日刊鶴のひとこえ

この鶴のひとこえは、「めっかった群馬」に携わる面々が、日刊(を目指す気持ち)で記事を更新致します。担当者は堀澤、岡安、すーさん、坂口、ぬくいです。この5人が月替わりで担当しています。令和8年度は4月(坂)5月(ぬ)6月(岡)7月(す)8月(堀)9月(坂)10月(ぬ)11月(岡)12月(す)1月(堀)2月(坂)3月(ぬ)の順です。

969声 生活の中の習慣

2010年08月26日

毎日、書いている。
そして最近は、一日一句を自らに課して、下手な俳句を詠んでいる。
この日本人特有の、勤勉であり、ビジネス的な感覚。
を、ある種の創作人は軽侮するだろう。
「書きたい時に書きたい事を書く」
それが、文章創作における、「本当」の形。
習慣的に書いている文章など、愚の骨頂である。
と、ある種の創作人は軽侮するだろう。
しかし、習慣化の中で気付く事もある。
例えば、朝飯。
学生時分の頃は、朝飯抜きの生活をしていた。
それが社会人になると共に、朝飯を食べながら朝刊を読む。
と言う事を、自らに無理やり習慣化させた。
意欲的な行動ではないので、当然、朝飯など喉を通らない。
所謂、「口が不味い」と言う状態なのだが、それでも、
トーストなどを珈琲で流し込む。
朝。気持ち良く起きて
ほんとうに気持ちのよい一日を過ごす。
そのためにすべてはあるのだ。
気持ちのよい食事
気持ちのよい活動
気持ちのよい愛
気持ちのよい眠り
なんのいや気のない生活
そのためにすべてはあるのだ
と言う、山田かまちの詩を思い出して、頷きながらも、
ここ最近は、暑さの為に不快な寝起きの朝を迎えている。
従って、気持の良い食事、などは実現し得ないのだが、今朝の事である。
朝から陽射しは濃く照っているのだが、風にはもう秋の涼しさを感じた。
台所の窓を開けて、裏の田圃を眺むれば、蜻蛉が二、三匹、軽やかに飛翔している。
ふと思い立って、トーストではなく、昨晩の冷や飯に納豆をかけて、食べてみた。
これが習慣化している朝食の味に反して、意外に、美味い。
緑茶を啜りながら、秋を見つけた。

968声 群馬の伝統野菜

2010年08月25日

やはり、こんなにも違うものなのか。
改めてこう感じた事は、その「味」であった。
最近、夏に入ってから行きつけの食堂へ行くと、店のおばちゃんが、
私の帰り際、必ず胡瓜をくれる。
ビニール袋にどっさり、10本くらいの胡瓜。
近所の畑で朝採れた、自家栽培の新鮮な胡瓜なのである。
しかし、この胡瓜たち、形と色が、どれも見慣れない様相。
スーパーの青果売り場で見るような、細く真っ直ぐ伸びた胡瓜と違って、
太い身をぐにゃりと曲げている。
その色も、店頭に並んでいる、青々としたものでなく、全体的に薄く、
しかもムラがある。
その理由を問うておばちゃん曰く。
「じばいきゅうり」なので、そうなるらしい。
この「地這い」ってのは、文字通り、地面に這わせて栽培する方法。
当然、主流の栽培法ではないのだが、こちらの胡瓜の方が、
見た目悪くとも味が良いのだと、育ての親自ら断言していた。
確かに、齧ってみて感じるのは、普段食べている胡瓜よりも、瑞々しく、
畑の味とでも言おうか、胡瓜特有の青味が濃い気がする。
群馬県に限らず、全国では今、「伝統野菜」を売り出している自治体が多い。
「地産地消」なんて取り組みの一環として、注目を集めている。
私の住んでいる近所にも、「国分にんじん」なんて言う、伝統野菜が栽培されている。
数年前、何かの折に、「入山きゅうり」と言う、
旧六合村の伝統野菜を食べた事があるが、これも、味が濃くて美味しかった。
そして先日、キャンプに訪れた高山村。
キャンプも無事終了し、現地解散となって、独り山道に車を走らせていると、
田圃の畦道に、無人野菜販売所を発見。
ふと、食堂のおばちゃんの胡瓜を思い出し、路肩に停車して、胡瓜を一笊購入した。
「細長い瓜」ではなかろうかと思うほど、太くて厳つい胡瓜なのである。
帰って、塩で揉んでから食べると、これがまた予想通りに美味かった。
もしやと思って、ネット検索してみると、先程の「入山きゅり」と並ぶ、
「高山きゅうり」ってな、群馬が誇る伝統野菜だった。
次は銭湯ではなく野菜。
「群馬伝統野菜大全」
ってのも面白そうだ。
しかし、自らの野菜に懸ける思いから見るに、現実性は薄いと思われるが、
「伝統野菜」
これは面白くなってきそうである。

