日刊鶴のひとこえ

この鶴のひとこえは、「めっかった群馬」に携わる面々が、日刊(を目指す気持ち)で記事を更新致します。担当者は堀澤、岡安、すーさん、坂口、ぬくいです。この5人が月替わりで担当しています。令和8年度は4月(坂)5月(ぬ)6月(岡)7月(す)8月(堀)9月(坂)10月(ぬ)11月(岡)12月(す)1月(堀)2月(坂)3月(ぬ)の順です。

933声 プールカードと水着袋

2010年07月21日

38.9℃を観測。
昨日の最高気温を更新して、今年の最高気温記録保持市になったのは、館林である。
これが人間の体温なら、病院へ行って解熱剤注射の一本でも打っている事だろう。
しかしながら、お天道様に至っては、人間の打つ手が無い。
私たちに出来るのは、脳みそがうだってしまわぬよう、極力、炎天を避ける事くらいだ。
それでも、夏休みに入った子供たち。
元気に水着袋を振り回しながら、学校へ駆けて行く。
その光景に、プールカードと水着袋を持って学校へ向かう、
幼き頃の夏休みが思い出された。
その記憶映像には、何だか、暗欝な心持でとぼとぼと、
田の畦道を行く自分が映し出されている。
子供時分、プールが嫌いだった。
プールで仲間たちと泳ぐ事。
それ自体は好きだったのだが、プールの「授業」が堪らなく嫌だった。
ブーメランパンツを履いた体育教師が、首から下げた笛を、「ピッ」と鋭く吹くと、
横一列に並んだ私たちは、一斉に25mプールの向こう岸を目指して泳ぐ。
何だかそれは、調教師とイルカの様な、あるいは、将兵と兵卒の関係を彷彿とさせた。
つまり、服従させる者とする者。
その主従関係めいた形式が、プールを楽しむ私の子供心を、
たちまちに萎えさせたのである。
勿論、泳ぐのが遅いと、刺す様な怒声が飛んで来る。
しかし私は、先にも書いた様に、プールで仲間たちと泳ぐ事は好きなのだ。
夏休みはもっぱら、友達をそそのかして、近所の「町民プール」へ入り浸っていた。
入場料はかかるが、ここには、調教師も将兵もいない。
こちらの方が断然、自由闊達に泳げるし、そして何より、プールを楽しめる。
この日、私の部屋の勉強机上に放り投げてあるプールカードには、
私の下手くそな数字で、「38℃熱あり」と、記入してあるのだった。

932声 鰻の野望

2010年07月20日

殺人的。
と言うのが誇張でなくなる程、太陽が苛烈に照っていた。
伊勢崎市では今夏最高気温、38℃度を記録。
勿論、直射日光が照り返す、往来のアスファルト上の体感気温は、更に高い。
こう言う日は、「暑さに負けず」なんて精神こそ放擲して、
兎に角、暑さから逃げるのが得策と思われる。
でないと、新聞紙面に毎日の様に載っている、
「熱中症と見られる症状で死亡」
なんて事になりかねない。
陽炎揺らめく幹線道路。
沿道に店を構える牛丼チェーン店。
その店頭に貼ってあるのは、「鰻丼500円」と銘打たれた、野外ポスター。
釣られて入って、鰻丼を注文。
気付けば明日は、「土用の丑の日」ではないか。
知らぬ間に、この古典的キチャッチコピーが、意識内に刷り込まれており、
無意識の内に鰻を欲していたのだろうか。
思えば、ここ近年、私が食べる鰻は、決まって「丼」で、「重」の鰻なんて、
久しく食べていない。
落語の「居残り佐平次」では、貸座敷に居残った佐平次が、朝湯から上がって、
悠々と荒井屋の鰻で一杯やる、なんて場面がある。
そんな事を思い出すから、目の前の丼が、えらく情けなく思えて来た。
今夏は必ずや、蒲焼きで一杯。
と言う野望を胸に抱きつつ、炎天の路上に立つ。

931声 風のよろめき

2010年07月19日

今日は、まったくもっての、この炎天
逃げて、逃げて、逃げ惑って、それでも逃げて
逸れて
広瀬川の風がよろめいて
前橋文学館で朔太郎の足跡を見て
やはり
広瀬川の縁でよろめいて
朔太郎の足跡が
よろめいて

