酒を飲み干す、某氏。
注ぎながら、私。
「世代の変わり目、と言う意味での更年期に差し掛かって、
体調にも変わり目が訪れたのかも知れませんね」
言ってる私も、考えてみれば、そろそろ、更年期に差し掛かる年齢である。
その意味で言うなら、10代から20代も更年期。
最近巷でよく聞く、「アラサー」、「アラフォー」と言うのも、更年期である。
体調の面から見ても、10代から20代に代わる頃が、変わり目だったと、回想する。
しかしそこには、「酒」と言う奴が、未だ出会って間もないのに、
なれなれしく肩を組んでいる。
私は、次、20代から30代。
やはり、酒の奴がしつこく纏わりついて来て、時に慰めあい、時に喧嘩し、直ぐに和解する。
今の所は、良き友である。
更年期は、免許の更新の様に、通り一遍の試験で交付させる物でない。
従って、打ったり打たれたりしながら、一進一退の攻防線を続けて行かなくてはならない。
焼鳥屋から次の店へ河岸を変えようと、薄暗い路地裏を歩いていると、某氏。
「さっきの店のさ、若女将、あれ、幾つだと思う」
「20代中盤から後半ですかね」
「いや、俺の見立だと、10個は上だな」
更年期の見立も、人それぞれである。

773声 Am7からD7

2010年02月11日

外は霙。
机上に置いたカップを口へ運ぶと、もう、珈琲が冷めている。
こう寒いと、外へ出るのが非常に億劫である。
なので、終日、部屋の中で逼塞していた。
昨年末の大掃除も満足にしていない、自分の部屋を、整理していたのである。
整理までは出来るのだが、掃除が出来ない。
机に山積している紙の束を、一つ一つ屑箱へ入れていると、
今年の年賀状が出て来た。
「結婚しました」
ってのが、その10枚程度の年賀状の中で3枚ある。
そのどれも、裏面、インクジェットプリンターで印刷されており、
片割れの知人が、伴侶と共に満面の笑みを浮かべている。
硝子戸の外、霙交じりの雨空から一筋の光明が差し込んでいるかの如く、
葉書紙面が、輝いて見える。
どの夫婦にも、運命的な物語があったからこそ、こんなにも輝かしい笑顔が、
毀れ落ちているのだろう。
そのコード進行は、Am7からD7。
私はと言えば、Am7とAmを、行ったり来たり。
葉書を集めて置いて、硝子戸を開けると、霙から雪へと変わっていた。
白い軒先の向こう、パチンコ屋の看板が、闇夜にぼんやりと、原色を輝かせている。

772声 花粉の2月

2010年02月10日

三寒四温。
とは言うけれど、いくらなんでも、寒暖の差が激しすぎる。
昨日、2月9日、高崎市上里見町で、最高気温24.1℃を記録。
列島では一番温かく、幾対も夏の最高気温記録を更新している同地域の、
今夏の酷暑を連想させる。
2月の同地域では、1978年からの観測開始以降では、最高記録。
その気温は、5月下旬並みで、ぽかぽか陽気と言うよりは、
いささか蒸し暑い陽気の方が、適切である。
それが一転して、今日。
何でも、群馬県内、夜半から雪が降るのでは、なんて気象情報が流れている。
明日は、関東地方広範囲で、雨、山間部では雪。
ジェットコースターの如き落差に、私の周り、体調に変調をきたしている人も多い。
街を闊歩する人たちも、マスクをしている人を頻繁に見掛ける。
やはり、気候が体調に影響を、などと考えていたら、「クシュン」。
私は、信号待ち。
隣のOLと思しき女性が、可愛げなくしゃみをして、鼻を啜っている。
そうか、もう、スギ花粉が飛散してくる時期なのだ。

