日刊鶴のひとこえ

この鶴のひとこえは、「めっかった群馬」に携わる面々が、日刊(を目指す気持ち)で記事を更新致します。担当者は堀澤、岡安、すーさん、坂口、ぬくいです。この5人が月替わりで担当しています。令和6年度は4月(ぬ)5月(岡)6月(す)7月(堀)8月(坂)9月(ぬ)10月(岡)11月(す)12月(堀)1月(坂)2月(ぬ)3月(岡)の順です。

960声 新生児

2010年08月17日

赤ちゃんが生まれた。
っても、勿論私の子ではなく、近しい知人の子である。
携帯電話に送信してくれた、赤ちゃんの写真を眺めながら、これを書いている。
新生児室ってんだろうか、テレビドラマなどで見た事のある、
生まれたての赤ちゃんが寝かされるあの部屋で、寝ている。
本当に、顔が赤い。
彼はもう、本当に、この世に舞い降りたのである。
子が生まれる、と言う心情。
子が無い私には容易に推測し得ないが、きっと幸福なのだろう。
残暑厳しい部屋の中で、そんな気持ちに思い馳せている。
赤ちゃん。
ってのは光だ。
すやすや眠る、この赤ちゃんの魂は、
光り輝くエーテルの結晶で出来ている。

959声 寄席の色

2010年08月16日

10時半から21時まで。
これは、先日私が、浅草演芸ホールで飽きもせずに演芸を観ていた時間である。
昼の部が10時半から4時半。
夜の部が4時40分から9時。
しかし、浅草演芸ホールなどの寄席は、昔の映画館の様に、
(その昔は映画館が寄席にならったのだろうが)
昼夜の入れ替えが無いので、気力と体力、そして暇があれば、「通し」で観れるのだ。
入場料は3,000円。
この日一日の総出演芸人数は46人。
一人当たりで割ると、65.2円で観れると言う事になる。
ってのは、もはや寄席では御馴染のマクラである。
しかしまぁ、日がな一日演芸漬けってのも、疲れるのだが、
日の暮れた夜の往来へ、一歩踏み出した時に得体の知れぬ充実感がある。
素直な充実感で無く、得体の知れぬ感覚が混ざっているのは、
先程まで、入れ替わり立ち替わり、得体の知れぬ人たちが出ていたからであろう。
私が観覧したのは、お盆真っ只中だったので、普段とは異色だった事だろう。
客筋が、である。
この時期は東京見物の一環として観覧に来るお客さんたちで、無論、混む。
私は一日場内で、観察していたのだが、この客筋がちと面白い様相であった。
右から入って来たのは、関西弁を炸裂させている女子高生と思しき4人組。
席に着くや否なや、ファーストフードのハンバーガーを食べ始めた。
左から入って来たのは、背の高い外人さんの夫婦。
新婚旅行で日本へ来たのだろうか、スタッフの方に、
ム−ビーカメラでの撮影を叱られている。
あちらに居るのは、爺ちゃん婆ちゃんと、その孫と思しき男の子。
無理やり連れて来られたのだろうか、寄席聞きながら漫画を読んでいる。
こちらに居るのは、艶やかな女物の浴衣を着ている女の方、否、良く見れば、男。
そう、ニューハーフの方が彼氏と観に来ているのだ。
多年齢かつ多性別。
そして、多国籍かつ多地方。
それらのお客さんが、一階席二階席とも、立ち見が出るほど満員の演芸ホール。
スナック菓子の油の匂い立ちこめる場内で、混然一体となって、
うごめきどよめきながら、笑っている。
このアヤシくも多彩な客色が無ければ、寄席ってのは、
ひどく精彩を欠く場所になるだろう。

958声 第2回若手落語家選手権in前橋

2010年08月15日

春風亭一之輔さん、だった。
今日、開催された「第2回若手落語家選手権in前橋」の優勝者が、である。
準優勝は、地元群馬出身である、柳家小蝙さん。
と、激戦であった戦いの結果報告を述べるのがやっと、と言う状態。
つまりは、酔っ払っているのである。
結果報告。
だけに留めておいた方が身の為。
ってのは、酔っ払いに残された僅かな理性でもって、判断が付く。
最前列で観覧させて頂いたのだが、
切っ先鋭い芸、ってのを久しぶりに体験できた。
と、ここらで、「芸」術論に入るのは、止めておいた方が良い。
ってのは、酔っ払いに残された僅かな思考でもって、判断が付く。
あまり、「笑い」の事は、論理的に考えすぎてはいけない。
って、思う。