930声 自腹の芸に御座候

2010年07月18日

昨日、黄昏時の電車内は混んでいた。
浴衣を着たお嬢さんもいれば、スーツを来たお父さんも居る。
皆、目的へ向かっているのだろう。
夏祭りやら、花火大会やら、家族団欒やら。
「バタン」
三味線のハードケースを倒して、車内の視線に刺されている私も、
勿論、目的へ向かっている。
目的へ向かっているのだが、私の場合、行き場所が無いからその場所へ行くのである。
何だか、コーンスープに浮いている唐黍の粒のように、幾らスプーンでかき回しても、
スープに混ざれない様な心持ち。
行き場所が無い人たちが寄り集まって、演芸会が始まって。
高座、風のステージへ、若き乙女から妙齢の女性まで、入れ替わり立ち替わり。
と書くと華やかな印象だが、合間に出てくる男衆が、キチンと水を差している。
三味線に箏が鳴るってぇと、漫談、落語、小唄に端唄。
カシオトーンから歌謡曲まで飛び出して、会場を灯す和ろうそくも短くなった頃、
いよいよ真打ちプロミュージシャンの大登場。
なめらかなアルペジオの調べと、甘い歌声。
しんみりと聞いているのは、酔いも目も覚ました、座の御一同。
拍手喝采に気付くのは、自分に決定的に足りないもの。
才能である。
演芸会のなんと面白きこと。
自腹芸のなんと心地好きこと。

929声 演芸会で熱中症予防

2010年07月17日

平成22年7月の梅雨明け発表が、先程、気象庁から発表された。
現在時刻は正午過ぎだが、もう、酷暑。
冷麦を啜って、ちょいと昼寝をしていたのだが、今起きてみると、
倦怠感に頭痛のおまけが付いて来た。
熱中症の前触れではないかと思われる。
一刻も早く、頭及び体を冷やさなければならぬが、焦らないでも今日は、
涼める場所に出掛ける予定があるのだった。
今宵は、ほのじで演芸会があるので、そこで涼んで来ようと思っている。
なに、演芸会が始まって、2、3人も出てくれば、
丁度良い頃合いの「寒さ」になるだろう。
その中に、私が入って入る可能性は大、であるが。
私の場合においては、おそらく、冷汗三斗の思いなるだろう。
なんだか本格的に、頭を冷やす事態になるような気配を、そこはかとなく感じる。

928声 虫のいい話

2010年07月16日

我が部屋の中を見回すと、改めて、時候外れの野暮ったさを痛感する。
テレビの横、結婚式の引き出物の上に置いてあるのは、香典。
衣文掛けを見ると、アロハシャツの隣にコートがかけてあったりと、
冠婚葬祭春夏秋冬が混ぜこぜ状態になっているのである。
こんな部屋に居ながら、一応は花鳥風月に思いを馳せ、
毎日、俳句の一句でも捻ろうってんだから、虫のいい話である。
今宵、窓から雨上がりの夜風に乗って聞こえて来る、虫の声。
「リィィリィィリィィ」
と鳴いてるあの虫は、マツムシではなかろうか。
だとすると、梅雨明け前夜の今日では、出番がちと早い。
時候すら覚束かぬ時世だと言う事なのだろうか。
まぁ、虫なんてどうでもいい話。
なんて、大人は軽々しく言うが、そんな事を言ってられないのが子供連中である。
明日ないしは来週20日から夏休みに入る子供たちは、
しばらく、虫取りが仕事になるのだろう。
そして、宿題の絵日記には、虫のいい話が沢山記される事と思う。