967声 遠くの桑原

2010年08月24日

遠くの空で、未だゴロゴロ言っている声が聞こえる。
先程まで、ひとしきり暴れまわっていた雷様は、
どうやら赤城山の方へ河岸を変えた模様。
幼き頃は、雷が随分と怖かった。
夏休みで祖母の家へ泊まり行っていた、子供時分。
夕方、私が轟く雷鳴に怯えて、部屋の隅でうずくまっていると、
決まって祖母が、声をかけてくれた。
「とーくのくわばら、とーくのくわばら」
この呪文の様な言葉を唱えると、雷様が早く違う場所へ行ってくれるのだと言うのだ。
藁をも掴む思いで、祖母と一緒にその呪文を唱えていた思い出がある。
当時はその呪文の意味など、皆目見当もつかなかった。
しかし、大人になった今から思えば、言葉から、大体の意味は推察できる。
この、「とーくのくわばら」ってのは、「遠くの桑原」の意ではあるまいか。
つまり、養蚕が盛んなりし頃、桑原ってのは、
群馬の田舎へ行けば必ず目にする光景であった。
雷様に対し、どこか遠くにある、だだっ広い桑原の方へでも、どうか行って下さい。
と言う一種の「おまじない」なのであろう。
今でも、群馬に生まれ育った子供たちは、
このまじないの言葉を言っているのだろうか。
もっとも、巷の小、中学校の多くは、今週末ないしは来週初めの始業式と共に、
新学期が始まる。
子供たちにとって、遠くの桑原へ行って貰いたいのは、
雷様ではなく、やり残しの宿題の方であろう。

966声 仲入りの様々

2010年08月23日

残暑。
と言うよりも、未だ盛夏といった様な暑さが続いている。
今日も、前橋市では最高気温が35℃を越えた模様。
寄席で言ったら、仲入りを過ぎも、延々と芸人さんが入れ替わり立ち替わりしていて、
一向にトリに辿り着く気配が無い状況。
これは想像しただけで、座っている尻が痛くなりそうで、辛い。
しかし、灯りを消して寝床に横たわると、外から聞こえる秋の虫の輪唱。
どうやら、日、一日と盛大になって来ているようだ。
着実に秋は近付いており、八月下席の寄席も、トリが出てきて終演を迎える。
日本の四季は古来から、そう言うプログラムになっている。
私などは、苛烈な夏の太陽の下で、今少しばかり汗水たらした方が良いのだろう。
と言うのも、先日検査した健康診断の結果が出てきて、
用紙に印字されている数値を見るに、反射的に、眉をしかめてしまう数値があった。
それは、「中性脂肪」の項目。
初めに言っておくと、基準値内で至って健康状態良好の範疇なのだが、
昨年対比が問題なのである。
昨年はその欄の数値、「47」と記載してある。
そして今年、その数値は「120」になっている。
およそ、3倍近く増えているではないか。
因みに、追い打ちをかける様に、血圧も上が若干高い。
この様に、著しい増殖を見せた、憎き中性脂肪を燃やす為にも、
焼きつく様な太陽の下で、運動ないしは労働すべきである。
否、そんな事をしていると、血圧がもっと上がってしまうだろうか。
この状況を受け、我が人生劇場においても、既に仲入りが過ぎているのでは。
などとは、決して考えないように努めている。