957声 朧月夜

2010年08月14日

月、朧にして、夜。
酒徒、東京にして、帰らざり。
何ぞ、艶かしき、泥沼かな。
我、朧にして、夜。

956声 寄席選び

2010年08月13日

盆休。
なので、先祖の墓参りにでも行けばよいのだが、
足はおのずと「遊び」の方へ向いてしまう。
今日は、これから落語を観に行こうと思う。
明後日も、前橋テルサで開催される、
「若手落語家選手権in前橋」を観に行く予定なので、
このお盆はやけに、落語色が濃くなってしまった。
まぁ、好きで観に行くのだから本望である。
何処の寄席へ行こうかと考えると、やはり、お盆ってのは矢鱈に混むので、
行く前から気が引けてしまう。
おそらく、上野の鈴本などは、昼席入場券発売開始一時間前から長蛇の列だろう。
他の寄席も然り。
池袋は、いくらかマシか。
各寄席のHPを開き、「本日の番組」で演者を確認する。
この時期の浅草演芸場では、「納涼住吉踊り」が吉例となっている。
以前から噂に聞いており、一度、観たいと思っていた。
いやそれとも、新宿末廣で三遊亭の師匠を観ようか。
池袋で紙切りの師匠を観ようか。
兎も角、電車の中で考えるとしよう。

955声 名残惜しけり宇都宮

2010年08月12日

巷はお盆。
私も、一応勤め人のはしくれなので、
ささやかながら「盆休」なる期間に入っている。
それを利用して、今日は宇都宮市まで足を伸ばした。
今回は、高崎駅から宇都宮行きの高速バスへ乗車。
時間はおよそ3時間程かかるのだが、1,500円と言う格安の料金で行ける。
何せ、お盆の期間なので、車内混雑及び交通渋滞を懸念していたのだが、
その心配をよそに、快調に行って帰って来れた。
宇都宮にはもう何度も行きましたね。
って、歌謡曲「東京」のメロディーを口ずさみつつ、目指すは、銭湯。
宇都宮市に残る3軒の内の1軒である、「東湯」。
そして、私が、「とっておき探訪」で連載している「栃木路地裏銭湯記」の、
トリを飾る、伝統銭湯。
もう3回くらいになるだろうか、訪れる時はいつも折り合い悪く、定休日だった。
しかし今日は、事前に電話確認しておいたので、万全である。
開店は午後2時半と、早い。
しかし、常連さんの方が、もっと早い。
暖簾が掛かる前から、湯船に浸かってんだもんな。
スキンヘッドの常連さんに、「兄ちゃん、我慢だ、我慢」って励まされながら、
宇都宮の熱い湯を体感して来た。
オロナミンCを飲みながら、番台のおばちゃんに銭湯の事を伺うと、
親切な方で、色々と教えてくれた。
ここ東湯は、市内に現存する銭湯で、一番古い銭湯との事。
なるほど、おばちゃんの座る木製番台が、歴史を物語っている。
話の花を自ら摘んで、足早に帰りの高速バスに飛び乗った。
日野町の屋台横丁で、もう一度呑みたくもあったが、今日中に帰らねばならない。
これでしばらく、宇都宮に行く用事が無くなったと思うと、
いささか寂しくもある。

954声 書店巷談 後編

2010年08月11日

昨日の続き。
店内レイアウトも分かり易く整理され、本もテーマ別で陳列されているので、
書籍陳列棚を眺めているだけで、買いたい本が山ほど見付かる。
そんな堅実な書店なので、また読書の秋がくれば、客足も戻って来るだろう。
などと、楽観視している、私。
だから、本たちが親孝行してくれないのか。
会話の中、いつも私は、店長に同じ質問をしてしまう。
「最近はどんな本が売れていますか」
「情報誌の○○なんか、結構、出てますねぇ」
「そうですか、やはり情報誌は強いですね、文芸では」
「文芸では○○。しかし、売り上げの大半を占めるのは、やはり実用書ですから」
「そうですか」
「7,8割を占めていますね」
「やはり読者は、実用的かつ鮮度の高い情報を求めるのですね」
「はい、それも、今日得たら今日使える情報を」
高度情報化社会。
なんて言葉は、当節では当たり前すぎて恥ずかしいくらいだが、
現代社会はそうなっている。
情報を得られるソースが多様になり、かつ、簡単に得られる。
消費者は、夏の日盛りに書店へ足を伸ばすより、クーラーの効いた室内から、
携帯情報端末で、情報を閲覧する傾向にあるのだろうか。
かく言う私だって、毎日インターネットを閲覧している。
店長から、伊勢崎市の老舗古書店が閉店セールをやっているとの情報を伺った。
そこは、以前から、郷土関係書籍を豊富に取り揃えている事で有名な店。
「掘り出し物が沢山あるよ」
との事なので、今月中に、一度足を運んでみようと思った。
今日得た情報を明日に消すのか。
今日得た情報を明日に残すのか。
後者の実現を成してこそ、高度な情報化社会と言えるのではなかろうか。
黴の生えたような古本ばかり漁っている私が、言うのもなんだが。