771声 爽快な深酒

2010年02月09日

先日、2軒目に流れた店が、韓国料理屋だった。
全体的に力が漲っている女将さん、韓国流に言えば、オモニさんが一人で切り盛りする、
路地裏のこじんまりとした店である。
そこで頼んだ酒が、マッコリ。
「マッコリ」とは、韓国における、大衆醸造酒の一つ。
米を主原料に製造されるので、日本で言う、「どぶろく」似ている。
熟成を感じさせる見た目に反して、アルコール度数は約6%と軽く、
麦酒と同程度なので、飲み易い。
乳酸菌で発酵させているので、仄かな酸味を感じ、口当たりが良い。
自らの酒歴の中、初期から飲んでいる酒に当たるのだが、飲む機会は極めて少ない。
「明日がある」
と言う事を念頭にしながら、杯を手に取っているのだが、
どうも、ブレーキの掛かりが悪い。
麦酒やマッコリの類、つまりはアルコール度数が軽く、口当たりの良い酒になると、
殊更、速度が落ちない。
かえって、重たい、フルボディの日本酒やウイスキーなどの方が、
拍車が掛からずに済む場合がある。
その日も、甕の中に入っているマッコリが、どんどん減って行く。
店内、テーブルを囲むのは、私等2人。
斜向かいの席には、薄らぼんやりと、焼酎を飲んでいるおやっさんが1人。
店内に響き渡るのは、オモニさんの元気な濁声。
剛腕なテニスプレーヤーが放つ、渾身のサーブの如く突き刺さる、その声に圧倒され、
会話に相槌を打ちながら、自ずと手が杯に伸びている。
結果、結局、深酒。
いささか覚束ない足取りで、ネオン瞬き女衒蠢めく酔街を抜け、
辿り着いた伊勢崎駅から、両毛線で帰路へと着いた。
翌朝目覚めると、なんと、快適な目覚めな事。
二日酔いの予想は見事に外れ、平静時よりも調子が良いのではないかと言う、体調。
飲む前は若干不調だったので、尚更、体調が好転した事に吃驚。
激辛韓国料理のつまみで飲むマッコリか、はたまた、
激辛韓国濁声のオモニによる一歩通行の会話か。
何れにせよ、何処か胸の内が「スッ」とした、爽快感を感じた。

770声 安吾、清張、諒一

2010年02月08日

今日、帰路の途中、所用があって、本屋へ寄った。
閉店時間に近い店内。
煌々と照らす蛍光灯の下、詰襟の高校生が数人、少年雑誌を立ち読みしている。
クラッシック音楽が悠々と流れる、本屋特有の穏やかな時間。
知り合いの店主と、レジ横でしばしの立ち話。
話は意外な所へ転がって、安吾と清張の話になった。
この「安吾」とは、勿論、坂口安吾の事で、「清張」とは松本清張の事だが、
興味深い話だったので、要点を記す。
「安吾と清張の本を購入して行く女性は、美人の割合が多い」
と言うのだ。
およそ、無頼派デカダン文学及び、社会派推理小説などとは結びつかない様な、
颯爽とした美人が、これらの作家の本を手に取っている。
店主の業務上経験に基づいた考察なので、信憑性は高い。
そう言えば、安吾の無類の推理小説好きで、第2回探偵作家クラブ賞などを受賞した、
推理小説の名手でもあった。
そして、清張もまた、第10回の探偵作家クラブ賞を受賞している。
この二つの関連性から、導き出される答えは、などと、推理小説仕立てになってきたが、
「推理小説」ってのは、女性人気が高いのかも知れない。
電車内。
斜向かいの席に腰掛けて、熱心に文庫本を読んでいる女性。
居住まい、容姿が端麗であるその女性が手にしているのが、「明治開化安吾捕物帖」。
だったりしたら、私などはもう、ノックアウトである。
妄想は加速して、この日刊「鶴のひとこえ」に辿り着く。
毎日読んでくれている、読者の女性陣は…。
いや、言いますまい、言いますまい。

769声 昼下がりの三下がり

2010年02月07日

いささか風が強く吹いているが、こう言う日は、かえって山が澄んで見えるので、
心持が清々しい。
温かい部屋で、青空に浮かんでいる千切れ雲を眺めている。
駘蕩とした、日曜日の午後。
我が記憶装置は、目の前の風景とは関連性の無い光景を、
スクリーン上映する癖があるようだ。
今も、思い出しているのは、昔住んでいた都会の、猥雑な活気ある商店街。
日曜日、穏やかな午後。
私はしばし、近所の商店街へ出掛けた。
自転車を押しながら、流れる人波に紛れ込む。
肉屋店頭から漂う、揚げ物の良い匂い。
婦人服屋の特売品ラックに群がる、昔の姉ちゃんたち。
老舗蕎麦屋の暖簾から出て来る、中折れ帽子のお爺ちゃん。
私は、歩く。
ベビーカーを押している、爽やかな若夫婦の隣、自転車を押しながら、歩いている。
不意に、そんな光景が思い出される、昼下がり。
私が糸をつま弾く度に、滴り落ちる、不協和音。
三下がりに合わせたつもりが、調子っぱずれの三味線の音。