965声 ハイボールとランタン

2010年08月22日

かなかなの声に起こされたら、日暮れ。
どうやら、すっかり寝入ってしまった。
体の芯に色濃く残っているのは、疲労。
しかし、非常に心地の良い、疲労感である。
昨日、私が高山村の「みどりの村キャンプ場」へ着いた時刻は16時。
小一時間の遅刻である。
着いたらすぐに缶麦酒を開けて、3缶目を開ける頃には、
机の上には豪勢な夕食が並んでいた。
こう書くと、怠惰極まりない人間と言う印象だが、私もキチンと仕事をこなしている。
それは、「餃子の皮包み」と言う大役である。
その場は、オートキャンプ場のテントサイトだが、テントを張る人、
包丁を持つ人、コンロで火を起こす人。
これは皆、大人。
餃子の皮を包む人、これ皆、子供。
その中に、一人加わる大人が、私。
なんだか腑に落ちない仕事だが、テントも張れないし、包丁も持てない、
おまけに火も扱えないので、改めて考えると適職であった。
サントリー角瓶で作ったハイボールを飲みつつ、ランタンの光の下で書く、俳句。
四方から迫る秋虫の声、見上げれば一面の星月夜。
そんな静かな夜を堪能していた。
その折、子供たちたっての希望で、夜半に出掛けた、近所の天文台。
駐車場から天文台まで、足元がライトアップされ、幻想的な長い木製階段があるのだが、
如何せん、酔っ払っている状況。
息も絶え絶えに、杖付いて帰って来る始末。
翌朝も快晴。
テントから出ると、カブトムシやらクワガタが、そこらに這って歩いている。
子供時分の私なら、目の色変えて、虫籠に捕獲しているだろう。
それにしても、今回、カブトムシやクワガタがそこらじゅうの木で、
容易に発見できたのには驚いた。
それだけ、自然が豊かなのだろう。
私に至っては今回、ほぼ手ぶらで参加したのだが、キャンプ玄人たちのお陰で、
非常に快適かつ美味しいひとときが過ごせた。
それが、句に詠み込めたかどうかは、いささか不安である。
しかし、総勢5名の子供たち、全身で遊び回っていた姿をみたら、
そんな事は瑣末な事は、どうでも良くなってしまった。
それよりも、子供たちが順番で打つ西瓜割りの方に、夢中であった。
帰り際、一緒にキャンプをした男の子から手渡された、メモ帳の切れ端。
そこには、よれよれの平仮名で書かれた、五・七・五。
その脇には、お父さん、否、お母さんの似顔絵であろうか、
ニッコリと笑っている顔が一つあった。

964声 キャンプでハイク

2010年08月21日

準備。
ったって、久しくそう言う遊びをした事が無いので、明確な持ち物が思い浮かばない。
直ぐに思いつくものと言えば、やはり、クーラーボックスと缶麦酒。
先程から、クーラーの効いた部屋で考えているが、それぐらいしか出て来ない。
今日は、「第4回ワルノリ俳゛句ing」の当日である。
今回の行き先は、ちと異色で、高山村でキャンプをする事になっている。
否、俳句をしながら、キャンプをする。
俳句をするのに、わざわざ、深山分け入って米の煮焚きなどしなくとも良さそうなもの。
しかし、何処から湧いたか、「夏休みの子供等にも俳句を」と言う声。
そう言えば、私も昔から、「キャンプ」と言う遊びに、憧れを抱いていた事を思い出し、
「じゃあ」
ってんで、今回の運びになった次第なのである。
キャンプ場で俳句が詠めるか。
あまり難儀もせずに詠めるのではなかろうかと、安直に考えている。
子供たちは、まぁ、俳句などやらずとも、自然と戯れる方が良かろう。
なんて、器の大きい言葉を吐いている私は、甚だ、アウトドアが苦手である。
我が人生、テントで寝た事などただの一度も無い。
今日が初の、キャンプの素人なのだ。
それもあって、必要な持ち物が選定できない。
取り合えず、季語帳、メモ帳、短冊、半紙、衣服、缶麦酒。
までは揃えたのだが、そこから先が、どうも進捗しない。
しかしもう、出発の時間である。
「俳句会ってのは、蕎麦屋の二階かなんかでやるものだ」
ってな既成概念だけは、部屋に置いて行こう。
それでいて、さて、どんな句が詠めるか。