927声 マッコリの去り際

2010年07月15日

先日更新された「名店のしきたり」の第26回。
今回の名店は、伊勢崎市の「韓国居酒屋J」である。
私も、記事の筆者に何度か連れて行ってもらった事があり、
本文にもあるような韓国家庭料理を堪能した。
その中、私の持つ印象を、新しく塗り替えた酒があった。
マッコリ、である。
マッコリは、飲んだ事が無いでもない。
この酒とは、その程度の付き合い方だった。
焼き肉や韓国居酒屋へ大勢で行って、誰かが頼めば飲む。
自ら進んで注文した記憶はない。
しかし、この店の自家製のマッコリは、美味かった。
マッコリってのは、韓国の大衆酒。
酒類で言えば醸造酒で、まぁ日本で言うどぶろくに似ている。
醸造酒なので、当然、酵母でアルコール発酵させて、そのまま飲む。
マッコリの場合は、雑菌の繁殖を抑える為に乳酸発酵させる。
なので、一見、強そうな酒に見えるが、アルコール度数が麦酒程度に弱く、
ほのかに酸味があるので、口当たりがとても良い。
のったりと白濁した液面を見ると、ヤクルトでカルピスを割ったような感がある。
美味い事は、確かに美味いのだが、印象を新しくしたのは、その残り方、なのである。
酒が残るってぇと、当然、碌な事が無い。
あるのは、二日酔いと自己嫌悪ぐらい。
そこがこのマッコリは、違った。
「明日苦しむ覚悟」を決めた。
と言いたい所だが、現実は酒と状況に押し流され、
次々に杯を重ねていたこの日は、日曜の夜であった。
麦酒を飲んでマッコリを飲んで、また、麦酒を飲んでと言う始末。
千鳥足で終列車へ潜り込んで、明朝、驚いた。
予想に反して軽い。
体が、である。
つまり、マッコリが残っていないのだ。
あのアヤシゲな白濁からは想像し得ない、見事な去り際。
蒸留酒の焼酎やウイスキーだと、その液面はスッキリと澄んでいるが、
去り際がなんともよろしくない。
いつまでも、居座って、昨夜の復讐に精を出す。
酒と人は、見た目で判断できない所がある。
などと、格言めいた締め括りをしようと思ったが、止めて、蛇足する。
もしかしたら、韓国料理とマッコリの相性が良かったのかもしれないと、
書きながら思った。
そう言えば、唐辛子や発酵食品が多い韓国料理は、
いかにも新陳代謝が活性化しそうである。

926声 人に食あり物語あり

2010年07月14日

私は食事に関して冒険しない性質である。
つまり、食に関する好奇心が薄いのだろうが、通っている食堂などへ行っても、
一度これと決めると、何年も同じ品物を注文をする。
食堂の大将に、「いつものね」なんて言われるタイプである。
相反して、好奇心旺盛な人も、勿論いる。
そう言う人と一緒に食堂などへ行き、メニューに変わった品を見つけると、
即決で「じゃあ、食べてみよう」と言う事になる。
私の身近では、ほのじ氏が、職業柄と言う事もあろうが、まさにそのタイプ。
俳句ingなどで訪れた、見知らぬ土地の一見居酒屋で、
メニューから何やら得体の知れぬ料理を見つけ出す。
(いつぞやは、ダチョウの刺身だったかタタキだったか)
すると、即座に店員を呼び、喜々とした眼差しで注文している光景を、
何度となく見た。
先日、そんな、食に暗い私が読んでも、とても面白く感じた食の本があった。
嵐山光三郎氏の『文人悪食』(新潮社刊)である。
漱石、鴎外から池波、三島まで、日本文学史に名を成した37名の文士たちの食卓事情、
ことにその「悪食」ぶりが、氏によって軽妙に描かれている。
アイスクリームとビスケットが好物の漱石。
饅頭をご飯の上に乗せて、煎茶をかけて食べるのが好きな鴎外。
群馬県に縁のある作家で言えば、ウイスキーをサカナに睡眠薬を常用していた安吾も、
「とも食い」と称してアンコウ鍋を好んで食べていた。
そして、洋食好きで知られる朔太郎も、東京の借家を転々としながら、
毎晩、酔っ払っては終列車に転がり込む毎日を送っていていた。
そんな折、夜中にただ独りで食う、母が作った握り飯の味に、悲哀を感じていたのだ。
文人の作家生活の中で「食」を照射する事により、有名文学作品が持つ、
裏舞台を見事に浮かび上がらせている。
元雑誌編集者であった氏は、壇一雄の担当編集者であり、
多くの文士と直に付き合っているので、内容も深く貴重なものが多い。
やはり、昨今「文豪」なんて言われる方々には、
その私生活にも、常人とは異なる「食物語」があるようだ。