768声 自己養生

2010年02月06日

眼精疲労。
原因はこれだと思うのだが、全身倦怠感が甚だしい。
終日、目を酷使していたからであろう。
先程まで、PCモニターを見つつ、現在製作中の本の校正をしていた。
幾度目の校正か、忘れる位、校正作業が捗らない。
一重に、私の文章内容が問題なのである。
その都度、加筆、訂正を加えなければならない部分が見つかり、
いよいよ泥沼化の様相を呈して来た。
その合間に、気を紛らわそうと、文庫本を手に取り、頁を捲る。
敬愛する作家の文章は、蜜の味。
気付けば、時間を忘れ、夢中で読み進めており、ミイラ取りがミイラに、
こちらも辿り着いたのは、泥沼であった。
やっとの思いで、栞紐を差し込んで、本を閉じる。
目をつぶると、ドライアイの感覚。
机の隅に転がっている、使用期限の怪しい目薬を点眼してみた。
容器の内側、水滴が無数に付着している所が、一層、怪しい。
幾らか、潤いは取り戻したが、未だ倦怠感は払拭できない。
こう言う時は、養生の為、風呂に入って早めに寝るのが良いのだろう。
しかし、風呂に入って、麦酒を一缶開けて、文庫本の続きを読むつもりである。
そして、また、一缶。
それが、私にとっての養生であり、現に養生になる。
養生とは、けっして一面的でないと、思う。

767声 潮目

2010年02月05日

時化ていた胸中が、穏やかな小波になっているのは、
風呂上がりに飲んだ麦酒の所為、ばかりではない。
今日、高崎市に在る一軒の銭湯へ行って来た。
入浴、でなく、話に、である。
結果、一寸した誤解が、解けた。
これで、現在、私が製作している「群馬伝統銭湯大全」は、名実共に、
群馬伝統銭湯大全になり得る。
四番打者の様な、その素晴らしい銭湯を、なんとか滑り込みセーフで、
加えられそうである。
波風を立てている、あるいは、これから波風を立てようとしている。
その張本人である私は、潮目が変わる事を願っている。

766声 価値ある文章

2010年02月04日

非常に不安である。
その内容の全貌を、この場で吐露するつもりはないが、
不安を抱えつつ、毎晩、書いている。
それは、今に始まった事ではない。
毎日、この場所に現れてくる文章に、どれだけの価値があるのか。
価値とは常に相対的なものであるから、その対象物が、
文章の場合は読者と言う事になるけれど、
どれだけ有益であるかと判断する事で、値打ちが決まる。
しかし、相対的でもあり、絶対的なものでもある。
仮に読者の大半が有益でないと判断した文章は、値打ちが無いと言う事になる。
しかし、有益であると判断している、ほんの一握りの読者にとっては、
十分に値打ちがある文章なのだ。
つまりは、「頼まれても読みたくない」と言う人も居れば、
「頼んででも読みたい」と言う人だって居る、と言う事。
前者が多く居れば、相対的価値は低いけれども、その文章に全く値打ちが無い、
と言う訳では無い。
一人でも後者がいる限り、その文章には絶対的価値があり、
表面的に流れていても、根本的な価値は損なわれていない。
夜半に、そんな酒の不味くなる様な事を、悶々と考えている。
今宵は、立春のくせに随分と冷える。
春の始まりの日が、今年の最低気温とは、これ如何に。
しかし、始まっちまったものは仕様が無い。
また、相も変わらず四季が巡って行く。
然るから、「価値ある文章を書きたいな」、と言う事なのである。