963声 暑さには熱さ

2010年08月20日

依然として、暑い。
残暑である。
報道では毎日、今夏の熱中症における死亡者の数が更新されている。
そんな折だから、巷のラーメン屋などは空いているかと言うと、
これがどういう訳か、混んでいる。
私の行きつけの食堂も、ラーメンを主軸としたメニュー構成の店なのだが、
夏日にわざわざ熱いラーメンを食べに来る人がいるかと思うと、これが結構居る。
お客さんの大半は、肉体労働従事者の方々。
近所で道路工事をやっている人や、隣の工業団地に勤めている工員の人たちなど。
私の斜向かいに座って、ラーメンと丼飯をかき込んでいる、御一行。
首巻タオルのおやっさんがかけているのは、サングラス。
一見、そう見えるが、あれは溶接作業時にかける遮光眼鏡であろう。
その隣で、大盛ラーメンを啜っているニッカポッカの兄ちゃんは、
全身が素焼きした土器の如く、こんがりと焼けている。
毎日、炎天から直射される日光の為に、焼けているのだろう。
そんな光景を目の当たりにして、暑さとがっぷり四つに組んで戦っている戦士たちは、
意外と「涼」を求めないものだな、と感じた。
日がな一日、クーラーの効いた部屋なんかに居る、事務系の人。
カーエアコンを最大目盛りにして、飛び回っている、営業系の人。
いわば、暑さから逃げ回りつつも戦っている人たちの方が、
ざる蕎麦だとか、冷やし中華だとかで、「涼」を求めているような気がする。
前者と後者。
どちらが熱中症になり易いかと問えば、私は後者と答える。
これからその説明をつけるのが、医学にも栄養学にも通じていない私なので、
ここはひとつ、描写を極めて抽象的にする。
暑さと見合って、「ハッキヨーイ」と相撲を取った場合。
土俵に残れないのではなかろうかと思う。
後者が、である。
前者は暑さと真正面からぶつかり、がっぷり組んで、行事の気合い、
「ノコッタ、ノコッタ」
となる。
それに対して後者は、真正面からぶつかる暑さを交わそうとするが、
体勢を崩して、あるいはまわしを取られて、押し出し突き出し浴びせ倒し。
ってな具合に、あっさりと暑さに負けてしまう。
現に、私は依然として夏バテ状態継続中である。
兎も角、暑さには熱さをもって制す。
と言う事を食堂から学んだ。

962声 街の中の存在 後編

2010年08月19日

昨日の続きから。
「こんちは」とか、「今日も暑いねぇ」など。
銭湯へ行けば、顔見知りになった番台のおばちゃんとも話すし、
近所の常連さんとも、二言三言は会話する。
現にそこでは、常連さん同士、
「そう言えばあの人最近来ないねぇ」
なんて、まさに今日問題になっている、近所の人の「存在確認」を示唆していた。
商店も然りで、毎日買い物に訪れていると、
「兄ちゃん、最近、近所に越して来たの」
なんて、店の大将と徐々に顔見知りになって行き、
知り合えば良き話し相手になってくれる。
帰郷した群馬では、こと私の住んでいる旧群馬町と言う田舎町では、
長寿者の存在確認など、造作もない。
毎朝、裏の田圃を散歩しているおばあちゃん。
時期が来ると、稲刈りに来るおじいちゃん。
こう言う地域のお年寄りの姿が見えなくなれば、隣近所で直ぐに、
「あれ、最近、どうしたんだろ」
って事になる。
反面、私などは、
「あそこん家のせがれはいい歳してまったく…」
などと、何か行動を起こせば、直ぐに陰口が近所を駆け巡るシステムになっているが、
それはここでは関係無い。
つまりは都市部に(高齢者を含む地域住民が気兼ねなく触れ合えるような)、
「公共の場」足り得る施設が減少している事。
そう言う名目の公共施設が在っても、機能していなければ、
つまり、実際に利用者同士が触れ合えなければ、元の木阿弥である。
そして、自治体での個人情報保護法におけるコンプライアンスの在り方。
所在確認の方法について、個人情報を保護を念頭に置きながら、
どの程度まで調査できるか。
その二点に、問題解決の糸口が有るのではなかろうか。
などと、私は何故、自らに余り関わりが無さそうなこの問題に対して、
真面目腐った意見を述べているのだろうか。
こう言う社会派風な一面を覗かせたかったのだろうが、それは勿論、
自らの「文章芸」として域を出ない話である。