925声 カンカン帽の娘

2010年07月13日

今日、勤めの帰りにショッピングセンターへ寄った。
この「センター」ってのはもう旧時代的で、巷では「モール」ってな事を言う。
今時のショッピングモールとやらは、何しろ入っているテナントの数が多い。
店内のパンフレットにて、確認すると、およそ170店舗らしい。
住み慣れた町で、私が地図を必要とするのは、この店内だけである。
ようやく、目当ての店を探し出して、足を止めた。
ここは帽子屋である。
手頃な「カンカン帽」を求めてやって来た。
今時は、そう昨年辺りから、若い女性の間で、このカンカン帽が、
爆発的な流行になっている模様。
雑誌を見ても巷を見ても、猫も杓子も、カンカン帽の娘だらけである。
然るに、この帽子屋で手ぐすね引いている若い女性店員も、被っているのである、
カンカン帽を。
そんな状況なので、どうにも邪推してしまう。
店員との噛み合わぬ会話を、である。
「こんにちは、今日はどんな帽子をお探しですか」
「へい、えぇ、カンカン帽を、ひとつ」
「カンカン帽ですね、こちらの品物などは、今夏流行の〜」
なんて言って、この店員が手にしているのは、明らかに女性用のカンカン帽。
「あぁ、いえ、プレゼント用ではなく、自分の、カンカン帽なのですが」
「えっ、お客様の、カンカン帽ですかぁ」
と言いつつ、訝しむ眼光を浴びて、たじろいでいる、自分。
そんな会話及び状況に怯えつつ、店員の目をかいくぐって、
店内の隅でこそこそと帽子を物色。
すると、商品陳列棚の上に、男性用と思しきカンカン帽がひとつ。
値札は、福沢諭吉に気を持った程度の価格。
「けっこう値が張るな」
などと、考えていたら、案の定、悪魔の囁き。
「こんにちは、何かお探しですか」
ギクリと狼狽しつつ、直ぐ前に陳列してある、洒落た中折れ帽子を手に取って答弁。
「えぇ、まぁ、良い帽子があれば」
「そうですか、良かったら、試してみて下さい」
差し出された鏡で、その帽子を被った自分の顔を映して見ると、
これがまた、似合わねぇでやんの。
「うぅん、まぁ、すこし、あれですな、そうかそうか」
煙に巻いて、そそくさと逃げ帰って来た始末。

924声 遊鄰座の大活辯上映会

2010年07月12日

昨日は桐生市で開催された、大活辯上映会へ行って来た。
主催は、遊鄰座で「活弁」実行委員会。
会場は、有鄰館の煉瓦蔵。
有鄰館に足を踏み入れるのは、この日が初めてだった。
蔵内の雰囲気に、成程、各種イベントスケジュールが数ケ月先まで埋まっている、
人気スポットたる所以を理解させられた。
チラホラ、立ち見が出る程の盛況ぶり。
演目は、澤田正二朗の国定忠次、ハロルド・ロイドの豪勇ロイド、
阪東妻三郎の坂本竜馬。
勿論、三本とも白黒の無声映画で、私は観た事がなかった。
それもその筈、前の2つは大正時代、最後の坂本龍馬でさえ、昭和3年の作品である。
活動写真弁士(活弁士)を務めるのは、
麻生八咫(あそう・やた)子八咫(こやた)親子。
映写するのは、桐生和紙を貼って作った大型スクリーン。
この味のあるスクリーンに映し出される映像に向かって、「語る」のである。
あらすじ、セリフ、効果音の全てを人力で映像に合わせるのだが、
その臨場感たるや、現代映画を凌ぐが如し。
弁士が語る事により、映像が見えなくとも楽しめる。
そう、録音で聞く落語みたいに。
「チントンシャン」
このオツな音色は、地元桐生の「山茶花の会」の方々が三味線と尺八で奏でるお囃子。
スクリーン一杯に映し出されるのは、ギラリと愛刀の小松五郎義兼を抜く国定忠次。
そこに響くのは、弁士の朗々とした語り。
「赤城の山も今宵を限り〜」
これを聞くと、生粋の桐生人は血が滾るのだろう。
私の隣に座っているおばちゃん、固く拳を握りながら、映像に喰い付いている。

923声 信州の香

2010年07月11日

台風一過を思わせる、夏空。
思い立って、午後3時。
向かったのは、北高崎駅。
部活帰りの高校生に紛れて、乗り込んだ電車は、信越線。
碓氷川沿いに広がる、水田と町。
その中、彼方の妙義山へ向かって進んで行く。
およそ30分走ると、列車は終点の横川駅へ到着。
ドアが開いて、一歩。
碓氷峠から吹き来る風は、そこはかとなく、信州の香。