765声 裏通りへの誘い

2010年02月03日

1億7,400万円。
これはラーメン店の1年間の最高売り上げ。
驚くなかれ、チェーン全店でなく、1店舗あたりの売上なのである。
その店は、「博多一風堂」と言う。
現在、日本一流行っているラーメン店、と言っても過言ではない。
私の友人、知人等も行列して食べて、その都度、「美味い、美味い」と言っている。
私はと言うと、ラーメン店のみならず、流行りの店には疎いので、食べた事が無い。
群馬県では、高崎市に1店舗あり、とても盛況な様子。
この一風堂、来店者の4割を女性が占めていると言う。
「女性一人でも気軽に来れる」
ってのが、近年、飲食店繁盛のキーワードになっているようだ。
そう言えば巷の繁盛店を見るに、店舗から料理まで一貫して、洗練かつ清潔な印象である。
翻って、巷の伝統的な銭湯等も、このキーワードに則した経営方針を、
などと、無責任な考えを持つが、それでは味気ない。
それはまた、所謂、昔の銭湯とは違った商売なのだろう。
遠くない未来。
街には、「女性一人でも気軽に入れる」式の店が増えて行く。
それは、「男性一人では気軽に入れない」店と言う事になると思う。
そうなると、そこからあぶれた男たちが、小汚ない食堂で肩寄せ合って、
ラーメンを啜り、楊枝で歯を突いている。
と言う光景を、容易に想像し得る。
その件で言えば、私などは、流行最先端の往来を、大手を振って、
歩いていると言う事になる。
しかし、やたらと男ばかりが目立つその往来は、やはり裏通りである。
時代に誘導されるが如く、どうしても、裏通りに足が向いてしまう。

764声 買い損

2010年02月02日

明日は節分。
なのだが、朝のニュースから、昨夜の積雪による交通機関の乱れ、の報道一色。
巷の風潮、豆まきの「ま」の字も無い。
明日になったら、鬼が街中を、跳梁跋扈していない事を願う。
昼飯にあんぱんを食おう。
思い立って、道すがらのスーパーへ寄った。
弁当とあんぱん、牛乳も買おうと、日配品コーナーを物色。
「あったあった、牛乳、これだ」
と、手に取ったのは200mlの小さいパック。
価格は88円。
その直ぐ下、特売品の低脂肪牛乳が、78円。
これは、1ℓの大きいパック。
思わず、1ℓの牛乳を手に取り、レジへ向かう。
あんぱんと牛乳。
やはり、良く合う。
良く合うのだが、あんぱん1個に対し、牛乳の量が過剰である。
おまけに、牛乳パックから直に飲んでいるので、非常に飲みづらい。
車の運転席に座り、慎重に牛乳パックと顔を傾けて飲むのだが、
時折、唇の裾からこぼれてしまう。
衣服も運転席のシートも汚れる、と言う惨憺たる状況になってしまった。
しまいには、無理して全部飲み終えた直後から、腹痛に見舞われる始末。
損して得を取るのは、難しい。
買い物をしていると、自らの潜在意識に盤据しているさもしい気持に、
気付く事がある。

763声 雪の音

2010年02月01日

硝子窓の向こう。
夜の底がデコレーションされる様を、手を拱いて見ている。
空から粉糖を振り落としているかの如く、真っ白に雪が積もって行く。
天気予報は精度を欠かず、予報通りに夜半から降雪、そして積雪。
自家用車を、スタッドレスタイヤに履き替えていない私は、気を揉んで、
おちおち寝ていられない心持である。
しかし、巷の子供等は、別の意味でおちおち寝てはいられない。
雪原を走り回る事。
雪だるま作りの事。
そして、クラス全員での雪合戦の事。
明日は皆、「雪やこんこ、霰やこんこ♪」と、鼻歌交じりに登校する事だろう。
窓を開けて、顔を出す。
呼気が白く、現れて消える。
雪の音、久しぶりに聞いたな。