961声 街の中の存在 前編

2010年08月18日

最近、新聞やテレビ報道などで見るに、
「所在確認の出来ない高齢者の方々」ってのが、多く居る。
と言う事が、各自治体で露見している。
小さい自治体。
つまり田舎の方では、百歳以上の長寿者の存在と言うのが、
地域で比較的知られている為、確認に困らない。
問題は、都市部。
団地や新興住宅が造成されている、ニュータウンの様な地域に至っては、
長寿者の存在確認が非常に困難になっている。
地域の繋がりが希薄。
住民の入れ替わりも激しい。
等の現状に、近年の個人情報保護の観点から、
自治体の側も立ち入った調査をせずにいる事が、
今回の問題に拍車をかけている。
ってな状況だと、報道で知った。
確かに、私も東京に住んでいる時分などは、
自宅マンションの隣部屋に、どんな人が住んでいるかなど、知らなかった。
むしろ、「知らない」状況を積極的に作ってさえいた。
勿論、他者との無用な摩擦を避ける為でもあるし、賃貸なので、
「仮住まい」としての、薄い近所付き合い、と言う心持でいた。
社会的に個人情報の在り方が問われ始めていた時代だったので、
玄関に表札さえかけていない住民も、少なからず居た。
引っ越しの挨拶などの風習は無いし、回覧版も、地域活動も無い。
マンション一階の玄関には、鍵付きのドアが付いており、
住民ないしは、住民の知人くらいの人の行き来しかないので、
その雰囲気は昼夜共に閑散としている。
しかし、私は買い物と風呂だけに至っては、
近所の商店街にある銭湯や商店を利用していたので、
そこでは、否、むしろそこのみで、近所付き合いをしていた。
丁度時間となりまして、この続きはまた明日。

960声 新生児

2010年08月17日

赤ちゃんが生まれた。
っても、勿論私の子ではなく、近しい知人の子である。
携帯電話に送信してくれた、赤ちゃんの写真を眺めながら、これを書いている。
新生児室ってんだろうか、テレビドラマなどで見た事のある、
生まれたての赤ちゃんが寝かされるあの部屋で、寝ている。
本当に、顔が赤い。
彼はもう、本当に、この世に舞い降りたのである。
子が生まれる、と言う心情。
子が無い私には容易に推測し得ないが、きっと幸福なのだろう。
残暑厳しい部屋の中で、そんな気持ちに思い馳せている。
赤ちゃん。
ってのは光だ。
すやすや眠る、この赤ちゃんの魂は、
光り輝くエーテルの結晶で出来ている。

959声 寄席の色

2010年08月16日

10時半から21時まで。
これは、先日私が、浅草演芸ホールで飽きもせずに演芸を観ていた時間である。
昼の部が10時半から4時半。
夜の部が4時40分から9時。
しかし、浅草演芸ホールなどの寄席は、昔の映画館の様に、
(その昔は映画館が寄席にならったのだろうが)
昼夜の入れ替えが無いので、気力と体力、そして暇があれば、「通し」で観れるのだ。
入場料は3,000円。
この日一日の総出演芸人数は46人。
一人当たりで割ると、65.2円で観れると言う事になる。
ってのは、もはや寄席では御馴染のマクラである。
しかしまぁ、日がな一日演芸漬けってのも、疲れるのだが、
日の暮れた夜の往来へ、一歩踏み出した時に得体の知れぬ充実感がある。
素直な充実感で無く、得体の知れぬ感覚が混ざっているのは、
先程まで、入れ替わり立ち替わり、得体の知れぬ人たちが出ていたからであろう。
私が観覧したのは、お盆真っ只中だったので、普段とは異色だった事だろう。
客筋が、である。
この時期は東京見物の一環として観覧に来るお客さんたちで、無論、混む。
私は一日場内で、観察していたのだが、この客筋がちと面白い様相であった。
右から入って来たのは、関西弁を炸裂させている女子高生と思しき4人組。
席に着くや否なや、ファーストフードのハンバーガーを食べ始めた。
左から入って来たのは、背の高い外人さんの夫婦。
新婚旅行で日本へ来たのだろうか、スタッフの方に、
ム−ビーカメラでの撮影を叱られている。
あちらに居るのは、爺ちゃん婆ちゃんと、その孫と思しき男の子。
無理やり連れて来られたのだろうか、寄席聞きながら漫画を読んでいる。
こちらに居るのは、艶やかな女物の浴衣を着ている女の方、否、良く見れば、男。
そう、ニューハーフの方が彼氏と観に来ているのだ。
多年齢かつ多性別。
そして、多国籍かつ多地方。
それらのお客さんが、一階席二階席とも、立ち見が出るほど満員の演芸ホール。
スナック菓子の油の匂い立ちこめる場内で、混然一体となって、
うごめきどよめきながら、笑っている。
このアヤシくも多彩な客色が無ければ、寄席ってのは、
ひどく精彩を欠く場所になるだろう。