953声 書店巷談 前編

2010年08月10日

今日、勤めからの帰り掛けに、書店へ寄った。
私が「群馬伝統銭湯大全」を発売して、
一番最初に置いてもらった書店である。
店頭に置いてある在庫確認。
と言うのが目的だが、十中八九、売れていないだろうなと予想して行った。
その予想に反せず、我が本たちは、
クーラーのきいた店内で愛想の無い顔を並べているではないか。
しかし、この書店は県内でも稀にみる、元気な、つまりは売れている書店なので、
販売不振の元凶は、この親不孝者な本たち自身にある。
それを遡れば、結局、生みの親であり育ての親である、私が悪いと言う事に終始する。
本は兎も角として、丁度、店長がいたので、店内でしばし立ち話をした。
「いやぁ、夏に入って、めっきり駄目ですよ」
「そうですか、しかしまぁ、暑さ寒さも、彼岸までと言いますから」
「だと、いいんですがねぇ」
「そうですなぁ」
聞くところによると、普段は好調な売り上げなのだが、
今夏は、売上実績も夏バテ気味らしい。
店舗前の往来を工事している事が原因か、それとも、連日の猛暑による、客足の不振か。
何れにせよ、夏に入って、客足が落ちているとの事。
確かに、先程から店内、雑誌を読んでいる学生たちが数人いるが、
一向に、レジへ向かう客足は無い。
「書店は閑散としているくらいが良い」
などと、一人の消費者としては、不謹慎にも、そう思ってしまう。
私自身が夏バテ気味なので、掲載可能文章量超過につき、この続きは、明日に。

952声 昼行灯考

2010年08月09日

先日、財布を落とした事が響いているのか。
それとも、お盆休みが近づいて来て弛んでいるのか。
自らの体内における、「活力」が乏しい。
言うなれば、昼行灯の如き状態だろうか。
「昼行灯」
と人は揶揄する。
いやいや、案外、捨てた物じゃないと、私は思う。
夜がくりゃ、大いに重宝じゃないか。
夜は、必ず来るのだから。
「行灯ってのは夜になったら灯ける物だ」
と人は指摘する。
いやいや、夜になって灯けたんじゃ、シケて灯かないかも知れない。
そうしたら、昼行灯に頼るしかないじゃないか。
だけど、往々にしてそれは、夜が明けきらぬ内に燃え尽きてしまうだろう。
夜が来ずとも、空に暗雲立ち込める時。
昼行灯の光が、煌々と闇を照らす。
夜を待っていた行灯たちは、慌ててその火を貰って灯る筈である。
やはり、昼行灯。
捨てた物じゃないね。

951声 よなよな狂い咲き

2010年08月08日

めらめらと燃えていた木が、炭火になってちろちろと燃えている。
目を閉じると、我が胸中にそんな光景が想像できる。
その炭火の周りを、夜を徹してまで、輪になって踊り狂っている人たち。
延々と流れている演目は、勿論、「八木節」である。
昨夜、以前から告知していた「よなよな狂い咲き」と言う、奇妙な企画の為、
「桐生八木節祭り」へ出掛けて来た。
参加者は私を含め、3人。
桐生で合流した方が、4人。
計7人で、本町5丁目に設置された櫓の周りで、踊った。
桐生合流組に桐生人の方が居たので、その方を師と仰ぎ、踊り方を教えて頂いた。
もう10分も踊れば、心臓の鼓動も八木節のリズムで脈打っているかの如く、
体が自然と動いて、櫓の周りを周って行く。
毎年気になっていたのが、踊り手の掛け声。
今年こそは覚えようと、踊りながら耳を澄まして聞いていた。
いささか間違っているかもしれないが、私にはこう聞こえた。
「小原庄助さんはぁ、なんで身上潰したぁ」
「朝っ寝、朝っ酒、女が大好きでぇ、それで身上潰したぁ」
「あーもっともだぁ、もっともだぁ」
「いいや違う、いや違うぅ、あっそれぇ、いいやそうだ、いやそうだぁ」
「祭っりだ、祭っりだ、桐生の祭っりだぇぃ」
これを皆、大声で歌う。
可愛らしい小学生から、素敵な老境の御仁まで、汗みずくの真っ赤な顔して、
「朝っ寝、朝っ酒、女が大好きでぇ」
と歌うのである。
こんな素晴らしい光景は、群馬県内の祭りに類を見ない。
まさに、「狂」を「興」としていた。
「狂い咲き」
酔眼と汗に滲んだ目の前の光景に、それを見た。
櫓の周りで妖しく蠢きながら、よなよな狂い咲いた、花たち。
桐生に咲いた花は、なんと妖艶で、なんと扇情的で、
なんと浮世離れした色の花だったか。
筆舌に尽くし難い。
 