762声 黒網タイツとちびまる子ちゃん

2010年01月31日

窓のサッシの隙間から、午後の陽が鋭角的に差し込んでいる。
その下、光と影の中、子供に絵本を読み聞かせている、お母さん。
今日、一寸した暇を埋める為に、近所の図書館へ行って来た。
図書館には、古い邦画のビデオがあるので、それが目当だった。
ロケ地が群馬県。
なんて作品は、マイナー映画でもしっかりと置いてあるのだ。
2本観た。
私が観ている視聴ブースの隣の席に、黒網タイツを履いた、
女子高生と思しき女子がやって来た。
エナメルのバッグを床に放り投げて、足を組んで画面を観ている。
映画を観終え、返却に行く途中、チラリと黒網タイツ、
じゃなくて、画面を覗いてみた。
そこには、「ちびまる子ちゃん」。
2本目の作品を物色していると、先程の女子、何やら隣のお爺ちゃんに話し掛けている。
どうやら、お爺ちゃんに、DVDデッキの操作方法を教えているらしい。
やるじゃん、ちびまる子ちゃんのお姉ちゃん。

761声 元気に、力強く、湯が沸いていた

2010年01月30日

喉が痛くて、おまけに鼻水が出る。
こりゃ、完全に風邪の諸症状だが、それでも、行って来た。
病院、でなく銭湯へ、である。
ここ最近、銭湯の件、と言ってもおぼろげだが、この件は膨らませないで、進行する。
その件で連絡を取っている方からの情報で、「営業しているよ」と言うのである。
営業しているのは、高崎市街地に在る「本町支店湯」。
私はてっきり、休業もしくは廃業したと、誠に失礼ながら、そう思い込んでいた。
それには、理由がある。
私の携帯電話に、高崎駅から一番近い銭湯を紹介してくれとの旨が寄せられた時は、
この銭湯を紹介していた。
一番近くも無いが、駅から歩けない距離でもなく、何より、午後1時と言う、
市内では一番早い時間から営業している銭湯だったからだ。
その日も、知人から連絡があった。
確か、一昨年の金曜日、午後3時頃だと記憶している。
本町支店湯が、月曜定休とは、入浴へ行った際に確認していたので、
迷わずこの銭湯を推薦し、場所の詳細を伝えた。
数分経って、私の元に連絡が来た。
「やっていない」、と言うのである。
そんな筈は無いと思いつつも、近所の「浅草湯」を紹介し、事無きを得た。
後日、私も確認に行った、火、水、木曜日なのに、やっていない。
「これはとうとう…」などと憶測している内に、確信へと変わってしまった。
それが今日、私の憶測は憶測に過ぎなかった事を、確認できた。
午後6時、柳川町裏の路地裏に、しっかりと暖簾がたゆたっていた。
しっかりと、浴室には、南国砂浜のペンキ絵が、描かれてあった。
元気に、力強く、湯が沸いていた。
以前は、臨時休業だったのだろう。
銭湯営業だって、晴れのち曇り、曇りのち晴れ。
熱い湯に浸かったら、風邪など、彼方へ吹き飛んで行ってしまった。

760声 麦酒と蜂蜜

2010年01月29日

喉が痛い。
季節性の空気乾燥と風邪の初期症状が相まって、喉に出ているのだろう。
何のこれしき構わずに、なんて腹を括ろうとしたら、丁度良い具合に、
先日頂いた蜂蜜の壜が、食卓の上にあるではないか。
蜂蜜は喉に良い、と聞く。
実際に効くのか、試しにスプーンにたっぷり取って、舐めてみた。
確かに、蜂蜜が喉に絡まって、いかにも具合が良さそうである。
しかし、それよりも何よりも、美味いのだ、この蜂蜜。
製造元の住所が、高崎市井野町になっている。
この「井野」ってのは、上越線の駅で言うと、高崎、高崎問屋町、井野、新前橋と来るから、
前橋市寄りの高崎市と言う位置に在る町。
この井野町は、私の見地から言うと、養蜂とはとても結びつかないが、
ともかく、住所は井野町と記載してある。
その種類は、百花の蜂蜜。
「百花」と書いて何と読むか。
答えは「ひゃっか」なのかどうかは確証が持てない、実は私も読めなかった。
あっさりしていて後味が良いこの蜂蜜は、まさに、野原で咲き競っている百の花を連想できる。
この味なら、ワインなどにも合うのではなかろうか。
と、ワインに疎い私の推薦なのであてにならないが、合うと思う。
麦酒で言うと、スタウト、つまりはギネス系統のコクのある苦みに良く合うと踏んでいる。
麦酒と蜂蜜。喉に良いんだか悪いんだか。
それでも明日あたり、早速、試してみるつもりである。