922声 夜空の煌めき

2010年07月10日

昨夜の大雨暴風警報発令下に、自転車を漕いでいた。
雨はそうでもないが、手に負えないのは風。
まるで台風の如き暴風雨であった。
合羽を着ていなったので、目的地へ着くまでに、大分、濡れてしまった。
用事を済ませて帰る頃、雨はしとしと。
雨の日は、高崎中央銀座のようなガード商店街に批難する酔客が多い。
その為、昨夜も随分と人出があり、一時、かつての繁華が戻ってきたようであった。
そうこうするうちに雨もすっかり上がり、台風一過の様な清々しい夜空が現れた。
去り際に連れて行ってしまったのだろうか、どこを見ても月の姿が見当たらない。
繁華街から遠ざかるにつれ、星も瞬きを増してくる。
漕ぎ疲れて空を見上げれば、目の前に夏の星座がある。
空気も入れ替わった様に清浄で、自転車でのろのろと走行するのが、
とても心地好い。
榛名山と赤城山を隔てる町へ、灯りの無い郊外の夜道を北上して行く。
西の空に、強い輝きが一瞬。
あれは、流れ星。
それとも、電線から垂れ落ちて煌めいた、雨水一滴。

921声 味噌胡瓜

2010年07月09日

今日、行きつけの食堂のおばさんに、胡瓜を沢山頂いた。
何でも、プランターで自家栽培しているらしい。
成程、定食に付いてくる、茄子と胡瓜の糠漬けの味が、絶品であった。
早速、自宅へ持って帰って、水で洗いし、一本かじってみた。
味が、極めて濃厚である。
量販店で袋詰めして売っている胡瓜とは、やはり一線を画す。
こちらの方は、見た目から言って、野性感に溢れている。
その形は、捻り曲がっている無骨な頑固者と言った印象である。
コイツは畳の上で死ぬようなたまではあるまいと、
塩を擦り込んでバリバリと、手掴みで丸かじりした。
そう言えば2、3年前。
飛騨高山を訪れた際に、露店で売っている胡瓜を食べた。
その露店は、味噌蔵の実演販売。
買った胡瓜に名物の赤味噌を塗り付けて、丸かじりにする。
真夏の炎天の下、水で晒した胡瓜と赤味噌の味は、これまた、格別だった。
格別なのだが、赤味噌を塗った胡瓜の見た目と言うのは、どうにも解せないものがある。
味噌をどう塗っても、一向に美味そうな見た目に仕上がらない。
味噌を塗ったくられた胡瓜も、あの時ばかりは、
どこか恥ずかさの裏に、そこはかとない悲しさが見え隠れしていた。

920声 ネラレマセンカクマデハ

2010年07月08日

夜半に寝床でうとうとしていると、
何処からともなく、
声が聞こえる。
ネラレマセンカクマデハ
のそのそと寝床から這い出して、
パソコンの前に、
突っ伏している。
急かすんじゃねぇやい。
扇風機の分際で。

919声 不況に和音

2010年07月07日

終日、バルサンをたいたような、曇天。
判然としない雲間から、太陽の気配だけが見え隠れしていたのだが、
日が傾いてからは、俄雨。
お陰で幾分か、風が涼しくなった。
最近、週に一、二度は三味線を触るようにしている。
触る、ったって、膝の上でただ撫でまわしているだけでなく、
ちゃんと撥で弾いてみたりする。
この三味線、年末に買ったのだが、まず何三味線なのか、未だに判別がつかない。
津軽か民謡か、然るべき本やネットで調べれば、一目で分かると思うのだが、
それも何だか億劫で、中々実行に移せない。
それでも、東さわりが付いていて、胴が津軽ほど大きくないので、
民謡三味線かと踏んでいるのだが、一向に確信が持てない。
そんな、まさに今日の空模様の如き状態なので、現在使用している撥も、
リサイクルショップで購入した、得体の知れぬ木製の撥。
そのアヤシゲな組み合わせが、判然としない三味線を、
さらにおぼろげな状態にしている。
私は、なまじギターが弾けるので、三味線を軽視している。
つまりは、「直ぐ弾けるだろう」とタカをくくっているのだ。
そう言う気持ちが、現在のおぼろげな状態に起因しているのだろう。
それでも、弾く。
出鱈目に音を合わせ、
出鱈目に三味線を抱きかかえ、
出鱈目に撥で弾く。
音は、
そりゃもう、
滅茶苦茶、
酷いものである。
それでも、弾く。
それでも、
出鱈目に、
それでも、弾く。
今月の幾日だったかに、小さな演芸会がある。
それに出演する為の、練習。
形式やら教則やらを、一から放擲して三味線を弾いたらどう言う事になるか。
その惨状を観客にぶちまけてやろう、と言う企みを、密かに胸中に秘め、
当日を迎えようと思っていた。
しかし、今は、その企み、そしてこの三味線さえも放擲して、寝床に寝転んでいる。