櫓の近くで踊っているのは、ひっつめ髪にねじり鉢巻きを巻いた、姐御風なお姉さん。
胸に巻いたサラシの白さが、どうにも目に焼き付いている。
羞恥をかみ殺して蛇足する。
帰路の途中、私、財布を無くしてしまった。
しかし、浴衣用の財布なので、中にはスイカ(食べる方じゃなくて)と現金のみ。
駅から、雪駄を引きずって、とぼとぼ帰る途中、思い出していたのは、
本企画の告知で書いた文章。
「そこで何かを得る。そして、金を失う」
書いたばっかりに、本当になってしまった。
いささか高くついた一夜だったが、因果応報である。
とほほ。
※赤い二つ折の財布ですので、見掛けた方は御一報下さい

950声 立秋の遅刻

2010年08月07日

もう立秋である。
夕方になると、家の裏の田圃にも、チラホラと蜻蛉が飛び始めている。
来る秋軍勢の斥候であろうか。
掛かる不安は、今夏を無為に過ごそうとしている事である。
今し方、本棚に差しこんだのは、「俳句歳時記夏の部」(角川文庫)そして、
その隣から引っ張り出したのは、「俳句歳時記秋の部」(角川文庫)である。
陽気は未だ一向に夏だが、時候は秋。
歳時記の頁を捲っていると、いささか寂しい心持になって来る。
今日から作るのは秋の句。
「さて、じゃあ一丁句作してみるか」
ったって、これから祭りに出掛ける私は、浴衣を着てこれを書いている。
夏の衣に身を包みながら、秋の句を考えるってのも、中々難しいものだ。
そんな事をやっている間に、いつもの事で、遅刻である。
さて、駅までどうやって行こうか。
まさか、浴衣着て自転車に乗れないし。
やれやれ。

949声 祭りの気配

2010年08月06日

今日、上野村を訪れた。
日盛りの中、川縁に車を停めて、カメラを携えて沢へ降りる。
河原には、沢山の赤蜻蛉が、鋭角的に飛翔していた。
この虫たちが風に煽られる度、羽に反射した陽射しが、空に輝きを添える。
その光景をカメラに納めようと、数枚シャッターを切ったが、
デジカメの画面には、夏の川面が輝いているだけだった。
結局、秋の気配を映せず仕舞いで帰って来た。
高崎市内まで帰って来ると、中心市街地は、明日明後日に渡って開催される、
「第36回高崎まつり」の為、街全体が蠕動していた。
今年は、総勢38台の山車による町中巡行が、見所らしい。
前年までは、およそ半分しか山車が出ていなかったとは、
高崎市内に在る大衆食堂に居た、おやっさん談による。
街場の方では、秋の気配など微塵も感じられない。
8月第1週の週末。
と言えば、日本全国津々浦々で、祭りや花火大会が開催されるのだろう。
犬も歩けば棒に当たる式に、この時期、何処へ行っても、渋滞は必死である。
私は明日、「地蔵峠とカンカン帽のよなよな狂い咲き」で、
桐生は「八木節祭り」に行く予定である。
しかし当日は、街全体が「狂い咲き」の状態なので、
私たちがいくら狂い咲いたところで、さして違和感は無い筈である。
今宵、窓から吹き入る風は、涼やかで、私の住んでいる高崎と前橋市の境目に在る町は、
非常に穏やかである。
今宵も、20kmと離れていない桐生市街で、狂乱の八木節祭りが開催されているとは、
ゆめゆめ想像し得ない。