759声 感覚の付け所

2010年01月28日

「目の付け所」
の事に付いて、友人、知人から言われる事がある。
流石に、面と向かって「悪い」とは言われないが、「良い」とも余り言われない。
「変わっている」と言われる事が、一番多い。
この場合の「目」と言うのは、狭義の意味で着眼点であるのだが、
私は広義の意味で、「感覚」と解釈している。
だから、「感覚の付け所」と言う方が、私なりに説明が付けやすい。
それが、「変わっている」と言うのである。
そう、目の付け所なんて、そんな大層な物差しを持って、物事を測る能力は、
私には皆無である。
目の付け所、すなわち着眼点と言うのは、その後の結果を見込んだ狙い。
だと思っている。
「株式売買で高配当を得た」
なんて人は、目の付け所が良いと言えるのだろう。
しかし私のは、「結果を見込んだ狙い」ってのが無い。
ただ、「感覚的」に目当てを決めて、行動しているだけ。
闇雲に切った舵の方向に、氷山があるかも、はたまた滝壺があるかも知れない。
その見当を付ける時は、いつも「感覚」に頼る。
なんだか、抽象的な内容になっているが、結果的にそうなっていると言う話である。
そう言えば、「ガチャポン」ってのがあるでしょ、
別名「ガチャガチャ」とも呼ばれている、店頭なんかでよく見かける機械。
100円玉を入れてレバーを回すと、玩具の入ったカプセルが出てくる、自動販売機。
アタリが中々出ず、回しても大半がハズレで、得体の知れないゴム人形の玩具やら、
子供だましで安普請な玩具が入っている。
子供時分、私はアレが好きだった。
小遣いを1,000円貰って、その日に10回、ガチャポンマシーンに注ぎ込んでしまった事もある。
目の付け所が良い人間は、少ない小遣いで非効率的な浪費はしないだろう。
しかし私は、「感覚」だけに頼って勝敗を決める、ガチャポンに魅かれた。
その頃から、無意識に、目の付け所でなはく、感覚の付け所を重視していたのだろう。
アタリでなくとも、「何か」良い玩具が出そうな空気を感じた時に、
ガチャポンのレバーを回す。
幸か不幸か、いや不幸の方に幾らか分があると思うが、
人生においての重要な岐路に立った時も、感覚的に決めている傾向がある。
その結果は未だ出ていないが、今の所、「変わっている」と言う事になっているようだ。

758声 饅頭男

2010年01月27日

今日は故あって、終日、「饅頭」の事について考えていた。
饅頭ってのは、文字通り、まんじゅうである。
日本での饅頭のルーツを遡ると二系統ある。
一つは宋の国から帰国した「聖一国師」が伝えたもので、1240(仁治元)年、
甘酒で発酵させた生地で作る、「酒素饅頭」。
もう一つは、その後100年の時を経て、1341(暦応4)年、
健仁寺の「竜山禅師」が、「林浄因」を伴って元の国より帰国して伝えた、
塩餡(小豆こし餡)を包んでから、膨張剤で膨らませた、「奈良饅頭」である。
どうして塩餡を包んだのかと言うと、この頃の日本では、仏教の戒律によって、
肉食が禁止されていたからである。
それによって、羊肉や豚肉の代わりに、塩餡が用いて創作された。
前者は後の「虎屋系の酒饅頭」となって、主に関西へ派生し、
群馬県の温泉場などでも多く見られる、「酒饅頭」もそれに当たる。
後者は、「塩瀬系の薬饅頭」として、主に関東へ派生して行った。
とまぁ、何だか堅苦しい説明文を突発的に書きたくなってしまった。
子供が親に、学校での一日の出来事を、息せき切って話すかの如く、
知り得た情報を吐露したい衝動に駆られたのだ。
この様に、饅頭の事を調べるあまり、私の脳みそは餡子にでもなってしまった心持である。
「アンパンマンVS饅頭男」
ってのが実現すれば、最大のライバルになるのではないだろうか。
今日はやはり、頭を縦割りにしたら、中から餡子がぎっしり出てくるのであろう。