958声 第2回若手落語家選手権in前橋

2010年08月15日

春風亭一之輔さん、だった。
今日、開催された「第2回若手落語家選手権in前橋」の優勝者が、である。
準優勝は、地元群馬出身である、柳家小蝙さん。
と、激戦であった戦いの結果報告を述べるのがやっと、と言う状態。
つまりは、酔っ払っているのである。
結果報告。
だけに留めておいた方が身の為。
ってのは、酔っ払いに残された僅かな理性でもって、判断が付く。
最前列で観覧させて頂いたのだが、
切っ先鋭い芸、ってのを久しぶりに体験できた。
と、ここらで、「芸」術論に入るのは、止めておいた方が良い。
ってのは、酔っ払いに残された僅かな思考でもって、判断が付く。
あまり、「笑い」の事は、論理的に考えすぎてはいけない。
って、思う。

957声 朧月夜

2010年08月14日

月、朧にして、夜。
酒徒、東京にして、帰らざり。
何ぞ、艶かしき、泥沼かな。
我、朧にして、夜。

956声 寄席選び

2010年08月13日

盆休。
なので、先祖の墓参りにでも行けばよいのだが、
足はおのずと「遊び」の方へ向いてしまう。
今日は、これから落語を観に行こうと思う。
明後日も、前橋テルサで開催される、
「若手落語家選手権in前橋」を観に行く予定なので、
このお盆はやけに、落語色が濃くなってしまった。
まぁ、好きで観に行くのだから本望である。
何処の寄席へ行こうかと考えると、やはり、お盆ってのは矢鱈に混むので、
行く前から気が引けてしまう。
おそらく、上野の鈴本などは、昼席入場券発売開始一時間前から長蛇の列だろう。
他の寄席も然り。
池袋は、いくらかマシか。
各寄席のHPを開き、「本日の番組」で演者を確認する。
この時期の浅草演芸場では、「納涼住吉踊り」が吉例となっている。
以前から噂に聞いており、一度、観たいと思っていた。
いやそれとも、新宿末廣で三遊亭の師匠を観ようか。
池袋で紙切りの師匠を観ようか。
兎も角、電車の中で考えるとしよう。

955声 名残惜しけり宇都宮

2010年08月12日

巷はお盆。
私も、一応勤め人のはしくれなので、
ささやかながら「盆休」なる期間に入っている。
それを利用して、今日は宇都宮市まで足を伸ばした。
今回は、高崎駅から宇都宮行きの高速バスへ乗車。
時間はおよそ3時間程かかるのだが、1,500円と言う格安の料金で行ける。
何せ、お盆の期間なので、車内混雑及び交通渋滞を懸念していたのだが、
その心配をよそに、快調に行って帰って来れた。
宇都宮にはもう何度も行きましたね。
って、歌謡曲「東京」のメロディーを口ずさみつつ、目指すは、銭湯。
宇都宮市に残る3軒の内の1軒である、「東湯」。
そして、私が、「とっておき探訪」で連載している「栃木路地裏銭湯記」の、
トリを飾る、伝統銭湯。
もう3回くらいになるだろうか、訪れる時はいつも折り合い悪く、定休日だった。
しかし今日は、事前に電話確認しておいたので、万全である。
開店は午後2時半と、早い。
しかし、常連さんの方が、もっと早い。
暖簾が掛かる前から、湯船に浸かってんだもんな。
スキンヘッドの常連さんに、「兄ちゃん、我慢だ、我慢」って励まされながら、
宇都宮の熱い湯を体感して来た。
オロナミンCを飲みながら、番台のおばちゃんに銭湯の事を伺うと、
親切な方で、色々と教えてくれた。
ここ東湯は、市内に現存する銭湯で、一番古い銭湯との事。
なるほど、おばちゃんの座る木製番台が、歴史を物語っている。
話の花を自ら摘んで、足早に帰りの高速バスに飛び乗った。
日野町の屋台横丁で、もう一度呑みたくもあったが、今日中に帰らねばならない。
これでしばらく、宇都宮に行く用事が無くなったと思うと、
いささか寂しくもある。