948声 沼田御馳走譚

2010年08月05日

昨夜訪れた沼田の町は、祭りだった。
丁度、3日に渡って開催されている沼田祇園祭の中日。
独りでふらりと訪れたのではなく、私たちは総勢4名だった。
今回の道中記を、私が添乗員として語るには、いささか心許ないので、
総勢の中一人である、ほのじ氏を引っ張り出して来よう。
ほのじ氏を筆頭に、酷暑極まる沼田の町へ訪れたのは、
市内に在るYさんのお宅にお邪魔する為であった。
Yさんのお宅に着くと、挨拶と共に缶麦酒が空いて、
挨拶が終わると日本酒の一升瓶が空いて。
その間に、机を埋め尽くさんばかりに料理が出てきて。
そうこうしている間に、知人も多数訪れて。
日が暮れる頃には、盆と正月が一緒に来た様な、飲めや歌えの立派な酒宴であった。
食の通人であるYさんの趣向を反映して、皿の上の料理は、
日本各地の逸品揃いである。
私に至っては、今年で一番豪奢な御馳走だと思った。
百けん先生ではないが、机の上の品々を、自らの御馳走帖に、
書き留めておきたいくらいであった。
Yさんのお宅は、沼田の中心市街にあり、往来に面しているので、
軒先から手の届く距離を、神輿が渡御して行く。
極上の日本酒と極上の料理、そして、軒を通る神輿の演出は、
私の、否、私たちの胃の腑まで溶かした。
竜宮城の浦島さんの如く、帰路の事はすっかり忘れて、特にほのじ氏と私が、
杯をどんどん進めた。
途中、Yさんにかの有名な鮒寿司(それも貴重な子持ちの鮒の)を頂いて、
一切れ食べたが、どうにも修行が足りない為か、馴染めなかった。
鮒寿司は御馳走の土俵の中でも、番付が別格なようである。
ほのじ氏は、涼しい顔して、何切れも食っては、美味い美味いと日本酒を煽った。
その時に、氏が料理人である事を思い出した。
祭りが終わる事に、泣く泣く、Yさんのお宅を辞した。
Yさん、そしてYさんの御家族御友人たちが、私たちを歓待してくれた、
それも全力で、である。
それを思うと、お猪口を一口飲む毎に、酒が胸に染みて、心を打った。
そこには、全力で歓待し得るだけの故郷、沼田の町があるからだと思った。

947声 夏の読み物

2010年08月04日

手に取る本は、心の渇きを癒す、水の如きものだろうか。
先日、古本屋でまとめ買いしてきた本の中に、
「心を強くする名言」童門冬二監修(成美堂出版)が有った。
連日の猛暑に、ちと、夏バテ気味な模様。
こんな陽気には、そうめんを啜るが如く、
サラリと読める名言集のような読み物が好ましい。
そして飲み物は、いつもの冷えたビールが、誂え向きである。
いささか、贅沢な夏バテのような気もするが、名言によって強くなった心があるから、
心配無い。

946声 語彙の風味

2010年08月03日

「若年寄」ないしは「老成」。
などと言う印象を、知人の多くが私に抱いていると言う状況。
それに起因するのは、私の語彙ではないかと、推察している。
ここ数年、生活の中で接するのは、同世代よりも歳上の世代が多い。
その為か、私の持つ語彙、平たく言えば、言葉のボキャブラリーが、老ける。
つまり、徐々にであるが、会話している年代のボキャブラリーと、
自らのボキャブラリーが平均化してくる。
女子高生の娘を持つお母さんなどが、娘の持つボキャブラリーと平均化して、
所謂、「若者言葉」を多用して会話している様を、良く見かける。
この場合、常に下の世代を基準にして平均化が為されるのだと思うが、
こと私の場合は、上の世代を基準にしてしまったようである。
そう考えると、おばあちゃん子として育ってきた環境も、
この現状の一翼を担っているのだろう。
なので、同世代と会話する時は、意識して同世代に、
自らのボキャブラリーを合わせようと試みる。
大抵は失敗に終わるのだが。
だから余計に、(と自分で言うのはいささか不本意ではあるが)若い世代と会話すると、
そのボキャブラリーを新鮮だと感じる時がある。
先日、或る集まりで、私の隣に座っていた、女性。
彼女の年齢は私の一つ下だが、やはり、新鮮なボキャブラリーが次々に飛び出す。
けっして、豊富ではないのだが、若者特有のスラングめいた言葉を自在に操る。
食事の箸を止めて、彼女が眺めているのは、私が先日出した、銭湯の本。
頁を捲りながら、述べる感想は、
「エー、なんですかコレー、チョー、ウケるんですけど」
「ココ、イイじゃないですか、ヤバいですよねー、マジ」
だって。