918声 砕け散った流れ星の物語

2010年07月06日

明日は七夕である。
七夕は明日なのだから、明日この内容を書けばよいものだが、
思い付いてしまったので、今日書く。
一年前の今時分、伊勢崎市の相川考古館で行われた、川柳会に参加した。
うろ覚えだが、席を囲んだのは、私を含め12、3名。
しかし、最優秀賞に選ばれた川柳だけは、鮮明に記憶している。
天の川渡り切れずに流れ星
なるほど、仄かにメランコリックな香り漂う、口当たりの良い川柳だと思う。
川柳としての善し悪しは、会の当事者が決める事なので、
この期に及んで言及するまでも無い。
問題は作者である。
作者は、Iさんと言う男性。
私よりも年嵩は随分と上の方だが、数年前から親しく付き合わせて頂いている。
と言っても、私がIさんと会うのは、十中八九、どこかの酒席である。
そして、酒席でのIさんに、私はいつも感心する。
それは、要望の貫徹だけを試みているからなのである。
その為、徹頭徹尾、女性を口説くのである。
私は未だかつて、Iさんが女性に対する悪口を聞いた事が無い。
反面、同性に対する悪口は、悪口に留まらず、罵詈雑言である。
それも、サラリと器用に川柳を詠む人だから、言葉の刺を絶妙に抜いている。
だから、座を心地よく沸かせるのが上手い。
先日も、とある酒席で久しぶりにご一緒したが、男などには目もくれていない。
しかし私は、Iさんと会うと、一緒に杯を重ねる事が多い。
「あんたはべつ」
と言う、何だか複雑な心境になる言葉を頂戴しているからだ。
その結末はと言うと、千鳥足で、街の闇に独り消え行くIさん。
と言った具合である。
先日も、酣になった酒席。
私は帰りがけに、空のジョッキ片手に、ぽつねんと虚空を見つめながら、
座っているIさんの姿を見た。
天の川を渡り切れない流れ星は、何の事は無い、自分だったのだ。
年に一度、天の川の橋を渡って逢う、織姫と彦星よりも、砕け散った流れ星の物語を、
私は読みたい気がする。

917声 喝采と野次

2010年07月05日

夜半、外ではしっとりと雨が降っている。
薄い雨蛙の声と共に、迷い込んで来た夜風が、時折、カーテンを揺らす。
こんな宵は、一刻も早くこれを書き終えて、
読みかけの長編小説の世界に潜り込みたいのだが、毎度、そうは問屋が卸さない。
その為、毎晩厨房に入って、一仕事。
生活体験の断片を、幾つか見繕って鍋に入れ、煮詰めて行く。
時に煮詰め過ぎて、あるいは、煮詰める具材が少な過ぎてか、鍋に焦げつく。
その、おこげをガリガリと、ヘラでもってこそげ落とし、皿に盛り付ける。
今日の皿。
盛られたおこげをよく見ると、「917声」と書いてある。
夜を打つ雨蛙の声滔々と
喝采だろか
それとも野次か

916声 怠惰極まり

2010年07月04日

快晴。
とまではいかないが、良く晴れた一日だった。
梅雨なので、空にはチラホラ、怪しげな雲の残党が漂っている。
しかしながら、雲間から注ぐ薄日が山の輪郭を際立たせ、
吹く風に、雨上がりのような透明感を感じる。
窓から見える、榛名山。
山間にたなびく靄が西日に照らされ、幽玄な雰囲気を醸し出している。
その眩い濃淡は、どこか水墨画のような印象。
寝てる間に汗をかく為か、夏は二日酔いに陥る割合が低い気がする。
今朝も、昨夜の深酒にも関わらず、二日酔いにはなっていない。
しかし、如何ともしがたい、倦怠感。
調子に乗っていた自らの抜け殻が、背中にしがみ付いているかのようである。
「よし、午前中はオマエにくれてやる」
昨夜のツケを払う意味を込めて、この抜け殻が消えて無くなる事を願いつつ、
静かに午前中は寝ている事にした。
午後になっても、抜け殻が居座り、そうこうしている間に日暮れ。
寝床の文庫本を読み終えて、やっとこ本格的に起床。
そして今、窓から榛名山を眺めつつ、独り黄昏ていると言う、怠惰極まりない次第。
極まって、そしてまた、冷蔵庫から、始まりの一缶。