954声 書店巷談 後編

2010年08月11日

昨日の続き。
店内レイアウトも分かり易く整理され、本もテーマ別で陳列されているので、
書籍陳列棚を眺めているだけで、買いたい本が山ほど見付かる。
そんな堅実な書店なので、また読書の秋がくれば、客足も戻って来るだろう。
などと、楽観視している、私。
だから、本たちが親孝行してくれないのか。
会話の中、いつも私は、店長に同じ質問をしてしまう。
「最近はどんな本が売れていますか」
「情報誌の○○なんか、結構、出てますねぇ」
「そうですか、やはり情報誌は強いですね、文芸では」
「文芸では○○。しかし、売り上げの大半を占めるのは、やはり実用書ですから」
「そうですか」
「7,8割を占めていますね」
「やはり読者は、実用的かつ鮮度の高い情報を求めるのですね」
「はい、それも、今日得たら今日使える情報を」
高度情報化社会。
なんて言葉は、当節では当たり前すぎて恥ずかしいくらいだが、
現代社会はそうなっている。
情報を得られるソースが多様になり、かつ、簡単に得られる。
消費者は、夏の日盛りに書店へ足を伸ばすより、クーラーの効いた室内から、
携帯情報端末で、情報を閲覧する傾向にあるのだろうか。
かく言う私だって、毎日インターネットを閲覧している。
店長から、伊勢崎市の老舗古書店が閉店セールをやっているとの情報を伺った。
そこは、以前から、郷土関係書籍を豊富に取り揃えている事で有名な店。
「掘り出し物が沢山あるよ」
との事なので、今月中に、一度足を運んでみようと思った。
今日得た情報を明日に消すのか。
今日得た情報を明日に残すのか。
後者の実現を成してこそ、高度な情報化社会と言えるのではなかろうか。
黴の生えたような古本ばかり漁っている私が、言うのもなんだが。

953声 書店巷談 前編

2010年08月10日

今日、勤めからの帰り掛けに、書店へ寄った。
私が「群馬伝統銭湯大全」を発売して、
一番最初に置いてもらった書店である。
店頭に置いてある在庫確認。
と言うのが目的だが、十中八九、売れていないだろうなと予想して行った。
その予想に反せず、我が本たちは、
クーラーのきいた店内で愛想の無い顔を並べているではないか。
しかし、この書店は県内でも稀にみる、元気な、つまりは売れている書店なので、
販売不振の元凶は、この親不孝者な本たち自身にある。
それを遡れば、結局、生みの親であり育ての親である、私が悪いと言う事に終始する。
本は兎も角として、丁度、店長がいたので、店内でしばし立ち話をした。
「いやぁ、夏に入って、めっきり駄目ですよ」
「そうですか、しかしまぁ、暑さ寒さも、彼岸までと言いますから」
「だと、いいんですがねぇ」
「そうですなぁ」
聞くところによると、普段は好調な売り上げなのだが、
今夏は、売上実績も夏バテ気味らしい。
店舗前の往来を工事している事が原因か、それとも、連日の猛暑による、客足の不振か。
何れにせよ、夏に入って、客足が落ちているとの事。
確かに、先程から店内、雑誌を読んでいる学生たちが数人いるが、
一向に、レジへ向かう客足は無い。
「書店は閑散としているくらいが良い」
などと、一人の消費者としては、不謹慎にも、そう思ってしまう。
私自身が夏バテ気味なので、掲載可能文章量超過につき、この続きは、明日に。

952声 昼行灯考

2010年08月09日

先日、財布を落とした事が響いているのか。
それとも、お盆休みが近づいて来て弛んでいるのか。
自らの体内における、「活力」が乏しい。
言うなれば、昼行灯の如き状態だろうか。
「昼行灯」
と人は揶揄する。
いやいや、案外、捨てた物じゃないと、私は思う。
夜がくりゃ、大いに重宝じゃないか。
夜は、必ず来るのだから。
「行灯ってのは夜になったら灯ける物だ」
と人は指摘する。
いやいや、夜になって灯けたんじゃ、シケて灯かないかも知れない。
そうしたら、昼行灯に頼るしかないじゃないか。
だけど、往々にしてそれは、夜が明けきらぬ内に燃え尽きてしまうだろう。
夜が来ずとも、空に暗雲立ち込める時。
昼行灯の光が、煌々と闇を照らす。
夜を待っていた行灯たちは、慌ててその火を貰って灯る筈である。
やはり、昼行灯。
捨てた物じゃないね。