945声 希望的を観測

2010年08月02日

綺麗な虹が現れる前には、決まって、嵐の様な雨がある。
と言う事は、自然を見ていれば分かるけれども、
嵐の前に虹を見ようとするから、人は思い悩む。
夜にあれこれと思い悩むのは、明日が、もうすぐそこに、
迫って来ているからではなかろうかと思う。
とすれば、思い悩んでいる原因は、言わずとも来る明日に有る。
明日を、今日よりも安楽に過ごそうとしているから、人は思い悩む。
然るに、希望を叶える。
って事が、人を生かしめている。

944声 旅行と観光

2010年08月01日

固定観念が更新された。
と言う実感を得る時は、もっぱら他人との会話によるところが多い。
先日の例をば、ひとつ。
近頃、世間的にお盆休みが近い所為か、
他人との話題が自然と、旅行方面へ流れる事が多い。
私と話しているこの人は、中小企業における中間管理職の男性。
趣味は旅行で、この道何年と言う、謂わば、週末旅行の達人である。
話題は国内旅行に流れ着き、その旅行談を聞いて私は、
自らの固定観念を更新せざるを得なかった。
この氏が行った旅行先は、北海道は函館である。
実は私、北海道の土地へは未だ足を踏み入れた事が無く、
未開の地に対する憧れを持って、氏の話を聞いていた。
しかし、連休を利用して、北海道旅行など、当節、珍しくも無い話。
それが、その話の落ちは、連休では無いのである。
つまり、その人の函館旅行談は、日帰り旅行なのである。
氏は、群馬県高崎市在住。
高崎から函館まで、まさか日帰りで行って来るとは。
これが、仕事ではなく旅行、と言うから吃驚する。
しかも、飛行機ではなく、新幹線と在来線のみを利用している。
顛末を聞くと、高崎を限りなく始発で出て、限りなく終電近くに帰って来る。
それでも、函館の滞在時間は、2時間無いのだと言う。
そうなのだ、圧倒的に移動時間の方が長く、もはや移動の為の旅行と言える。
それでも、氏曰く、朝、群馬に居た人間が、その日の昼頃には津軽海峡を越え、
函館の土を踏んでいる。
と言う事に、最大の感激が得られるのだと言う。
氏にとっては、函館へ行って、何をするか、と言う事は、左程重要では無い。
「行って帰って来た」
と言う事が、重要なのである。
「せめて一泊して観光を」
なんて思ってしまう私は、凡庸な旅行感を持っている証拠だろうか。
「観光ばかりが旅行じゃない」
そんな事の発見が、殊更、「旅行と言えば観光」に執着している、
私の旅行に対する固定観念を更新させた。

943声 白球の清々しさ

2010年07月31日

先頃行われた、第92回全国高校野球選手権の群馬大会。
その結果、前橋商業が前橋工業を3対1で降し、3年ぶりで5回目となる、
夏の甲子園出場権を得た。
試合当日、行きつけの食堂へ入ったら、丁度、その決勝戦がテレビ中継されていた。
私は野球には疎いので、もっぱら食べる方に集中していたが、
店内のおやっさん連は、球児たちの一挙手一投足を食い入るように見つめている。
毎年目にする光景であるが、店の親父さんが野球好きな食堂なんかだと、
店内に独自予想のトーナメント表なんかが貼り出されている場合がある。
来月、8月7日からはいよいよ、47都道府県から予選を勝ち抜いた49高が、
甲子園で激突する。
先のトーナメント表の親父さんなんかはもう、新たなトーナメント表の作成で、
多忙を極めている筈。
この時期、高校野球を観戦していないと、なんだか夏の楽しみを一つ失ったようで、
いささか空しくもある。
しかし、自らの生活体験が野球と疎遠だったので、仕方ない。
数年前、仕事で県内の高校を幾つか訪れていた時があった。
そんな折、私が高校の渡り廊下を歩いていた時、すれ違う生徒で、
「こんにちは」
と、明朗快活に挨拶してくれる子たちがいた。
がっしりとした体躯に、良く日に焼けた丸坊主の顔。
とくれば、勿論、高校球児たちである。
彼らの挨拶が、蒸し暑い夏場、実に清々しく感じた。
彼らが見せる「心技体」の清々しさ。
それが、おやっさんたちのラーメンを摘んだ箸の動きを止めている、のだと思う。